これでも国家と呼べるのか

小室直樹は預言者である。彼の預言で最も有名なのは「ソビエト帝国の崩壊」だが、他にもいろんな重大な預言を遺している。

「これでも国家と呼べるのか」は平成八年、つまり、今から18年前、1996年に出た本だが、恐るべき預言をしている。

日本人はまだ「土下座外交」の本当の恐ろしさを理解していない。国際法上、みずから謝罪するとは責任を取ることである。責任を取るとは補償に応ずるということである。このとき、挙証責任はこっちに押し付けられてしまうのだから、相手の言いなり以外にどうしようもない。挙証責任とは何か。分かりやすい例を挙げておこうか。

あなたがある日突然、見ず知らずの他人から「借金を返せ」と訴えられたとしよう。挙証責任がこちらにあるということは、裁判でその見ず知らずの他人から金銭を借りた事実が存在しないことを、あなたが挙証・立証しなければならないということである。もしあなたが大金持ちで、次から次へと見ず知らずの他人から裁判を起こされたらどうしますか。

国際法上、講和条約またはそれに該当する条約(例、日中共同声明、日韓基本条約など)を結べば、それ以前のことは一切なかったことになる。もはや賠償の義務はない。それなのに、日本の方から謝罪したので、一切が蒸し返されてしまった。佐藤内閣の日韓基本条約や田中角栄が周恩来に賠償を放棄させた日中共同声明など、せっかくの努力がみんな無駄になった。

諸外国もその国民も、あることないこと、いやあるはずのないことを言い立てて日本に補償を要求してくるに決まっている。戦争責任に時効はないとばかりに。日本は挙証責任をひっかぶってしまっているんだから逃げられない。「ヒロシマ、ナガサキ」に対して “I’m not sorry” と言ったアメリカとはわけが違うのだ。

今のネトウヨがツイートしたりブログに書いていることはすべて小室直樹が30年前から言っていることの焼き直しに過ぎない。田母神俊雄などは現場の将官だったから少しは新しいことを言っているが、ほとんど同じ。細川政権や村山政権は比較的最近なので、小室直樹が書いたことの中ではごく新しいが、それでもインターネットに民間プロバイダが現れるよりも前の論説であるからネトウヨよりずっと古い。今は石原閣下以下いろんな人がそういうことを公の場で言うようになり、飲み屋の親父も昔から知ってましたとばかりに韓国・中国批判をするが、正直なところ「おっさん、ほんとにわかってんの」と言いたい。
テレビでわいわい言ってることを反復するのは飲み屋の親父だってできる。実際飲み屋の親父なわけだが。

小室直樹は誰よりも早く、リアルタイムに指摘していた。二番目ですらなかった。誰よりも早く、一番にだ。そして誰も当時小室直樹を理解する人はいなかった。小室直樹が如何に偉大だったか!私も小室直樹のようになりたい。

ほととぎす

ついさっき、うちの近所でホトトギスの鳴き声を聞いた。

キョッ、キョッ、キョキョキョ、つまり、ホットットギス、みたいな鳴き方。
わりとゆっくり。
ユーチューブでも確認したから間違いない。
のどから血を吐くような声、というわけではない。わりと澄んでいる。
かなりでかい声だが。

時期もぴったりだ。旧暦で言うとさつき。夕暮れ時。
すげえこんな町中にもいるんだな。
竹藪みたいなところだった。
急に親しみがわいてきた。
ここで一つ和歌でも詠まねばならぬところだが、
ホトトギスを詠んだことないので、すぐには出てこない。

> 鳴く声におどろかれけりほととぎす奥山にこそすむとききしか

何かに似てる。そう、「人知れずこそ思ひそめしか」だ(笑)。

> 鳴く声におどろかれけりほととぎす奥山にこそすめと聞けども

のほうがいいかな。
係り結び的に。
うーん。
いや、前ので良い気がしてきた。

酒を適量飲んだ翌朝はやはり体調が安定しているような気がする。

アルコールはエンプティカロリーと言われてて、
脂肪になって体に蓄積はされない。
筋肉を動かすエネルギー(グリコーゲン)にもならない(たぶん)。
しかし、少なくとも代謝されて体を温める役には立っているわけである。
だからアルコールも一応熱量のうちなのだ。
ということは、本来脂肪なり炭水化物を燃やして体温を調整しているところを、
酒を飲めばアルコールが補うわけである。
酒を飲まなければ脂肪なり炭水化物を燃やしたはずだから、
その分体重が減るのは道理だ。

