これでも国家と呼べるのか

小室直樹は預言者である。彼の預言で最も有名なのは「ソビエト帝国の崩壊」だが、他にもいろんな重大な預言を遺している。

「これでも国家と呼べるのか」は平成八年、つまり、今から18年前、1996年に出た本だが、恐るべき預言をしている。

日本人はまだ「土下座外交」の本当の恐ろしさを理解していない。国際法上、みずから謝罪するとは責任を取ることである。責任を取るとは補償に応ずるということである。このとき、挙証責任はこっちに押し付けられてしまうのだから、相手の言いなり以外にどうしようもない。挙証責任とは何か。分かりやすい例を挙げておこうか。

あなたがある日突然、見ず知らずの他人から「借金を返せ」と訴えられたとしよう。挙証責任がこちらにあるということは、裁判でその見ず知らずの他人から金銭を借りた事実が存在しないことを、あなたが挙証・立証しなければならないということである。もしあなたが大金持ちで、次から次へと見ず知らずの他人から裁判を起こされたらどうしますか。

国際法上、講和条約またはそれに該当する条約(例、日中共同声明、日韓基本条約など)を結べば、それ以前のことは一切なかったことになる。もはや賠償の義務はない。それなのに、日本の方から謝罪したので、一切が蒸し返されてしまった。佐藤内閣の日韓基本条約や田中角栄が周恩来に賠償を放棄させた日中共同声明など、せっかくの努力がみんな無駄になった。

諸外国もその国民も、あることないこと、いやあるはずのないことを言い立てて日本に補償を要求してくるに決まっている。戦争責任に時効はないとばかりに。日本は挙証責任をひっかぶってしまっているんだから逃げられない。「ヒロシマ、ナガサキ」に対して “I’m not sorry” と言ったアメリカとはわけが違うのだ。

今のネトウヨがツイートしたりブログに書いていることはすべて小室直樹が30年前から言っていることの焼き直しに過ぎない。田母神俊雄などは現場の将官だったから少しは新しいことを言っているが、ほとんど同じ。細川政権や村山政権は比較的最近なので、小室直樹が書いたことの中ではごく新しいが、それでもインターネットに民間プロバイダが現れるよりも前の論説であるからネトウヨよりずっと古い。今は石原閣下以下いろんな人がそういうことを公の場で言うようになり、飲み屋の親父も昔から知ってましたとばかりに韓国・中国批判をするが、正直なところ「おっさん、ほんとにわかってんの」と言いたい。
テレビでわいわい言ってることを反復するのは飲み屋の親父だってできる。実際飲み屋の親父なわけだが。

小室直樹は誰よりも早く、リアルタイムに指摘していた。二番目ですらなかった。誰よりも早く、一番にだ。そして誰も当時小室直樹を理解する人はいなかった。小室直樹が如何に偉大だったか!私も小室直樹のようになりたい。

ほととぎす

ついさっき、うちの近所でホトトギスの鳴き声を聞いた。

キョッ、キョッ、キョキョキョ、つまり、ホットットギス、みたいな鳴き方。
わりとゆっくり。
ユーチューブでも確認したから間違いない。
のどから血を吐くような声、というわけではない。わりと澄んでいる。
かなりでかい声だが。

時期もぴったりだ。旧暦で言うとさつき。夕暮れ時。
すげえこんな町中にもいるんだな。
竹藪みたいなところだった。
急に親しみがわいてきた。
ここで一つ和歌でも詠まねばならぬところだが、
ホトトギスを詠んだことないので、すぐには出てこない。

> 鳴く声におどろかれけりほととぎす奥山にこそすむとききしか

何かに似てる。そう、「人知れずこそ思ひそめしか」だ(笑)。

> 鳴く声におどろかれけりほととぎす奥山にこそすめと聞けども

のほうがいいかな。
係り結び的に。
うーん。
いや、前ので良い気がしてきた。

酒を適量飲んだ翌朝はやはり体調が安定しているような気がする。

アルコールはエンプティカロリーと言われてて、
脂肪になって体に蓄積はされない。
筋肉を動かすエネルギー(グリコーゲン)にもならない(たぶん)。
しかし、少なくとも代謝されて体を温める役には立っているわけである。
だからアルコールも一応熱量のうちなのだ。
ということは、本来脂肪なり炭水化物を燃やして体温を調整しているところを、
酒を飲めばアルコールが補うわけである。
酒を飲まなければ脂肪なり炭水化物を燃やしたはずだから、
その分体重が減るのは道理だ。

