ポントスとボスポロス

[へレースポントス](/?p=14070)にポントスは固有名詞なんじゃないかと書いたのだが、
昔黒海にはポントス王国というものがあったようだ。
またアゾフ海からクリミア半島あたりにボスポロス王国があった。
イスタンブルの海峡をボスポラスというのだが、どういうつながりがあるのだろうか。

wikipedia

> ボスポラスとは「牝牛の渡渉」という意味で、ギリシャ神話の中で、ゼウスが妻ヘラを欺くため、不倫相手のイオを牝牛の姿へ変えるが、ヘラはそれを見破り、恐ろしいアブ(虻)を放った。そのためイオは世界中を逃げ回ることになり、牛の姿のままこの海峡を泳いで渡ったとされる。

> bous βοῦς ‘ox’ + poros πόρος ‘means of passing a river, ford, ferry’, thus meaning ‘ox-ford’,

よくわかんねえ。
英語の ox-ford と同じとか言ってる。

また、ポントスというギリシャ神話の海の神がいるようだ。

クリミアという地名はロシア語で、ギリシャ語ではタウリカというようだ。
またケルソネソスという言い方もある。
c.f. パンティカパイオン、スキュタイ。

貫之と定家

知り合いに[大塚英志](/?p=13903)についてこないだブログに書いたでしょとか言われて、
最近たくさん書き散らしているのですっかり忘れていたが、
たしかにそんな人の話を書いた。
その知り合いというのは私の話の中にもちょくちょくモデルとして出てくる。
直接そのまんまではなくて、
彼のパーソナリティの一部がある人物のパーソナリティの一部として使われていたりする。
そんで彼といろいろ話をしたのだが、
私はkindleで旧作を含めて割とたくさん数を出している方だと思う。
また、ジャンルも割とあれこれ試しに書いてみて、1年経ってみて、
彼の話など聞きながら客観的に分析してみたのだが、
やはり、小説というのは売れるのはラノベである。
中学卒業高校受験くらいの知識で読めるものがストライクゾーンである。
大学受験だと難しすぎる(源氏物語を原文で読めるやつなんていないし、
今年のセンター試験の問題とかあり得ない(笑))。

蘊蓄本や解説本、歴史小説を書くのはよい、
本を読むことで中学か高校で昔習ったなというような曖昧な知識を掘り返して知識欲を満たしてくれるような本は売れるが、それより難しい本は、要するに売れないと。

そこでまあ聞いてみたのだが、
では、
紀貫之と藤原定家はどちらが有名か、
というと、紀貫之の方がずっと有名らしい。
でも定家は小倉百人一首とか作ったよね、とかいうとそれはそうだが、
紀貫之は古今集と土佐日記でそっちが有名だ、ということになるらしい。
そう言われればそうなんだが、
ずっと和歌のことを調べていると、なんだか紀貫之より藤原定家の方がずっと重要な気がしてくる。
世間一般の感覚がわからなくなる。

西行とか和泉式部はすごい歌人なんだが、たぶん世間一般でいうと、
ものすごくマイナーなんだよね。
そういうところいくら書いても売れない。
本屋とか図書館にいくらそういう本が並んでたしても、たぶん売れてない。

一人で書いて一人で売るということはDTPみたいなもんであって、
一人の人間が作家となり編集となり営業をこなさなくてはならないのだが、
それはけっこう難しい。

で、うちのブログとかみてると吉田松陰で見にくる人が割といる。
じゃ吉田松陰で書けばどうかと言うと、
吉田松陰なんて誰も知らないよと。
そこで、
坂本龍馬ならみんな知ってるけど、龍馬の和歌なんてみんな松陰のまねだよ、というと、
なら松陰と龍馬という本かけば売れるんじゃないかという話になり、まあそうかもしれんねと思う。
「[龍馬を斬る](/?p=6694)」みたいな本書いてみたいが、
ブログに書いたネタかき集めただけですでに本になりそうではある。
もしかしたら売れるかもしれんが、いろんなところから怒られそうで怖い、正直な話。
龍馬が新葉集の影響を受けているというのは、まああり得ない。
新葉集なら私はよく知ってる。
宗良親王の話(「将軍放浪記」)も書いたし。
龍馬の歌とは何の関係もないと思う。
みんな新葉集も宗良親王も知らんでよく言うわと思う。

