Geißenpeter

オリジナルの『ハイジ』、つまりシュピリが書いたドイツ語の原文では、ペーターは Geißenpeter と呼ばれている。
Peter が洗礼名で本名、Geißenpeter はあだ名で、Geißen というのは羊飼いか山羊飼いのようなものかと思ったが、
独和辞典で調べてみると、Geiß というのは「雌山羊」のことなのだった。
なるほど、山羊を放牧に行くのは、山羊の乳を取るためであるから、メスしかいなくておかしくない。
乳の出ない「雄山羊」は、種山羊(?)以外はみな屠殺されてしまうのだろう。
鶏や乳牛と同じ運命だわな。

メスヤギはオスヤギより体も小さく気性もおとなしくて、従ってペーターやハイジのような子供でも扱えるということではないか。

清原氏

前九年の役 1051年 – 1062年、
延久蝦夷合戦 1069年 – 1074年、
後三年の役 1083年 – 1087年。
この三つの戦いには関連性があるのか。
延久蝦夷合戦は後三条天皇の時代で、後三条は桓武天皇を思慕し、征夷の意図があったという。
後三年の役は白河天皇即位から院政期にすっぽり含まれている。
かつ、後三年の役の主役八幡太郎義家は白河天皇の扈従で身辺警護の武士、北面の武士のはしりでもある。

思うに、前九年の役というのは、それらしきものはあったかもしれないが、いわば前説のようなもので、戦争の実態はそれほどないのかもしれない。
この三つの戦いの過程で蝦夷の清原氏が興り滅んでいる。
代わって奥州藤原氏の時代がくる。

なんかおもしろそうだな。

懿子2

角田文衛『待賢門院璋子の生涯』を読んでいて思ったのだが、
白河天皇の最初の后も天皇より11歳も年上で、后が28歳、天皇が17歳。
立太子した年に結婚したそうだ。
これまたかなり無茶な結婚である。

『源氏物語』の桐壺など読むとわかるが、皇子は御曹司といって、元服するまでは母親と一緒に住む。
元服したら一家を構えて別居することになるが、
普通皇子には財産がなく家もないから、金持ちの貴族の娘と結婚して、その貴族に家や所領をもらうことになる。
光源氏の最初の妻もそうだったし、
白河天皇も妻の方が年上。
後白河法皇も同様だった可能性が高い。

待賢門院璋子の父は藤原公実で、璋子の腹違いの姉にあたる女子、公子(きみこ)が、藤原経実に嫁いで生んだ子が懿子である。だから、懿子は璋子の姪にあたる。

また、源有仁は白河天皇の甥にあたるが、
やはり公実の娘をめとり、子供ができなかったのか、懿子を養子にしている。
懿子が皇子時代の後白河天皇と結婚したとき、懿子は24歳。後白河天皇は13歳だった。
実のいとこどうし(祖父がいずれも公実)の結婚ということになる。
とすると、やはり、後白河天皇はしっかりした後見人(この場合は藤原経実)を持つために、
つまり主に財政的な理由で懿子と結婚した、と考えた方がよかろう。

孝明天皇御製

孝明天皇の号は「此花」と言うので、その私家集には「此花集」「此花新集」などという名前がついている。
平安神宮編『孝明天皇御製集』だが、その前半部分は若い頃に詠んだ詠草であり、それほどみるべきものはない。
36才で亡くなっており、しかも、元治とか慶応(1863-67)の最晩年の頃の歌は載ってない。
と、言うことは、あったかもしれないが、残ってない、誰にも知られてないということだろう。

面白いなと思える歌は一時期に集中している。つまり、黒船が来た安政元(1853)年から、長州の都落ち、薩会同盟が成立した頃(1863)だ。およそ、二十代前半から終わりまで。

「市」とか「蚊遣火」とか「遊女」とかそういう通俗的ないろんな題で詠んだものもある。これも一種の題詠で、明治天皇もやっているので、
おそらく当時一般的だった一種の習作のようなものなのだと思うが、それに割と面白いものが多い。
まあさすがに明治天皇は「遊女」の歌は詠まなかった(残されてないor公開されてない)。
明治天皇の場合恋歌もたしか公開されてない。
もともと存在しないはずはないと思うのだが。
ものすごく、見てみたい気はする。