つまり酒のカロリーは基礎代謝に回されているはずだ。
いやむしろ、酒は、短期的に基礎代謝を維持するカロリーとしては最適なのではないか。
体としては楽ができる。
だから、酒を二日に一度くらい、あるいは週に休肝日を一日か二日くらいもうけつつ、
適度に飲めば体の負担は減り体調は良くなるのかもしれん。
酒を飲めば飲むだけ体に悪いのなら酒飲みから先に死んでいき淘汰されるだろう。
人類はしかしそうはなってない。

禁酒して血圧が維持できないよりずっとましな気がしてきた。

無料キャンペーン

kdpの販売データ一覧ってのがグラフィカルになったからよけいわかりやすいのだが、
無料キャンペーンのダウンロード数というのは、減ってきている。
私の書いたものがだんだんにつまらなくなってきている、とも解釈できるわけだが、
おそらくはkdpの注目度が下がってきているのと、
私の場合、すでに数を出しているから、読まないひとは最初からダウンロードしなくなってきているのだと思う。
kdpはもはやお祭り騒ぎの場ではない。
日常の一部なのだ。
派手なことをやれば目立つという時期は終わった。
新しいことはみんな興味をもつし取材もされるだろう。
新しくなくなるとだいたい人は離れていくし、
新しさもないのに作家活動を続けて生き残れる人はほとんどいない。
だからこそ生き残ることに価値があるともいえる。
小説なんてのは日本でもすでに竹取物語のころからあった。
和歌なんてそれよりずっと前からあった。
今更めずらしいもんでもない。

私は似たような業界にいるのである程度わかるが、
派手さも新鮮さもなくなったネタにいつまでもしがみつく人はいる。
わかりやすい例でいえばHTML (cssやjavascriptを含む)なんかがそうだ。
1995年くらいはほんとに新しかった。
新しさがなくなった後、HTMLは日常になった。
いまや世界中の、名もない子供から年寄りまで何億人という人がHTMLが書ける。
HTMLなんてテキストデータだし、ライセンス料もかからんし、
こんな元手のかからない商売はない。
しかしライバルはものすごく多いし、その中には大企業もいれば天才もいる。
まあ普通に考えれば勝てるはずがない。
ネタに新鮮さが失われたあとがほんとの勝負だといってその古いネタにしがみつくひとがいて、
間違いではないが、
古いネタで飯が食えるひとというのはいわゆる古典芸能的な人か、
ほんとうの個性を持っている人だろう。
ほんとうの個性を持っているなら、やれば良い。信じてやればよい。自分の才能にうぬぼれればいい。
しかし、ネタが派手だったころの成功体験を引きずって惰性でやめられずにいるなら、
自分の才能を錯覚しているだけなら、見苦しいだけだ。
うまくいけてるか見苦しいだけかは本人が自分で判断するしかない。
はたから見ててとやかくいうつもりはない。
作家活動と営業とは区別できない、というのは最近わかってきた。
だが、作品にみるべきものがないのに営業ばかりやってるのがほとんどの作家の実情だ。

無料キャンペーンは5日間なのだが、キャンペーン期間とレポートの期間にはずれがあって、
実質6日間の記録がみれる。
面白いのは2日目にピークがあり、
3日目はへこんで4日目に小さなピークができる、というパターンがあるらしい、
ということである。
1日、2日目に落とすひとというのはたぶんはきんどうさんのところなどの速報を見て落としている。
きんどうさんのような広報をしてくださる方にはやはり感謝をしなくてはならないと思っている。
4日目に落とす人はたぶんアマゾンのランキングを見てそれで目について買っているのかと思う。
私もどちらかと言えば後者な人だ。
よほど注目している作家(たとえばツイッターでフォローしている)でない限り、
出ていきなりは買ったり落としたりはしない。
キャンペーン期間が終わりかけたころにやっと気づいて買うほうである。

kdpはやはり最初の頃に比べるとインパクトは薄まっている。
kdpに近いことは、やり方はさまざまだがアマゾン以外でもはやってきている。
たぶん au がやってるくらいだから docomo も softbank もなんかやってるに違いない。
google も apple もやってるに違いない。
電子書籍のユーザーというのはようはスマホユーザーであって、
いわゆる読書人ではなく、
ほんとうの読書人というのはそんなたくさんはいないはずだ。