あるいは貫之と定家とか。
そういう本書けば売れるんじゃないか。
そういう売れ筋の本をいくつか書いておけば私の売れない本もついでに読んでくれるかもしれん。

女子校と男子校が毎年正月に百人一首のカルタ取りの勝負をする、
そこで百人一首の歌を一つずつ紹介する、というラノベ書いたら売れるんじゃないかという話になり、
そういうマンガすでにある、「あかねさす」じゃなくて「ひさかたの」じゃなくて「ちはやふる」
ってやつらしい。
全然しらんがたぶん私が書こうと言ってるやつとはあまりネタはかぶってないだろう。

> ちはやふる かみよもきかず たつたがは からくれなゐに みづくくるとは

業平か。
業平ネタならいくらでも書けそうな気がする(もう書いたけど)。
「あかねさす」じゃなくて「ひさかたの」じゃなくてなぜ「ちはやふる」というタイトルにしたかということは別に深い意味はないのだろう。
「ちはやふる」が一番タイトルにふさわしかった、ただそれだけだ。

で、「古今和歌集の真相」は私の意に反して割と人気があったんだが、
彼もおもしろかったという。
難しくなかったかというとまあ読めたという。
彼は和歌も日本史も普通レベルだと思う。
どうも知らずに自分の得意分野でかつストライクゾーンなものを書いていたらしい。
「将軍家の仲人」とどっちがおもしろいかというと、
新井白石とかおもしろくないですよとか言われる。
大塩平八郎(「巨鐘を撞く者」のこと)は有名だろというと、
たしかに有名だがあまり興味ないという。
なんかいろいろ売れない方向にこれまで努力を重ねていたらしい。
企画会議は重要だ。

で、「古今和歌集」のどこがおもしろかったかというと、なんとなく全体的にだという。
本読んでしばらくたてばそんなものかもしれんがそれではわからんからと根掘り葉掘り具体的にどこがおもしろかったのかと聞くと、どうも藤原高子のどろどろした話とかがおもしろかったらしい。

そうなんだよね、たぶん。
読んだ後にああおもしろかったと思わせることは重要だと思うよ。

それで「百人一首」は短いからもう腐るほど解説本はあるんだが、
私なりに書いてみる価値はあるかなとすこし思い始めた。
あーそういえば丸谷才一も書いてたなあ。
このブログでは割と丸谷才一の批評とかしてて、
「古今和歌集」にも書いてたりするんだが、
丸谷才一論とか書いても誰も読まないよね。

実は俵万智はすごい歌人だと私は思っていて、
以前にも[プーさんの鼻](/?p=4366)とか書いてるんだが、
「ほんとはすごい俵万智」なんて本書いたら売れるんじゃないかとかどきどきするんだが、
同世代のまだ生きている人の評論なんて書くと怒られるんじゃないかと思って書けない。
俵万智は不倫からシングルマザーに突っ走った彼女の生き様がおもしろい。
それを赤裸々に歌にしてるところが彼女の歌のすごさなんだが、
単に現代語で和歌を詠んだひとくらいにしか思われてない。
そこを敢えて書いてみるのもおもしろいかもしれない。

現代歌人の評論なんて書ける人はいないよ、私以外は(笑)

1185か1192か

1185年は平氏が滅んだ年である。奥州藤原氏はまだ滅んでいない。
義経もまだ討たれてない。
諸国惣追捕使とか守護とか地頭とかいうのは必ずしも1185年に始まって、また、
この年に確立したとも言えない。
どちらかと言えば緊急時の臨時措置とみられていた。
そして鎌倉幕府の軍事力や警察力が確定するのは明らかに承久の乱においてである。

