[ウィキペディア「夢」](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A2#.E7.A5.9E.E7.B5.8C.E7.94.9F.E7.90.86.E5.AD.A6.E3.81.AB.E3.81.8A.E3.81.91.E3.82.8B.E5.A4.A2.E3.81.AE.E7.90.86.E8.A7.A3)
にも、

> 夢を見る理由については現在のところ不明である。

などと書かれているのだが、
どうも夢というのは、
外部からの感覚が遮断された状態の脳の活動そのものではないか。
私たちは夢というものを寝ている間に見る不思議な演劇のようなものだと考えがちだ。

睡眠というものは、脳を休ませるためのものというよりも、
身体や、視覚や聴覚などの感覚器官を休ませるものだとしよう。
眠ると脳は感覚が遮断される。
脳もまた眠るが、身体よりも先に脳は目を覚ましてしまう。
外部からの刺激がまったくない状態の脳は幻覚を見る。
それが夢である。

外界を見たり、音を聞いたり、他人と話をしたり、食事をしたりすることによって、
脳は情報を得て、外界や他者に対して反応しなくてはならない。
外から得られるバイアスによって人は、いや、動物というものは、正常に行動できる。
というよりも、バイアスのもとに行動が最適化されるように進化し、淘汰されている。
外界からの刺激がない場合の脳の働きは定義されてない(する必要がない)から、
幻覚となり、夢となる。

人も動物も無重力ではうまく動き回ることができないが、
重力下では歩いたり座ったり寝転んだりすることができる。
それと同じだ。
凧は糸が切れると制御不能になる。
糸というバイアスがあるからこそ凧は安定して浮かんでいられる。

外界からの刺激がない状態では脳はうまく動くことができず、
浮遊し、くるくる回って飛んでいってしまう。
それが夢なのだ。
動物の見る夢もそれで説明つくのではないか。

つまり、人工知能とか人工の自我とか、
自我エンジン、意識エンジンというものが発明されたとしよう。
外部からの刺激がまったく無い状態で、それはただ空回りするしかない。
それが夢だ。
逆に言えば、
人工知能を作りたければまず無入力状態で夢を見る機能を持たせなければならない。
そこに外部から刺激を与えることによって反応するように仕込む。
意識というものはただそれだけなのではないか。
夢にも、それ以上の意味もそれ以下の意味もないのではないか。
だから、クラウドの中に人工知能だけが存在していても役に立たない。
それはただクラウドの中を浮遊しているだけだ。
人工知能は個体の中に入れてやり、目を付け耳を付け手足を付けて、
自己存続のモチベーションを与えてやらないと、知能として成立しないのではないか。

で、夢というものがそういうものだとして、
では夢から小説のネタができるか。
うーん。場合によっては偶然できるかもしれない。

ある種の薬物は感覚を狂わせたり遮断したりするのかもしれない。
だから脳は幻覚を見る。
脳が麻痺したり興奮したりするから幻覚を見るのではないのかもしれない。
脳とはもともとそうしたものなのだ。

作御歌

古事記の読み下しというのはいったいだれがどうやってきめたのか、よくわからんのだが、
「作御歌」は「みうたよみしたまふ」と訓じているようである。

思うのだが、「御」を頭に付けて敬う用法は漢語にはなくて、
本来は「統御」「還御」などのように、
動詞の後に付けて天子の行いであることを示したもののようである。
だから、「作御歌」を「御歌ヲ作ル」と訓むのはおそらく間違いで、
「歌ヲ作御ス」すなわち「歌を詠みたまふ」と訓むべきではなかろうか。

万葉集にも動詞を伴わず「御歌」とあるところもあるが、
これは「歌を御す」つまり「歌をよみたまふ」と訓じるべきではないか。
それが和語の「みうた」とか「おほみうた」などと混同されて、
「御」に「み」とか「おほみ」とか転じて「おん」「お」などの訓に使われたのではなかろうか。
中国人はトイレで「御婦人」という文字を見て「婦人を御す」のかとびっくりするそうだ。
「御名御璽」も漢語では意味が通らない。

「作」もややこしい語であり、「つくる」とも「なす」とも「なる」とも読む。
従って「作歌」を「うたをよむ」と訓じてもおかしくない。
そもそも古今集の時代には歌を作るという言い方はなかった。
かならず、歌を詠むと言った。
奈良時代もそうだったと考えるのが自然だ。