ライトなスマホユーザーに対して営業活動をして、その中に稀に存在している、
ほんとのファン、ほんとの読書人に気づいてもらうというのが、私のビジネスモデル、のはずだ。
今小学生や中学生の人たちは将来ほとんど全員がスマホユーザーになる。
その後生まれてくる人たちはほとんど全員電子書籍で本を読むようになる。
今と比べ物にならないくらいにユーザー数は増える。
今のうちにあるまとまった量の本を書いておくことは意外と後で効いてくるかもしれん。

ライトなスマホユーザーに対してライトな小説を提供するのが私の仕事ではない。

私がほんとの読者をどのくらい獲得しているかはわからんのだが、
無料キャンペーンをやるとしばらくわずかだが有料で買ってくれる人がいる。
無料の本を読んで面白かったから有料の本も買ってくださったのだろうと、
勝手に解釈しているのだが、
そういう声無き、お金を払ってくれる支持者というのはうれしいし、
そういう人をどうやって増やすか、
1つ目だけでなく2つ目のピークやそれ以外のピークをどうやって作っていくかが課題だわな。

いずれにしても無料キャンペーンは私にとってほとんど唯一の営業活動なので、
月に一回くらい、
定期的にやるのがよいと思う。
逆に言えば、
執筆量から逆算して月に1度定期的に出版できるような連載物もしくは短編を執筆すべきではなかろうか。
月刊、季刊、そのくらいのペースで出していく。別に今更珍しいビジネスモデルではない。
連載物がたまってきたら合冊して売ればよい。
こまめに執筆こまめに営業して露出を絶やさないことは重要だろうと思う。

もっとライトに

酒でたとえると、若者はやはり、アルコール低めの甘いカクテルのようなものが好きなわけです。
自分も最初はカクテルなどから酒の味を覚えはじめ、
だんだん飽き足らなくなって、強い酒や苦い酒、臭い酒を飲むようになる。
微妙な味わいの違いをたしなむようになる。
そっから先は日本では違法だが、
なら自分で自分の好きな酒は造ろうなどと考えるようになるだろう。

私が書いている小説というのはたぶんそういうものだ。
だから重い。
難しいというより、重い。
中年オヤジ特有の重さだ。
泥炭臭い、木香の強い、シングルモルトみたいな味。
嵐が丘で農夫が自分で適当に樽でエールを醸してジョッキに酌んで飲んでる。
もちろん常温だ。ぬるくて苦い。
たぶんまずいだろう。
だがそんなものも一度は飲んでみたいと思うのがオヤジだ。
まずくても自分で作ったものが飲みたい。
工業製品ではない、当たりはずれのある、自然と偶然の産物が飲みたい。
近代以前の、家内制手工業みたいな状態に立ち返ってみたい。

現代社会に生きているある種の反動なのだろう。
自分でもしかし普段は軽い酒を飲むし、
飲みすぎれば限りなくウーロン茶に近いウーロン割りを飲んだりする。
体の調子が良くないというか不安定なのでノンアルコールビールやホッピーの外なんか飲んだりする。
軽い酒はそういう飲み方もできる。
BGM代わりにテレビをつけっぱなしにしているようなもの。

山梨とか長野で、脱サラして蕎麦屋をやってるおやじみたいなことを、
自分もやっているんだなと思う。
蕎麦は地元の天然もの、蕎麦は自分で引いて打つ。もちろん蕎麦粉100%。
儲かるわけがない。
店主にはなれるだろう。そこそこ繁盛すれば、一応プロと言ってみることもできるかもしれない。
しかしそれだけでは自己満足に過ぎぬ。
世間一般ではうどんやスパゲッティが流行る、という構図と同じだ。
多くの中年おやじが次々に同じところにはまる。
だから駄目だとは思わない。
事例研究したうえで、きちんと対策を立てなきゃと思う。

自分で酒を醸して自分で飲むのならともかく、
人に飲ませなくてはならないとすると、
もっとさらっと飲める軽いものをたくさん作る必要があるんだろうなと思う。
そのうち軽い酒に飲み飽きてもっと重いのが飲みたいと思っている自分と同じ中年オヤジの目にふれるかもしれん。
それまでは軽いのを作ったほうがいい。