実質的な幕府の成立というのであれば、1221年の承久の乱であるべきであり、
平氏が滅んだ年では結局、説得力としては、源平合戦の域を出ていないのだが、
そもそも源平合戦という言葉が嫌いで、治承・寿永の乱と言い換えたがる学者の方々は、
そんなことで良いんですかと言いたくなる。

[徳川慶喜と勝海舟](/?p=3111)
で書いたのだが、
少なくとも勝海舟は、武家政権というのは、源頼朝が征夷大将軍に任ぜられて、
徳川慶喜が大政奉還したときまでだという認識であった。
頼朝三代とその後の宮将軍、室町将軍、徳川将軍というものがつまりは幕府なのである。
武家の棟梁が天皇に征夷大将軍に叙任されることで、オーソライズされている状態、それが幕府。
武士が実質的に政権を掌握している状態を幕府であったとは考えていなかったと思う。

1192という年はただ頼朝が征夷大将軍になったというだけの年ではない。
武士の共通認識、日本人の伝統的な歴史観、
象徴的な意味での鎌倉幕府の始まりはやはり1192でなくてはならない。
1185は根拠としてはかなり脆弱だと思う。
学術的な意味としてなら1221も許せるが。
誰がなんのために1185だなどと言い出したのだろうか。
やはり天皇とか征夷大将軍の権威を認めたがらない人たちではないか。
あるいは江戸時代までの日本人の感覚は古くさいといいたい人たちではなかろうか。

> 鎌倉に もとゐ開きし その末を まろかにむすぶ 今日にもあるかな

> 結ぶうへに いやはりつめし 厚氷 春のめぐみに 融けて跡なき

ついでにいっておけば律令制は天皇を元首として戴く明治政府によって正式に、
正当な手続きを踏んで、新しい制度に置き換えられたのである。
実質的にはすでに嵯峨天皇の時代に破綻していたが、
制度としては完全な形で残っていた。浅野内匠頭とかいう官位官職がそうだ。
徳川幕府の軍事力は別として、その権威は、完全に勅令と律令にオーソライズされる形をとった。
室町幕府をそっくりそのまままねたからだ。

同様に維新政府時代の太政官令、これも正当なものである。

何が実質的(学術的)であり、何が正当な手続きを踏んだものかというのは、
別に考えなくてはならない。
つまり両者を混同するとわけわからなくなる。
或いはわざと混同してわけわからなくしたい連中がいる。

ローマ教皇がなぜいるのかとか神聖ローマ皇帝はなぜローマ教皇に戴冠されなくてはならないのかとか、
東ローマ皇帝はなぜコンスタンティノープル総司教に戴冠されねばならないのかというのと、
同じ問題だ。
オーソライズされない軍事政権は不安定で、どうしても権威付けが必要になってくる。
徳川家が天皇家に依存したのもまさにそこだ。
複数のオーソライズされた政権というのはローマ帝国にはよくあった。
複数の教皇が立てられることもあった。
複数の教皇と複数の皇帝の間で誰が誰をオーソライズするのかというので良く戦争になった。
なんのことはない、日本の歴史と同じだ。

フィクション

でまた小林秀雄ネタなんだが、彼がどこかで、将棋の手を次にどこに打つかというのを、
プロの棋士は時間をかけて考えるのだが、
あれはどこに打とうかと考えているのではない。
どこに打つかというのは最初に直感的にわかっていて、その手が正しいかどうかを、
じっくり時間をかけて考えているのである、
本居宣長の連載が11年半かかったのも、
本居宣長という人がどんなひとかというのは最初から直感的にわかっていたが、
それが正しいかどうかを検証するのに時間を要したからだ、などと言っている。
なんだ結論ありきでつじつまあわせようとしてるだけじゃん、と思われかねない話ではある。

