鬼平犯科帳

別に『鬼平犯科帳』の悪口を言いたいわけではないが、あれは結局、江戸時代を舞台に今の刑事ドラマを作り替えただけのものであり、だから一般受けするのだ。

元は同じで、そのアレンジ次第で時代劇にもなり、『相棒』にもなる。ただそれだけのことだ。結局人はいろんなものを見ているようでごく狭い限られたものを見ているに過ぎない。

別の言い方をすれば刑事ドラマにしても、今の現実の刑事やら警察官をきちんと取材すれば、全然違う作り方をすることができるはずで、全然違う『亀有交番前』ができるはずだ。だがそのためには一からネタを仕込み、まったく新しいプロットを考えねばならない。そんな売れるかどうか当たるかどうかもわからぬことに労力を費やす人などいないのだ。

eumenes english edition

人に言われてその気になって、『エウメネス1』を英訳してみたものの、ほとんど誰にも読まれないってことがわかっただけだった。英文ならどんどん読者を獲得できるのではないかと期待したが、そんなことはなかった。

和文と英文を分離して、和文は縦書きに戻すことにした。やはり縦書きのほうが全然読みやすい。

今回書き足してしまってずいぶん長くなった。短ければあっさりしすぎていると思われ、長いと飽きられる。簡潔で読みやすく、気がつけば次々に読んでしまって、長さを感じさせないというか、長さが気にならないようなのが良い文章なのだろう。誰も別に長編を読みたいわけではないのだ。面白い作品なら、長ければ長いほどうれしいだけなのだ。

英文もせっかく書いたからどこかにタダで公開しようと思うのだが、英文の小説投稿サイトはもちろんたくさんあってそっちに投稿すりゃ良いのかもしれんが、そこにもまた有象無象の小説があって、結局は埋没してしまうのに違いなかった。

日本語の投稿サイトもいろいろ検討してみたものの、どこも英語の匂いがしない。小説サイトなのに学問の匂いがしない、というのは変な言い方かもしれんが、ああいう文芸サイトというものには、結局、私は受け入れられない気がする。

まだハテナブログのほうが、英文に関心を持つ読者いるのではなかろうかと思われたので、とりあえずこちらに公開することにした。

一度に公開しないのはもったいぶっているせいではなく、マジで最近時間が無いからだ。私の場合、趣味と本業が分離してしまって久しい。もう10年以上そうだ。しかし、少しばかり、本業にも身をいれようと思うようになった。

本業と趣味を分離してしまうと趣味ばかり本気になってしまい、それはそれで疲れる。

やはり学閥というものはあるのだと思う。大学の同期や先輩後輩、師匠はやはり頼りがいがあるものだ。自分の実力だと思っていても、実は学閥というマーケティングないしは広報が効いているからこそ、社会に露出し、世間に認めてもらえるのだ。

つまり学者になりたければアカデミアのコミュニティに属しなくてはならず、小説家になりたければジャーナリズムのコミュニティに属さねばならぬ。そのためには大学に入るのが一番良い方法だ。だからあんな一見何の役にも立たない大学というものが存在しているのだ。

自分が属する世界に飽きてしまってその外の世界で活路を見いだそうとしても、うまくはいかない。逆に自分の学閥の中でぬくぬくと活動していて、良い気になっていても、それはほんとうの実力ではない。ホンモノでなければいずれ遠からず忘れ去られるだけだ。

二足のわらじというが、単に本業と副業があるというだけではないのだ。複数のコミュニティに属するにはどうすれば良いか。一つの大学を出て、年を取って他の大学も出ればよいのか?なるほど、それもありかもしれない。しかし今更他人の弟子になって頭を下げる気など起きない。そこまでして他人に搾取されたくない。

世の中は実に馬鹿げている。身内で盛り上がっているだけではないか。そんなものは死んでしまえば何も残らない。学者ならば常日頃学者を観察しているはずだ。そこから導かれる結論は学者は馬鹿だという以外無いはずだ。それなのに、学者のくせに学者を擁護する。そういう学者ばかりだ。

海苔弁

こないだ海苔弁の危機というものを書いたが、あれは間違いだった。

海苔弁にはやはり需要がある。

昼時、一番最初に売れてしまうのだ。だからちょうど、朝11時くらいにいかないと手に入らない。

海苔弁に人気がある理由は要するに安いからだ。鮭弁とか幕の内よりも、100円くらい安い設定にしなくては売れない。単価が安いからほんとは売りたくない。しかしよく売れるからその価格設定は崩せない。だから、めちゃくちゃ流行りはしないがしぶとく生き残る。