つまり酒のカロリーは基礎代謝に回されているはずだ。
いやむしろ、酒は、短期的に基礎代謝を維持するカロリーとしては最適なのではないか。
体としては楽ができる。
だから、酒を二日に一度くらい、あるいは週に休肝日を一日か二日くらいもうけつつ、
適度に飲めば体の負担は減り体調は良くなるのかもしれん。
酒を飲めば飲むだけ体に悪いのなら酒飲みから先に死んでいき淘汰されるだろう。
人類はしかしそうはなってない。

禁酒して血圧が維持できないよりずっとましな気がしてきた。

無料キャンペーン

kdpの販売データ一覧ってのがグラフィカルになったからよけいわかりやすいのだが、
無料キャンペーンのダウンロード数というのは、減ってきている。
私の書いたものがだんだんにつまらなくなってきている、とも解釈できるわけだが、
おそらくはkdpの注目度が下がってきているのと、
私の場合、すでに数を出しているから、読まないひとは最初からダウンロードしなくなってきているのだと思う。
kdpはもはやお祭り騒ぎの場ではない。
日常の一部なのだ。
派手なことをやれば目立つという時期は終わった。
新しいことはみんな興味をもつし取材もされるだろう。
新しくなくなるとだいたい人は離れていくし、
新しさもないのに作家活動を続けて生き残れる人はほとんどいない。
だからこそ生き残ることに価値があるともいえる。
小説なんてのは日本でもすでに竹取物語のころからあった。
和歌なんてそれよりずっと前からあった。
今更めずらしいもんでもない。

私は似たような業界にいるのである程度わかるが、
派手さも新鮮さもなくなったネタにいつまでもしがみつく人はいる。
わかりやすい例でいえばHTML (cssやjavascriptを含む)なんかがそうだ。
1995年くらいはほんとに新しかった。
新しさがなくなった後、HTMLは日常になった。
いまや世界中の、名もない子供から年寄りまで何億人という人がHTMLが書ける。
HTMLなんてテキストデータだし、ライセンス料もかからんし、
こんな元手のかからない商売はない。
しかしライバルはものすごく多いし、その中には大企業もいれば天才もいる。
まあ普通に考えれば勝てるはずがない。
ネタに新鮮さが失われたあとがほんとの勝負だといってその古いネタにしがみつくひとがいて、
間違いではないが、
古いネタで飯が食えるひとというのはいわゆる古典芸能的な人か、
ほんとうの個性を持っている人だろう。
ほんとうの個性を持っているなら、やれば良い。信じてやればよい。自分の才能にうぬぼれればいい。
しかし、ネタが派手だったころの成功体験を引きずって惰性でやめられずにいるなら、
自分の才能を錯覚しているだけなら、見苦しいだけだ。
うまくいけてるか見苦しいだけかは本人が自分で判断するしかない。
はたから見ててとやかくいうつもりはない。
作家活動と営業とは区別できない、というのは最近わかってきた。
だが、作品にみるべきものがないのに営業ばかりやってるのがほとんどの作家の実情だ。

無料キャンペーンは5日間なのだが、キャンペーン期間とレポートの期間にはずれがあって、
実質6日間の記録がみれる。
面白いのは2日目にピークがあり、
3日目はへこんで4日目に小さなピークができる、というパターンがあるらしい、
ということである。
1日、2日目に落とすひとというのはたぶんはきんどうさんのところなどの速報を見て落としている。
きんどうさんのような広報をしてくださる方にはやはり感謝をしなくてはならないと思っている。
4日目に落とす人はたぶんアマゾンのランキングを見てそれで目について買っているのかと思う。
私もどちらかと言えば後者な人だ。
よほど注目している作家(たとえばツイッターでフォローしている)でない限り、
出ていきなりは買ったり落としたりはしない。
キャンペーン期間が終わりかけたころにやっと気づいて買うほうである。

kdpはやはり最初の頃に比べるとインパクトは薄まっている。
kdpに近いことは、やり方はさまざまだがアマゾン以外でもはやってきている。
たぶん au がやってるくらいだから docomo も softbank もなんかやってるに違いない。
google も apple もやってるに違いない。
電子書籍のユーザーというのはようはスマホユーザーであって、
いわゆる読書人ではなく、
ほんとうの読書人というのはそんなたくさんはいないはずだ。