個人的にはシングルモルトは嫌いじゃないがあまり飲まない。
青酎みたいな臭い芋焼酎を飲んでいたらある日突然飽きていまは焼酎の中では麦焼酎が一番好みかな。
ビールもエビスとかシメイみたいのを飲んでて飽きて、今は普通にピルスナー飲んでる。
スーパードライとかモルツとか軽くて好き。

日本酒はだんだんわかるようになってきた。好きだがすぐ酔うから困る。

自衛隊機の夜間飛行差し止め

[自衛隊機の夜間飛行差し止め 厚木基地の第4次騒音訴訟で初判断 横浜地裁](http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/140521/trl14052114480002-n1.htm)

近隣住民の一人として言わせてもらえば、
まったくなんの意味もない判決だ。
22:00から6:00まで戦闘機は今現在ほとんど飛んでいない。
少なくともうちの近所では。
自衛隊機だけで米軍機を差し止めないのでは意味がない。

二重の意味で意味がない。

P3Cみたいな静かな飛行機は別に飛んでも良い、と思う。
偵察機や対潜哨戒機なんてのはもともと静かなんだよな。
プロペラの音はのんきだし、ジェットエンジンでもすごいしずか。
輸送機は図体はでかいがプロペラで割と静か。
新聞社のヘリコプターのほうがずっと迷惑。
ファントムもまあ許す。
しかし、最近になって飛び始めたスーパーホーネット。
あれはキチガイだ。
次から次にうるさい戦闘機が開発されて、
どんどん騒音がエスカレートしていくのであれば、
そりゃだまされたと思うわな。
今でさえ引っ越したいのにもっとうるさい戦闘機が配備されたらどうしようって思うわ。

だから、戦闘機は飛ばしてもいいから、
ある一定の騒音の基準をきめて、それを越えないでほしい。
スーパーホーネットF18とか論外。
どんくらいうるさいかというのはなかなか比較できないんだが、
福岡で箱崎天満宮の上をジャンボが低空飛行するくらい、と言えばよいか。
しかし、
スーパーホーネットはほんとに常識外れにうるさいので、
民間機のジャンボと同じかどうか私にはよくわからん。
というかうまく比較できない。
箱崎ではさすがにうるせーなとは思った。
だが福岡空港の便利さを考えると仕方ないのかなとも思う。
こんな日本でも最も人口密度の高いところに米軍の飛行基地があること自体間違っている。
もし、この騒音がなくなったら、どれほどたくさんの人のQoLが向上し、
不動産の資産価値が上がると思ってるのか。
頭おかしい。
も少し国土を有効利用してもらえないだろうか。
日本は狭いようで広いんだからさ。
どんどん地方過疎化して人が全然住んでないところが増えてるのになんでいまだにこんな都心の近くで戦闘機飛ばすかね?
ともかくまず、マスコミは、
町田上空あたりをスーパーホーネットが飛ぶときの取材でもしてくれよと言いたい。
わざわざ沖縄いくより近場で取材費節約になるだろ(笑)。
あのうるささは実際体験してみないとわからん。

しかし今の訴訟のやり方には失望する。
何の問題提起にもなってない気がする。
マスコミも頓珍漢なこと言ってるし。
勝訴とか敗訴とか控訴とかどうとでもなれって感じ。
気がめいる。

海賊王ロジェールその2

続編の話ではなくて昨日書いたことの続き。
いつものことながら書いているうちに歴史を調べ地理を調べしてどんどんプロットが変わる。

日本人がほんわかと思っている西洋とかキリスト教に関するイメージをたたき壊すようなそんな作品になってしまった。
そういう意味ではハイジのイメージをぶちこわしにするデーテとかフローニと同じたぐいの作品になった。
なんか怒られそうで今から怖い。

ワンピースみたいな海賊冒険ものを想像して読んだ人も、唖然とするだろうと思う。
たぶん私の中には日本アニメに反逆してやろうという気持ちがあるね。
書いていてそう気づく。

ただまあ、ほんとに西洋やキリスト教を知っている人には、
逆に支持してもらえると、信じてるよ?
高校生の頃からしばらく完全に小室直樹の影響下にあったからな。
やっぱこういうふうになるわな。
宮崎市定とかもだな。