歴史的仮名遣いはかなりでたらめで和歌特有の漢字の当て字も非常に多い。
明治天皇の時代にはきちんとした仮名遣いが確立しており、直してくれる学者も大勢いたから、仮名遣いの間違いは皆無だが、
孝明天皇の場合にはそれも期待できなかっただろう。
そもそも和歌の師たちもきちんとはわかってなかっただろう。
そのへんは差し引いて考えてあげないとかわいそうだ。
字余りも(特に初期の詠草には)多い。
当時ある程度字余りが許容されていたということだろうと思う。

> 茂るをば 憂しとも刈るな 夏の花 秋来る時ぞ 花も咲くものを

「ぞ」があるのに連体形が続かない。「花も咲くものを」は字余り。
上の句がなんとなく俳句的。上の句だけで俳句になってしまう。
夏草を刈るとか刈らないという歌は後醍醐天皇にもあり、明治天皇にもたしかあったと思うが、
面白いが、こういうのはあまりよろしくない。

> 暑き日の 影もとほさぬ 山陰の 岩井の水ぞ わきて涼しき

「かげもとほさぬやまかげ」というのがなんとなくくどい気がする。これも、悪くはないが。

七夕草花

> おのづから 手向け顔にも 咲きいづる 花の八千草 星の逢瀬に

これは、少し面白い。

女郎花

> 靡くとも ひとかたならぬ 女郎花 こころ多かる のべの秋風

晩夏蝉

> 夏の日も しばしになりぬ 鳴く蝉の 声もあはれに 聞こえつるかな

> あきびとの 売るや重荷を 三輪の市 何をしるしに 求めけるかも

閑居

> 春来ぬと 柳の糸は 靡けども 来る人もなき 宿の静けさ

> おのづから 来る人もなく なりにけり 宿はよもぎや おひしげりつつ

> 夏来れば 茂る木立の 中にしも 緑をそふる ならの葉柏

> よろづ木の 枝はさまざま ある中に ひとり檜原の なほき陰かな

述懐

> 位山 高きに登る 身なれども ただ名ばかりぞ 歎き尽きせじ

遊女

> 漕ぎいでて ゆききの人の うかれ妻 身は浮舟の ちぎりなるらむ

往時

> 今はただ 世に有りとしも いつしかは 我が身も人の 昔とや言はむ

祈恋

> わが命 あらむ限りは 祈らめや つゐには神の しるしをも見む

寄風述懐

> 異国も なづめる人も 残りなく 払ひ尽くさむ 神風もがな

「異国(ことくに)もなづめる人も」というのは外国人も日本人で頑なな人も、という意味。

夏月涼

> 蚊も寄らず 扇も取らで 月涼し 夜は長かれよ 短きは惜し

雪中望

> 富士の峯の 姿をここに 写し見む みやこも今は 雪の山の端

夕立

> ゆふだちの 過ぎても高き 川波を うれしがほにも 登る真鯉や

田邊柳

> 堰き入るる 水のかはづも 釣るばかり 門田の柳 糸垂れてける

「たれてける」は口語的。本来は「たれてけり」だろう。

竹雪深

> 国のこと 深く思へと いましめの 雪の積もるか 園の呉竹

> この国の けがれぬからは 春ごとに かく咲く梅の 香りつるかな

淵亀

> 我が思ひ 比べばいづれ 深き淵 住みも浮かべる 亀に聞かばや

緑池紅蓮

> 夏涼し 池の緑の 水の上に くれなゐ深く 蓮咲ける見ゆ

田家槿

> 賤の女の 門田に咲ける 朝がほは けふのつとめを いそぐ心か

霜隠落葉

> 冬枯れて 散りゆく木の葉 見苦しと おほひも隠す 霜の白妙

わりと斬新で個性的な歌もたまにある、まあまあのできではなかろうか。

長尾景晴の乱と川越夜戦

[川越素描](http://p.booklog.jp/book/32888)の試し読みを増やした。
ほとんど無料で読めるが、完全版を読みたい人だけ有料にしてあるという状態。

今回無料化したのは、長尾景晴の乱のはじめのところと川越夜戦の部分だ。

川越夜戦は、太田道灌の江古田原の戦いを北条早雲が目撃して、孫の氏康が道灌の戦法を参考にした、
というややこしい仕組みになっている。
これは、『ナポレオン 獅子の時代』で、ナポレオン・ボナパルトが、
若い頃のカスティリオーネの戦いを、アウステルリッツでより完璧な形で再現してみせた、という話を参考にしている。