将棋のことはよくわからない。
たぶんそうなんだろう。
フィクションというのは、直感による飛躍があるため、
論文にできない場合に使う手法だと思っている。

たとえばマックス・ウェーバーは、プロテスタンティズムと資本主義は似てるな、
なんか関係があるのに違いないと着想したが、そのままだと単なる思いつきなんで、
プロテスタンティズムと資本主義の因果関係を立証するために長い長い論文を書いた。
そんなもんかと思う。
でまあ私も小室直樹がマックス・ウェーバーは偉いとか、
社会学上の定説だなどというから、なるほどそうだなと思っていたが、
しかし、所詮は定説、学説であって、真実と言えるほど確かかと言われれば怪しい気がしてきた。
小室直樹もこの年になって読み返すとかなり変なことをいっているし、
マックス・ウェーバーも昔の人なので今から精査するとへんなところがたくさんあるだろう。
大筋では当たっているのかもしれんが、そうではないかもしれんなどと思う。

直感による飛躍を埋める作業が科学だと思っている
(たとえば数学で先に定理があって、それがほんとに定理かどうかを確かめるのが証明。
ええっと。直感とも飛躍とも関係ない研究者がたくさんいるらしいってことはわかっているが、
少なくとも自分にとって)。
完全に埋めないと科学とはいえない。
途中めんどくさくて適当に脚色した結果できるのが小説だと思う。
世の中はすべて理詰めでは片付かない。
世の中、というより自分の頭の中にわいてくる着想のすべてをいちいち証明するには人生は短すぎる。
だからえいやっと小説にしてしまう。
フィクションですよということにする。
しかし、最初からフィクションを書きたいわけではないから、
完全に証明できたら論文として出すだろうし、
99%まで確信が持てたら論説とか論評として出すかもしれない。

また、フィクションで出すときには物語となるような脚色をすることにしている。
あと、直接特定の人物を書くのがはばかられるときにも脚色する。
つまり私の場合、脚色というのは物語を読者に読んでもらうためのテクニックという要素が強い。
私以外の作家の場合には、そこがまさに文芸なのかもしれんが、
私も興が乗ってその部分に凝ることもあるが、
由来から言えばあくまでも表面をコーティングする作業である。
たとえば歴史小説の場合、時系列をわざとばらばらに組み替えたり、特定の人物の描写のディテイルにこだわったりする。
歴史はあんまり淡々と書くとウィキペディアみたいになってしまう。
ウィキペディアでも教科書でもいいといえばいいんだが、
それを物語として読ませるのがたぶん作家の仕事であり、
そこが一種の娯楽の要素であって、
単なる調べ物とは違う。
そこはやはり違わせないといけない。
そうしないと読者は読んでくれない(最近読者というのは表紙と第一章と最後くらいしか実は見てないんじゃないかという疑念がすごくわいてきた。普通の人はざっとしか本に目を通さない。精読するのは二度目に読むときとかほんとに気に入ったときくらい。逆の言い方をすると、序章とか表紙は他の部分より何十倍も気をつかって丁寧に書くべきなのだ)。
ウィキペディアみたいな便利なものが出てくると逆にそれを思う。
不特定多数の人がまとめた記事と、個人の思想と文体で書くものは最後の一線で違うべきだ。
あとまあウィキペディアは、嘘が書かれているというよりも、
相互に矛盾してたり、抜け落ちたりしていることが多いわな。
最後は虚構で補完しなきゃ物語にはならん。

話を戻すと小林秀雄にしろマックス・ウェーバーにしろ小室直樹にしろ、
直感と飛躍は完全に埋まってないと思うし、
自分も飛躍をいちいち完全に埋めるのに貴重な時間を使いたくない気がする。
ていうのもやはり大病を患っていつ死ぬかわからんという気持ちがあるからかもしれん。
単に論文書くのに飽きたからかもしれん。
というのはもともと私は論文を書く人だったからでもある。

塩野七生が書いているのは歴史小説というよりも事実の羅列のような感じ。
部分的に文芸的な箇所もあるようだが、大半はウィキペディアみたいな記述じゃん。
ハンニバル戦記にしても(たとえば、ハンニバルの心理描写とかわざわざ書いてない。書いても良いはずだが。わざと書いてないのかも知れないが。それがスピード感になっていると言えなくもないが、勝手に想像で書いてよいのは作家の特権のはずだ)。
十字軍物語には失望した。
特に第一次十字軍の辺りは全然大したことが書かれてない。
ローマ人の物語の、カエサルが出てくるあたりまではそれなりに楽しめたが、
あとは惰性って感じがするじゃないですか。
まあ、人気の出た作家の連載なんてそんなものかもしれんが。