だいたいアルメニア人とかクルド人とかグルジア人とかアゼルバイジャン人とか良くわからんのだよね。
そういう意味では安彦良和はあんなに昔によく「クルドの星」を書いたと思うよ。

ユダヤ教とアルメニア教会は良く似ていると思った。
メジャーな一神教はキリスト教やイスラム教のようになるが、
マイナーな一神教はユダヤ教やアルメニア教会のようになるんだなあと思う。
そしてメジャーなようにみえて一神教の内部も宗派によってこまかく対立しているのだ。
その理由は主に、宗教が結婚というものを規定しているからだ。
家庭が相続というものを規定する以上、
いやいや相続が家庭や結婚というものを規定する以上、
相続とは宗教の教義よって決まる。
ある相続が有効か無効かは、宗教が結婚を有効と認めたかどうかで決まる。
ヨーロッパで王の相続とは国そのものであるから、
教会が結婚や相続の正統性を決め、王はそれを不服として継承戦争を起こす。
対立教皇をたてる。
対立宗派を創設する。
教会と無関係に勝手に結婚して勝手に相続すりゃいいじゃないかと、
まあ日本人なら思うわな。
だんだんそのへんのからくりをうまく説明できるような気がしてきた。

海賊王ロジェール

今書いている海賊王ロジェールは、
割と計算尽くで書いたものである。

いくつもキンドルで本出しているとだいたい傾向はわかってくる。

私の書いたものの中では、日本史ものよりも世界史ものの方が読まれる。
エウメネスだけでなくエウドキアもわりと読まれている。
これらに比べると日本史ものは全然読まれてないと言っても良い。
洋物でも、フローニとかデーテはあまり読まれてない。

世界史、特にギリシャ関係の話は、受けるらしいのである。
といってめちゃくちゃ売れているわけではないが、
どうも私はしばらくの間はギリシャものだけ書いて、
こつこつ読者を獲得していればいいんじゃないか、とすら思う。

世界史は複雑だ。
情報量が圧倒的に多い。
できるだけたくさん集めておいて、
ストーリーに直接絡まない部分を大胆に捨てる。
教科書的、ウィキペディア的な記述にならないように。
かといってディテイルを落とさないように。
正直難しいが、その分やりがいがある。

今回かなり作って書いている。ある程度技を覚えたともいえる。
も少し若い頃から書き始めていればよかったとも思える。
「紫峰軒」や「スース」「超ヒモ理論」「安藤レイ」なんかはわりとさらっと書いている。
普通の現代小説(でも、あまり読まれてない?)。
我ながら同じ作家の作品ではないなこりゃと思う。
言っちゃ悪いが新人賞に応募してもほとんどなんの反応もない。
パブーに公開しても、読者が何考えてるかよくわからん。
しかしKDPだとかなりわかる。
書いているうちになんとなく読者や編集者の気持ちまでわかるような気がするのだ。
逆にいうとこう書けばきっと読者は喜ぶに違いないなんて書き方をするようになった。
悪いことじゃないと思う。
今までは自由すぎて逆に書きにくかったともいえる。
自由に書いてまったく反応が無いでは書きようがない。
ともかくKDPはありがたい。

KDPは自分で作家や作品を選べるのが良いと思う。
普通の読者は、書店で本を買うような読者は、実は本を自分で選んで読んでいるのではない。
本屋で平積みになってたからとか宣伝してたからとかドラマ化されたからとか映画化されたからとか、
そんなんだ。
だからソニーリーダーみたいなビジネスモデルが成立する。
選択の余地はほとんどない。
ただ流行の本、推してる本を読まされるだけだ。
KDPはそうではない。
そうじゃないことに気がつく人はこれからますます増えるだろう。
私もそういう人に読んでもらえれば十分だ。
というかそういう人をターゲットにするしか読者を獲得する方法が私にはない。

とりあえずこの複雑なストーリーをなんとか読者に最後まで飽きずに読ませることが必要だ。
複雑さ、おもしろさで言えば「将軍家の仲人」も捨てたもんじゃない。
だけど、新井白石や徳川家宣では地味すぎて読者はなかなかついてきてくれない。
十字軍ならなんとかなるんじゃないかという一縷の望みがある。
「十字軍物語」とは全然違う。
塩野七生の書いたものは、たしかにローマ人の物語の、
ハンニバル戦記あたりは面白いし参考になる。
しかしやはり教科書的であって小説っぽくない。
もう少し書きようがあったんじゃないかと思えてしかたない。
今は英語版Wikipedia他を検索すると、かなり膨大な情報が得られるから、
そう思うだけかもしれんが。