ちなみに「詠」は「永い」「言」と書くように、
漢語の本来の意味は、声を長く引っ張って言うことをいう。

傘松道詠

道元歌集

> 春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷しかりけり

> おし鳥や かもめともまた 見へわかぬ 立てる波間に うき沈むかな

> 水鳥の ゆくもかへるも 跡たえて されども道は わすれざりけり

> 世の中に まことの人や なかるらむ かぎりも見へぬ 大空の色

> 春風に ほころびにけり 桃の花 枝葉にのこる うたがひもなし

> 聞くままに また心なき 身にしあらば おのれなりけり 軒の玉水

> 濁りなき 心の水に すむ月は 波もくだけて 光とぞなる

> 冬草も 見へぬ雪野の しらざきは おのが姿に 身をかくしけり

> 峯の色 渓の響きも みなながら 我が釈迦牟尼の 声と姿と

> 草の庵に 立ちても居ても 祈ること 我より先に 人をわたさむ

> 山深み 峯にも尾にも こゑたてて けふもくれぬと 日ぐらしぞなく

> 都には 紅葉しぬらむ おく山は 夕べも今朝も あられ降りけり

> 夏冬の さかひもわかぬ 越のやま 降るしら雪も なる雷も

> 梓弓 春の嵐に 咲きぬらむ 峯にも尾にも 花匂ひけり

> あし引の 山鳥の尾の 長きよの やみぢへだてて くらしけるかな

> 心とて 人に見すべき 色ぞなき ただ露霜の むすぶのみして

> 心なき 草木も秋は 凋むなり 目に見たる人 愁ひざらめや

> 大空に 心の月を ながむるも やみにまよひて 色にめてけり

> 春風に 我がことの葉の ちりけるを 花の歌とや 人の見るらむ

> 愚かなる 我は仏に ならずとも 衆生を渡す 僧の身ならむ

> 山のはの ほのめくよひの 月影に 光もうすく とぶほたるかな

> 花紅葉 冬の白雪 見しことも おもへば悔し 色にめてけり

> 朝日待つ 草葉の露の ほどなきに いそぎな立ちそ 野辺の秋風

> 世の中は いかにたとへむ 水鳥の はしふる露に やとる月影

> また見むと おもひし時の 秋だにも 今宵の月に ねられやはする

全体的に普通。
あまり説教臭くない。

最初の歌が一番有名らしいがあまり感心しない。

> 目には青葉 山郭公 初松魚

を思わせる。
江戸時代の俳人山口素堂の句というが、
道元の影響を受けていたかいなかったか。

「色にめてけり」がよくわからん。
「色に愛でけり」ではあるまい。
「色に見えてけり」ではあるまいか。
俊成の歌に、

> たかさごの をのへのさくら みしことも おもへばかなし いろにめてけり

とある。
慈円のようにつまらなくもないが、
俊成や西行にははるかに及ばない。

> 都には 紅葉しぬらむ おく山は 夕べも今朝も あられ降りけり

これが少し面白い。
道元より後の人だが、宗良親王に

> 都にも しぐれやすらむ 越路には 雪こそ冬の はじめなりけれ

がある。
道元と宗良親王には接点がある。
「将軍放浪記」に書いたとおりだが、
越後、越中と放浪し越前の新田・名越氏らを頼った宗良親王が、
永平寺に立ち寄ったかどうかまではわからぬが、
道元の境遇を自分と重ね合わせて詠んだ歌であっただろうと思う。
も少し調べてみると、道元の三十才年長で藤原範宗という人がいて、

> 都だに 夜寒になりぬ いかばかり 越の山人 ころもうつらむ

とあるが、道元はこの歌を本歌としたのではなかったか。

> 夏冬の さかひもわかぬ 越のやま 降るしら雪も なる雷も

これと先の「都には」の二つは、奥越前永平寺の暮らしを偲ばせる秀歌と言ってよい。

北条時頼が道元を鎌倉に招いたのだが道元は越州に帰ってしまった。
鎌倉時代からの禅宗の寺はたいてい臨済宗で、
曹洞宗の寺は戦国以後のものしかないようだ。

見しやいつ

正徹

> 見しやいつ 咲き散る花の 春の夢 覚むるともなく 夏はきにけり

なかなか巧んだ歌である。
「春の夢覚むるともなく夏はきにけり」
まさに今の季節をうまく言い表しているなあと思う。
「見しやいつ」
もなかなか斬新な言い回しだなと思って検索してみると、
どうも明日香雅経が最初らしい。

> あきはただ かれぬるかさは みちしばの しばしのあとと みしやいつまで

「かれぬるかさは」は「枯れぬる風葉」で合っているだろうか。

初句切れで反語または疑問というのは小野篁以来よく使われる形だが、
「見しやいつ」は「冬の御歌の中に」後伏見院御製

> みしやいつぞ とよのあかりの そのかみも おもかげとほき くものうへのつき

が最初か。
典型的な京極派だよね?
後伏見院が京極派かどうか明記されてはいないが、
父の伏見院も弟の花園院も京極派だから当然京極派だわな。
字余りだがちゃんと母音の連続という規則で回避しているのが見事といえば言える。