スーパーやほか弁屋ではそうだが、コンビニはまた違う。コンビニもまた、品揃えは豊富にしたいのだが、余力が無いところは、安くてボリュームがある鶏の唐揚げがメインになってしまうのだろう。

ほか弁屋は待たされるから嫌だ。待たされるくらいなら遠くのスーパーに歩いて行ったほうがましだ。あちこちスーパーを巡って海苔弁研究でもしてみるか。

センター・オブ・ジ・アース 2

『センター・オブ・ジ・アース 2』という映画があってこれは『センター・オブ・ジ・アース 』の続編なのだが、全然地底探検になってないのにこの日本語タイトルにした人はどういうセンスなんだろうねしかし。 『サスペリア』と『サスペリア2』の前例もあるしもうどうでもいいんだろうねマーケティング的には。

『センター・オブ・ジ・アース 』は原題が『Journey to the Center of the Earth』で、原作はジュール・ヴェルヌの『地底旅行(Voyage au centre de la terre)』だから、これはいいんですよ。『センター・オブ・ジ・アース 2』の原題は『Journey 2』。まあこれじゃ邦題考えるの大変だったかもしれんね。

で、雰囲気は完全に『ジュマンジ』(新しい方の)なんだけどさ。まあいいんですよ。さらっと最後まで見れたので、嫌いじゃないです。 ヒロインはほとんどララ・クロフトだった。 プロットはほとんど『天空の城ラピュタ』だった。というかオマージュのつもりなのか? 何にも考えずに飯食いながら見るには良い作品で、『ターミネーター』みたいに途中胃が痛くなるような展開もなくて、淡々と楽しく見させてもらえる作品だと思った。 日本でいうところの劇場版ドラえもんみたいなものか。

ツイッター見ているといつも「何言ってんだこいつ」ってリプライかリツイートしたくなって、精神衛生に悪いので、見ないで、あるいはそこはいったんためといて、ブログなぞにグダグダ書くのが良かろうと思う。 学者が馬鹿だというのは自明の理であって、 社会に適合して器用に生きることを諦めて、その代わり、学術的に何か生産的なことをやって、 世の中の片隅に住まわせてもらおう、そういうやつだけが、学者として良い仕事をする。 社会に出ればたちまち無用の長物になってしまう。いや、社会で役に立とうとすれば立たなくもないかもしれないが、そういう宮仕えは死ぬほどいやだ、 だから学術界に引き籠もっているのだ。

いやしかし馬鹿で社会不適合でしかも学才もなく貪欲でしかも世の中に害悪を垂れ流す連中がたくさん淘汰されずにいるのも事実であるが、それは淘汰の仕組みがうまく働いていないのが悪い。で、淘汰がうまく働くようにしようとすればするほどその仕組みは改悪されていくので、手をつけないほうがまだましだ、というただそれだの理由でなかば放置されている。だから、ああいう盲腸みたいなものが出てくるのはある意味仕方ない。 膨大な無駄遣いをしてるのもある程度まではその性格上しかたないと思う。 自然淘汰は無駄を省くこともあるけれど、必要がなければそのまんま放置することも多い。それだけのことだ。

盲腸も別に炎症を起こさないのであれば大した実害はない。わざわざ開腹手術をして摘出するほうが体に害になる。 だから、ほっとけばよいのだが、これが腐敗して、化膿して、体中に毒素をまき散らす状態になったら、そりゃ手術したほうがよい、ということになる。

海苔弁の危機

コンビニ弁当の角はもう少し丸くしてもらえないものだろうか。 電子レンジの中で回りにくくて困る。

近頃はコンビニのせいで弁当屋が減ってきていると思う。 セブンイレブンもwebサイトを見るといまだに海苔弁をメインにもってきてはいるが店頭ではあまり見かけない。 人気なので最初に売れてしまうのだろうか。 ほかの某系列だととにかくもうやたらと鶏の唐揚げばかり並んでいて、選択の余地がない。 セブンイレブンはまだ選択の余地があるぶん良いといえば良いが、カルビ丼とかそういう重いやつが目立つ。 スーパーの惣菜コーナーでも海苔弁はあまりみかけなくなりやはり鶏唐が優勢だ。

昔は弁当屋の弁当と言えば、高い方が幕の内で安いほうが海苔弁だった。まずこの二つは常にガチであったと思う。 鶏の唐揚げはおそらく原価がものすごく安いのだろう。 海苔弁はもとは安かったが最近は割高になりつつあるのではなかろうか。

このままでは海苔弁が絶滅危惧種に指定されるのではないかと心配だ。