塩野七生が売れているのはおそらく需要の割に供給が少ないからだろう。
なんでか知らんが日本人はああいうのが好きなのだろう。
そして実際書けるひとは少ない。
高校のときちゃんと世界史勉強してないからだ(笑)。
三国志とか信長とか秀吉とか龍馬とかばかり読んでいて脳がやられてる。
だから私が書いてやろう。

読んだことはないが(汗)トルコ人のノーベル賞作家が書いた『わたしの名は紅』に近いんじゃないか。
とにかく書いてて調べてて話がもうどろっどろで気持ち悪くなった。
まじでどろっどろな話なので気をつけてください。
だけどこういう陰謀物でメンヘラな話だと最後まで読める人が多いような気がするんだよな。

これも旧作のリメイクなんだけど、
もとの話は世界広すぎて一度に書けないから短編にばらして書くことにした。
ある意味「エウドキア」の後に続く十字軍をすっ飛ばしてその後の話を書いた。
十字軍も書くかなあ。
手垢の付いたネタは好きじゃない。
「ベタを恐れない勇気」とか言われてそうかなあとは思うが、
そこまでまだ作家に徹し切れてない。
いや、それ以前に、十字軍の話はつまらんよ、
神殿の中は床にくるぶしまで血がたまったとか。ばかばかしい。
キリスト教徒、とくにカトリック信者によるバイアスがかかりすぎている。
それをクリスチャンでもムスリムでもない視点で直すのが面白いと言えば面白いかな。
続編書くかどうかは反応しだいだな。

ロジェールだが、
英語だと Roger (ロジャー)。
イタリア語だと Ruggero (ルッジェーロ)。
だが古ノルド語では Hrod-Ger
であって、ノルマン人がシチリアにやってきたときは、
ロッゲール、と呼んでいた可能性が高いだろうと思う。
dg が[gy](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%A3%B0%E5%BE%8C%E9%83%A8%E6%AD%AF%E8%8C%8E%E6%91%A9%E6%93%A6%E9%9F%B3)になまってロッジェール、あるいはロジェールと呼んでいた可能性もなくもない。
フランス語だとロジェ。
ドイツ語だとロギーア(ロギエール)。Rutgers とも綴るらしい。
実際に Roger と書いてロジェールと読む名があるのはスペイン語かポルトガル語くらいらしいが、
結局ロジェールとした。
ロジャーとはしたくない。
ちなみにラテン語だとロゲリウス。

Baldwin は現代フランス語読みではボードゥワン、
Gottfried はゴドフロワなどと呼ぶが、十字軍のころ、
こんなすかした呼び方をしたはずがない。
Bald-win はすばやい、容易な勝利、という意味のゲルマン語であるし、
Gott-fried は神の平和という、やはりゲルマン語である。
Baudouin、Godefroy じゃ意味がわからん。

ロジェールはおそらくパレルモからほとんど動かなかった。
シチリアからメッシーナ海峡を渡りナポリまでも行かなかったらしい。
だが、[アブドゥル・ラーマン](https://en.wikipedia.org/wiki/Christodulus)や[ゲオルグ](https://en.wikipedia.org/wiki/George_of_Antioch)などの個性豊かな海賊が部下にいた。
だから「海賊王」なのである。
続編を書くとしたらゲオルグあたりが実際の主人公になると思う。
ていうかしないといけない。

「ベタを恐れない勇気」って誰が言った言葉かと思ったら、
[直木賞作家の辻村深月](http://d.hatena.ne.jp/hiro010301/20130207/p1)が言ってたわー。
> ベタを恐れない勇気というか、そういうものを、たぶん一番上質なお手本としてドラえもんや藤子先生や他の作品から教えてもらったんだと思います

ベタを恐れるっていうか。
ベタなの書くのが嫌いなんだよね。読むのも嫌い。
自分以外の誰かが書いて読めばいいと思う。

て居り

喜田貞吉[サンカ者名義考](http://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49822_44667.html)
を読んでいると、平安朝末期の散木奇歌集に