ライトなスマホユーザーに対して営業活動をして、その中に稀に存在している、
ほんとのファン、ほんとの読書人に気づいてもらうというのが、私のビジネスモデル、のはずだ。
今小学生や中学生の人たちは将来ほとんど全員がスマホユーザーになる。
その後生まれてくる人たちはほとんど全員電子書籍で本を読むようになる。
今と比べ物にならないくらいにユーザー数は増える。
今のうちにあるまとまった量の本を書いておくことは意外と後で効いてくるかもしれん。

ライトなスマホユーザーに対してライトな小説を提供するのが私の仕事ではない。

私がほんとの読者をどのくらい獲得しているかはわからんのだが、
無料キャンペーンをやるとしばらくわずかだが有料で買ってくれる人がいる。
無料の本を読んで面白かったから有料の本も買ってくださったのだろうと、
勝手に解釈しているのだが、
そういう声無き、お金を払ってくれる支持者というのはうれしいし、
そういう人をどうやって増やすか、
1つ目だけでなく2つ目のピークやそれ以外のピークをどうやって作っていくかが課題だわな。

いずれにしても無料キャンペーンは私にとってほとんど唯一の営業活動なので、
月に一回くらい、
定期的にやるのがよいと思う。
逆に言えば、
執筆量から逆算して月に1度定期的に出版できるような連載物もしくは短編を執筆すべきではなかろうか。
月刊、季刊、そのくらいのペースで出していく。別に今更珍しいビジネスモデルではない。
連載物がたまってきたら合冊して売ればよい。
こまめに執筆こまめに営業して露出を絶やさないことは重要だろうと思う。

もっとライトに

酒でたとえると、若者はやはり、アルコール低めの甘いカクテルのようなものが好きなわけです。
自分も最初はカクテルなどから酒の味を覚えはじめ、
だんだん飽き足らなくなって、強い酒や苦い酒、臭い酒を飲むようになる。
微妙な味わいの違いをたしなむようになる。
そっから先は日本では違法だが、
なら自分で自分の好きな酒は造ろうなどと考えるようになるだろう。

私が書いている小説というのはたぶんそういうものだ。
だから重い。
難しいというより、重い。
中年オヤジ特有の重さだ。
泥炭臭い、木香の強い、シングルモルトみたいな味。
嵐が丘で農夫が自分で適当に樽でエールを醸してジョッキに酌んで飲んでる。
もちろん常温だ。ぬるくて苦い。
たぶんまずいだろう。
だがそんなものも一度は飲んでみたいと思うのがオヤジだ。
まずくても自分で作ったものが飲みたい。
工業製品ではない、当たりはずれのある、自然と偶然の産物が飲みたい。
近代以前の、家内制手工業みたいな状態に立ち返ってみたい。

現代社会に生きているある種の反動なのだろう。
自分でもしかし普段は軽い酒を飲むし、
飲みすぎれば限りなくウーロン茶に近いウーロン割りを飲んだりする。
体の調子が良くないというか不安定なのでノンアルコールビールやホッピーの外なんか飲んだりする。
軽い酒はそういう飲み方もできる。
BGM代わりにテレビをつけっぱなしにしているようなもの。

山梨とか長野で、脱サラして蕎麦屋をやってるおやじみたいなことを、
自分もやっているんだなと思う。
蕎麦は地元の天然もの、蕎麦は自分で引いて打つ。もちろん蕎麦粉100%。
儲かるわけがない。
店主にはなれるだろう。そこそこ繁盛すれば、一応プロと言ってみることもできるかもしれない。
しかしそれだけでは自己満足に過ぎぬ。
世間一般ではうどんやスパゲッティが流行る、という構図と同じだ。
多くの中年おやじが次々に同じところにはまる。
だから駄目だとは思わない。
事例研究したうえで、きちんと対策を立てなきゃと思う。

自分で酒を醸して自分で飲むのならともかく、
人に飲ませなくてはならないとすると、
もっとさらっと飲める軽いものをたくさん作る必要があるんだろうなと思う。
そのうち軽い酒に飲み飽きてもっと重いのが飲みたいと思っている自分と同じ中年オヤジの目にふれるかもしれん。
それまでは軽いのを作ったほうがいい。

個人的にはシングルモルトは嫌いじゃないがあまり飲まない。
青酎みたいな臭い芋焼酎を飲んでいたらある日突然飽きていまは焼酎の中では麦焼酎が一番好みかな。
ビールもエビスとかシメイみたいのを飲んでて飽きて、今は普通にピルスナー飲んでる。
スーパードライとかモルツとか軽くて好き。

日本酒はだんだんわかるようになってきた。好きだがすぐ酔うから困る。