あさか山

あさか山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思はなくに

安積香山の影までも見える澄んだ山の井のような浅い心では私は思っていないのです

小学館の「日本古典文学全集」など

いや、なんか違うんじゃないかなこの現代語訳は。井戸をのぞきこんだとき自分の姿が映って見えるほどに浅い井戸、水鏡の代わりになるほどに浅い井戸、そんなあさか山の井戸のように浅い心で私は思っているわけではないのだが、と言っているのだと思うのだが。
そもそも井戸の水が澄んでいるのは当たり前だと思うが。「澄んだ井戸の水のように浅い心」では意味がわからんだろ。

なんだかなあ。どうしてこう精神論的な解釈をしたがるのか。もっと感覚的・映像的に考えれば良いだけだと思うが、国文学者というのはそういう言語による視覚的表現にうといのではないかとしか思えない罠。万葉時代の歌を新古今的幽玄な解釈をして失敗している典型の一つか。