> うからめは うかれて宿も 定めぬか くぐつまはしは 廻り来て居り

という連歌があるという。
散木奇歌集とは何かというと、源俊頼の家集であるという。
どうみてもこれは連歌というよりは、一種の和歌だが、
私がびっくりしたのは「てをり」で、こんな現代短歌みたいな言い方が平安時代からあったのか。
慌てて検索してみるが、[和歌データベース](http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_kigo_search.html)にはこの一首のみらしい。
他にも変な歌がいくつかある。

> くひほそく いほししりして たちなほれ いなごまろびて みぞにおちるな

> たかうなと たかしはいはで もてまゐれ きしにおひたる たてきしたてて

> くろをとこ くろとのほとに おとすなり ひこのしろぬし ゆきたかかるい

源俊頼はごくまっとうな歌人である。
それが「傀儡回しは廻り来て居り」とか「イナゴまろびて溝に落ちるな」とか「もてまゐれ」などと歌に詠むだろうか。
信じられない。
これらは明らかに俗謡であろう。
俊頼が戯れに詠んだか。あるいは、民間の歌を収録したのか。
後拾遺集序に

> 又うるはしき花の集といひ、足引の山伏がしわざと名づけ、うゑ木のもとの集といひあつめて言の葉いやしく、姿だみたる物あり。これらの類は、誰がしわざともしらず。又歌のいでどころ詳ならず。たとへば山河の流を見て、水上ゆかしく、霧のうちの梢を望みて、いづれのうゑ木と知らざるが如し。

とあるが、民間の和歌を集めた歌集もあったと見えるが、
そういう歌が紛れ込んだ、或いは俊頼の歌集とごちゃまぜになったのではないか、とすら思える。

土佐日記に舟子舵取の歌とて

> 春の野にてぞねをばなく。わが薄にて手をきるきる、つんだる菜を、親やまほるらむ、姑やくふらむ。かへらや。よんべのうなゐもがな。ぜにこはむ。そらごとをして、おぎのりわざをして、ぜにももてこずおのれだにこず

とあり、
また梁塵秘抄のような俗謡(今様)もあるわけだが、
平安末期にはすでに「てをり」のような口語があって、
それが現代短歌にどういうルートをたどったか知らぬが復活したのかもしれぬ。
「ゐし」とか「たりし」などもそうだろうか。
おそろしいことである。

まいずれにしろ、
記録に残ってないだけで口語による俗謡のたぐいはずっとあったわけだ。
それが復権しただけかもしれんね。

> まことにや れむかをしては おともせぬ ひとはしもやとに すゑつけよかし

ははあ。
こんな歌もある。
「れむか」は連歌だわな。
『俊頼髄脳』にも連歌が採られているという。

> このみちに はうちやうたいふ ちやうしたり みれはみよしの すけるれうりも

意味はわからんが、かなり大胆に漢語を取り入れているようだ。
釈教歌以外で漢語が用いられることは珍しい。

してみると後拾遺集や金葉集の頃すでに連歌と呼ばれる(五七五・七七・五七五・七七・・・という形式の)俗謡が流行っていて、
俊頼はそれをある程度研究していた、ということだろうか。
そうするとどうも連歌というのは、少なくともその当初は、
上の句と下の句をつないでいく遊びというよりは、
むしろ、俗謡という意味に近かったのではなかろうか。

サンカ者名義考に戻ると、シサムというのはアイヌ語で和人のことだ。
サンカにシサムという語があったのだろうか。
なんとも言えぬ。
クグツとは単に人形のことだから、
クグツシサムは単に人形使いという意味ではなかろうか。
散木奇歌集には割と詳しい詞書がついているようだから、是非読んでみたい。
どうやったら読めるのだろう。
できれば活字で読みたい。

なみより出ででなみにこそ入れ

武蔵野の広漠とした風景をうまく表した歌

> むさしのは 月の入るべき 山もなし 草より出でて 草にこそ入れ

これは江戸時代の俗謡で元は、藤原通方という人の歌

> むさしのは 月の入るべき 峰もなし 尾花が末に かかる白雲

であるという。採られているのは続古今集。
しかし、土佐日記に出てくる歌

> 都にてやまのはに見し月なれどなみより出ででなみにこそ入れ

にも似ている。
合わせ技なのだろう。

藤原通方という人はよくわからんが、定家と同じ時代の人だったようだ。
通方の歌を指摘した人はいるようだが、
土佐日記に言及した人はいないように思う。