いや、というよりは、ナポレオンのアウステルリッツの戦いを目撃したプロイセンのクラウゼヴィッツが後にその戦法を参考にした、
という逸話の方に近いな。

むろん、江古田原の戦いも川越夜戦も、実際はどんな戦いだったかほとんどまったくわかってない。
完全な作り話、創作といって良い。
カスティリオーネやアウステルリッツの戦いに似ているわけでもない。

一言で言えば「籠城する味方を囮にして、敵を一箇所に集めて一網打尽にする戦法」なのだが、
もはや自分がどうやってその話を思いついたか、思い出せない。
敢えていえば木曾義仲の倶利伽羅峠の戦いに似て無くもない。
ハンニバルや楠木正成の戦法にも似たようなのがあったかもしれん。
もしかすると厳島の戦いとか長篠の戦いに似てるかもしれん。

いや、アウステルリッツの戦いというのも、敵に丘の上の良い場所を先に布陣させておき、
退却するふりをして、敵が陣地を出てくると、今度は自分らがその丘を取り、
中央突破によって敵戦力を分断、
総崩れになった敵を追って各個殲滅する、という手法だから、似て無くもないわな。いや、やっぱり全然似てないな。
なんかだんだん自分でもわからなくなってきた。

研究者の転職

[異国の地より気になった読み物2件ほか](http://kirik.tea-nifty.com/diary/2012/02/2-ae94.html)

> 日本のこういうメーカーあがりの技術者なんですけど、30代前後から35歳ぐらいまでの転職市場ではとっても価値のある値段で流通しており、しかも大量に雇うのは外資系ソフトウェアとか韓国系企業で、さらに雇った人たちの75%ぐらいが40代ちょっと手前でさらに労働市場に出てくる(クビなのか自発的退職なのかは別として)のが興味深いところでもあります。明らかに国際市場で通用するんだけど、コミュ障なのか安定志向なのか、高給を捨ててでも働きやすくてクビにならない会社に入ろうとするのはもはや国民性なのかもしれず。

うーん。
研究者として旬なのは20代後半から30代半ばまでだと思うのよね。
その旬を過ぎて、そのまま会社にいるよりは転職した方が良いかなと言う人が、
高級高待遇に惹かれて外資系に転職してみたりする。
しかし40過ぎると研究者として生きていくには年を取りすぎていて、
給料少なくていいから管理職か営業職みたいな「文系就職」したくなる。
ただそれだけではなかろうか。

> 博士課程の墓場のような会社のR&Dリソースの最適化というのは難題だなあと改めて思ったり。

博士はつぶしきかないですよ。そりゃ世界的にそうなんじゃないの。
それこそスポーツ選手みたいに20代くらいに一生分稼ぐか、会社起こすか、
でなきゃ普通のサラリーマンになるしかないんじゃないのかなあ。

「まし」と「なまし」と「てまし」

「まし」と「なまし」と「てまし」だが、よく似ている。

「まし」は推量または反実仮想の助動詞。未然形接続。

「なまし」は完了の助動詞「ぬ」の未然形+「まし」。連用形接続。

「てまし」も完了の助動詞「つ」の未然形+「まし」。連用形接続。

「ぬ」と「つ」では、「つ」の方が主観的意志が強い。「ぬ」は自然現象が完了した、という意味が強いが、
次第に混同されるようになった。なので、伊勢物語の

今日来ずは明日は雪とぞ降りなまし消えずはありとも花と見ましや

が、「なまし」のもともとの使い方で、「降ってしまったに違いない」の意味。

鴬に身をあひかへはちるまてもわか物にして花は見てまし

これも反実仮想の意味が強い。「見る」とか「奉る」などの人間の動作に「てまし」が付くのが本来のようだ。

ただ「てまし」も「なまし」もただ「まし」でも代用可能だから、
歌の長さ合わせには便利と言えるかも知れん。

たとえば、「なり」に続けて「ならまし」「なりなまし」「なりてまし」などとなるが、
「なりてまし」の用例はない。「なる」のは意志ではなくて自発だからだろうか。

思ひいでてとふ事のはをたれみまし身の白雲と成りなましかば

梅がかをそでにうつしてとどめては春はすぐともかたみならまし