何が言いたいかというと飛躍や虚構によって真実にぎりぎりまで肉迫するってことはあるなと、
最近自分で書いていて思う。
何本も何本も補助線を引いていき、いくつもいくつも仮定を積み重ねて、
さらに調べていくとそのうちのいくつかは紛れもなく補助線ではなくて本当の線でアリ、
仮定ではなくて事実だとわかる。
だが、逆に仮定が間違っていることにも気づく。
フィクションというのは要するにそういう果てしない検証過程の途中経過、
ベータ版みたいなものな気がしている。

だから好き勝手でたらめをかいてフィクションと言っている(坂本龍馬物とかw)のも、
大して検証もしてないのに論文とかドキュメンタリーとか言ってる(マスコミのニュースとか)のも腹立つわな。

smart tv boxその後

1TBの外付けHDDだとやっぱりあっという間に録画一杯になっちゃいますよ、お客さん。
そんで3TBのHDDを買って来たが、なぜか認識しない。
あれっと思ってもとの1TBのに付け替えてたが、認識しない。
答えは、挿す場所を間違えた。
USBポートは何箇所かあるんだが、その一つしかつながらない。
なんでこんな仕様になってるのかと問い詰めたい。

説明書には1TBから2TBまでのセルフパワーのHDDしか使えませんよと書いてあり、
じゃあ3TB買ってきた私の立場はと思ったがなぜかちゃんと2.7TB認識している。
じゃあ3TBでもふつうに動くんじゃね。
しばらく使ってみる。

あとUSB3.0のセルフパワーのハブは必須。
4台まで同時につなげるので5ポートのハブ買ってくれば良いわね。

そんでまあ、これまではインターネットはbflets使ってたわけだが、
これはインターネット専用線で固定IPだっただけあって安定してた。
smart tv box はテレビと電話とインターネット兼用である。
全部パケット通信なわけだから、インターネット専用線と違わないように思うのだが、
たまにおかしくなる。
テレビの回線もごくたまにおかしくなることがあるがあれの巻き添えなのか。
今年も去年も正月にいきなりCATVが見えなくなることがあった
(正月くらいしかテレビ漬けにならないからでもあるが。ふだんはほとんどテレビ見ないし)。
去年はある特定のチャンネルだけが受信できなくなって電話して一応直してもらった。
今年の正月は朝の11時からいきなり受信できなくなった。
たぶんこれは回線がパンクしてるんだろうな、そうとしか思えん。
昔ADSLとか使ってたときにはときどきつながらなくなってまたつながったりしてた。
固定IPにしてからはほとんどそういうことなくなった。
今はダイナミックアドレスなはずだから、
ときどき切れてるんじゃないかと思うんだ。
そのときIPアドレスの付け替えが発生するから、余計につながってない感があるのじゃなかろうか。
固定IPだと一時的に切れてもそのまんまのアドレスでつながるわけだから、
たまたまパケットがどこかで混雑して届かなかっただけの場合と違いないわな。
専門家でもないのに文句を言うのは怖いから、少しだけこそっと書いてみる。
でもまあルータとか光回線の終端なんてめったにいじらないわけじゃないですか。
でも smart tv box はときどき電源切ったりするわけで、
そのとき一時的にネットもつながらなくなるのは仕方ないよな、ある意味。
我慢して使うしかないんですよ。セットにしたことで出費が減る分は、
文句言えないですよ。

リモコンが使いやすいとは言いがたい。
GUIはまあまあ。
リモコンをタブレットで代用することもできるが大差ない。
アプリの操作性とレスポンスがいまいちなんだなあ。
期待外れだった。
つかゲームコントローラとかで操作できないんですかと言いたい。
リモコンじゃFPSはできないでしょ。
そうねマウスとキーボードでも良いけどさ。
そういう選択肢は欲しいよね。