正徹にはもう一つあり、

> 見しやいつ 心とけつる うづみびに 春のねぶりの 冬の夜の夢

こちらはあまりに狙いすぎてていやみだなあ。
ていうか正徹が京極派をまねているというのが、不思議な気もするし、
全然当たり前な気もする。

> 秋の風 立てるやいづこ みそぎせし 昨日も涼し 四方の川浪

「立てるやいづこ」これも同工異曲か。

> 春霞 たてるやいづこ みよしのの よしのの山に 雪はふりつつ

古今集詠み人知らずの歌。
うーん。
正徹よく勉強して、本歌取りしてる感じだわな。
そこらへんは定家に近い。

一休は正徹の弟子で、正徹物語下巻「清巌茶話」は一休が正徹の言葉を聞き書きしたというがほんとかね。
正徹物語を読む限り正徹がかなりの変人で乱暴者であったのは間違いないのだが、
このころの臨済宗の僧というのはみんなそんな感じであったろうか。

釣月耕雲と禁葷食

相変わらず「山居」が良く読まれているのだが、
それでいろいろ人とも話をしてみて、
果たして道元は魚を釣って食ったのか、ということを、
もすこし突き詰めて考えてみる必要があるなと思った。

道元の時代、親鸞も日蓮も末法無戒を主張し、肉食を禁じなかった。
一休も、また、済顛も肉を食べた。
道元だけがどうして食べなかったと言えるだろうか。
我々は道元を今の永平寺のイメージでとらえるから、肉など食べたはずがないと思う。
しかし、当時中国でも日本でも、
僧侶が肉を食べてはいけないという規範はなかったのではなかろうか。

どうも[禁葷食](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E8%91%B7%E9%A3%9F)
など読むと、
中国仏教における菜食主義というのは、道教の影響によるものではないか。
というのは、肉だけでなく、ニンニクやニラなどの臭みの強い植物を食べないというのは、
中国の神仙思想から来ているように思えるからである。
カレーとスパイスの国インドでニンニクを食べないはずがない。

宋の時代には新仏教のようなものが生まれただろう。
日本にだけ新たに鎌倉仏教が出てきたのでなく宋の影響。
インドから伝来したナイーブな大乗仏教と中国古来の道教が習合して、
独自の中国仏教というものが出来てきた。
私は武漢の五百羅漢寺というところで精進料理を食べたことがあるのだが
(寺の中にわざわざ観光客向けのレストランがある)、
あの、野菜を使って卵や肉にそっくりの食材を作るというのはやはり道教的発想であり、
中国の寺というのは孔子廟のような廟堂と極めて雰囲気が似ていると思う。
ともかくそういう中国土着の信仰と混淆した仏教を刷新して、
仏陀の教義の本質に迫ろうとしたのが当時の新しい仏教であったはずで、
その祖を達磨に求め禅宗という形で現れてきたはずであり、
そのリーダーシップを取ったのが臨済や済顛らの「風狂」な禅僧たちであり、
道元は曹洞宗だけども、やはり臨済らの影響を受けたはずだ。
日蓮や親鸞や法然もそういう新しい仏教の影響を受けたはずだ。
そして禅宗は中国では廃れてなくなってしまい、
今の中国の仏教を観察してもそのような痕跡はないのである。
曹洞宗や臨済宗というものがもともとどんなものだったかは実はよくわからんとしか言いようがないのではないか。
日本は中国の文化が無くなってからも何百年も残るところだから、
むしろ日本の禅宗を見た方が当時の中国の雰囲気はわかるかもしれん。

原始仏教でももともと肉食は禁じられておらず、
インド土着の宗派の多くが菜食主義に固執したのに対して、
仏教は中庸を唱えた。

ただまあ釣りというのは直接的な殺生に相当するから道元がそこまでやったとは考えにくい。
そもそも「釣月耕雲」とは道元ではなく済顛の言葉なのだから。
「釣」を「鈎(かぎ)」と見て、
「鈎月」は月夜に刈り取りをすること、
「耕雲」は山上の畑を耕すこと、かと解釈してみたこともあるのだが、
済顛の詩にはっきり「釣月」とあるからにはもともと
「川面に浮かぶ月影を釣る」「月夜に魚を釣る」という意味だったとしかいいようがない。

そもそも道元が済顛のような「瘋癲漢」の詩からこのような文言を引用したこと自体が問題である。
道元は済顛を尊敬していたとしか思えない。
そう思って読むと、
「山居」の詩のそれ以外の部分はごく普通な日本人が作りそうな詩文である。
「釣月耕雲」だけが異様な雰囲気を持っている。

済顛は中国では日本の一休さんのようにテレビドラマ化されてけっこうな評判らしい。

でまあ、私のブログで良く読まれているのが
臨済関連の「裏柳生口伝」と
済顛関連の「山居」
なのは単なる偶然ではないのかもしれん。
誰なんだ読みに来ているのは(どうも中国から来ているのではないか。
最近中国語のスパム多いし)。
ちなみに私が書いた「超ヒモ理論」はよく知られてないと思うが仏教小説なので、
ついでに宣伝しておく。

ところで臨済という人は、
というか臨済の知り合いの禅宗の僧侶たちはみなやたらと人を殴ったらしいのだが、
それが今の禅宗では、座禅を組んでるときの警策となったのか。
警策自体は江戸時代以来らしいが、
それより前はもっと厳しい体罰があったかもしれんじゃないか。
そもそも僧兵を武装解除したのは信長だしな。