月別アーカイブ: 2010年3月

類題和歌集

後水尾天皇は、それまでの勅撰集のやり方をやめて、 類題和歌集というものを作り始めた。 古今集よりも後の勅撰集は、その前に出た勅撰集と歌がかぶらないようにした。 だが、類題和歌集は、それまでに出た勅撰集からも採れば、 それ以後の歌も採る。 歌の数も一万首以上になる。 後水尾天皇の宣旨によって編纂されたのだから、 勅撰和歌集の一種に違いないのだが、 後世の人はこれを勅撰集とは言わない。ほとんど注目もされていない。 これはいったいどうしたことだろうか。 天皇の影響力が相対的に低下していたからだろうか。 また、後世悪名高い古今伝授というものが固定していったのも後水尾天皇の頃からのようだ。

カテゴリー: 未分類

後鳥羽院

あいかわらず丸谷才一「後鳥羽院」 > 駒なめてうちいでの浜をみわたせば朝日にさわぐしがの浦波 1200年、後鳥羽上皇が20才のときに詠んだ歌。 承久の乱は1221年、それから21年も後のことだ。 丸谷才一は、この歌を、彼らしく「物騒な趣」だとか「いっそ思い切って右翼的と呼ぶほうが正しいような」 などと表現している。 確かにそう見れば見れなくもないが、そういう読み方をするのは、 戦後民主主義の世界観にどっぷりと浸かった、 「いっそ思い切って左翼的と呼ぶほうが正しいような」丸谷才一くらいだろうと思う。 非常に役に立つ嗅覚であるのは間違いないのだが。 源平の兵乱のただ中に即位した後鳥羽天皇は、 それまでしばらく現れなかった、文武両道ということを多少とも意識した天皇であったことは間違いなく、 若い頃には武士のまねごとのようなこともしてみたのだろう。 たぶん、当時の気分としてはただそれだけのことだと思う。 そう、今で言えば暴走族が早朝相模湾沿いの国道一号線を走っているかのような。 承久の乱の直前に詠まれた歌だとしたらまたいろいろな解釈もできるだろうが。 後白河法皇死去が1192年(後鳥羽天皇12才)、自ら退位して上皇になったのが1198年(18才)、 頼朝の死去は1199年(19才)、朝廷も幕府もいろいろごたごたしてただろうが、 若くはつらつとした時期だったのに違いない。 1189年、頼朝が… 続きを読む »

カテゴリー: 未分類

上田秋成

上田秋成の「つづらぶみ」を読んでいるが、 秋成の歌は相当うまい。 おそらく公平に見て、近世の歌人で一番うまいのが秋成、その次が良寛、景樹、 または蘆庵というところだろう。 この四名は一流と言って良いと思う。 「つづらぶみ」の冒頭だけ見ても、 > 都べはちまたのやなぎ園の梅かへり見多き春になりけり 都あたりは、町中の柳や庭園の梅など、見かえりすることが多い春になったという、 なにか浮世絵の美人画でも見るような、いかにも江戸時代らしい歌。 > 我が宿の梅の花咲けり宮人のかざしもとむと使ひ来むかも これはまあたぶん「勅なればいともかしこし」辺りをイメージしているか。 > 折らばやと立ち寄る梅に鴬のゆるさぬ声をおどろかすかな ひょうきんな感じがなかなか良い。 この辺りは景樹に通じるところがある。 > 大和魂と言ふことをしきりに言ふよ。どこの国でも、その国の魂が、国の臭気なり。 おのれが像の上に書きしとぞ「敷島のやまと心の道とへば朝日にてらすやまざくら花」とはいかにいかに。 おのが像の上には尊大の親玉なり。そこで「しき島のやまと心のなんのかのうろんな事を又さくら花」と答へた。 とは小林秀雄も指摘しているところだが、秋成は宣長とはかなり相性が悪かったようだ。 「敷島のやまと心の道とへば」とはかなり悪意ある誤読ではあるが、 漢籍にも親しみ、読本も書き、歌もうまかった秋成にしてみれば、 宣長のこの… 続きを読む »

カテゴリー: 未分類

新編国歌大観

図書館で新編国歌大観を見てげんなりした。 まあいわば電話帳みたいなもんです。三段組みの。 それにこれでもかこれでもかといわんばかりに和歌が書かれてある。 一行に歌一つ。 21代集なんかこんなの読まなくてもほかにいくらでもあるわけで、 私が読みたかったのは第9巻の辺りにまとまっているのだが、 これ一巻読むのもかなり絶望的な労力が・・・。 要するに電話帳なんです。文字サイズは文庫本より小さいけど。 この圧倒的な物量。 刑務所に入ったときに持ち込むとちょうど良いかもしれん。 しかも契沖とか見るとこれまためちゃくちゃ歌が多いの。 割と好きだが、単調すぎるので、読んでいるうちに意識朦朧となる。 後水尾天皇の歌も霊元天皇の歌も多すぎる。 ていうかみんな多すぎる。 そのあと群書類従、続群書類従、続々群書類従とかちらと見たが、 なんかもうごめんなさいって気持ちになってきた。 そのとなりに勝海舟全集ってのがあって、勝海舟ってこんなに自分で本書いてたのかとさらに絶望的な気持ちにさせられた。 おなかいっぱいになった。 みんなきっと21代集まではつきあえるんだよ。 21代と言ってもふつうはその中の古今と新古今くらいしか見ないしあとは万葉。 和歌は、応仁の乱で途絶えたのではなく、その後、臨界を超えて爆発的に増殖したんだと思うんだ。 万葉・古今・新古今と来て、歌学というものが発達した。 禁中並公家諸法度でも国… 続きを読む »

カテゴリー: 未分類

丸谷才一「後鳥羽院」

いろいろ手を広げすぎてもうわけわかめ。 新編国歌大観を図書館で見ておなかいっぱいになった。 しかし、これにも載ってない歌もたくさんあるんだろうな。 めんどうだ。 丸谷才一「後鳥羽院」読む。 目のつけどころは良いんだろうなと思う。 歴代天皇の中で後鳥羽院ほどの歌詠みはいなかったわけだし。 あとがきの、国学院大学の教員になったいきさつなどが割と面白かった。 英文科を卒業し「国文学を読もうとする英語教師」のためにあれこれと便宜をはかってくれる国文科の同僚たち、等々。 なんというか、Aという人が歌をこう解釈し、 Bという人はこう解釈し、著者はこう解釈した。 しかし、ほんとうはどうだかわからない。というのがこの種の本であり、 ある意味「逆接の日本史」なんかと同じで、 なるほどそんな解釈の仕方もあったか、というだけで、結局歴史の謎は解けないままで、 読後に釈然としない気持ちが残る。 しかし文芸評論なんてものは小林秀雄にしろなんにしろそんなものなのだろう。 読者はただそれをおもしろがれば良いわけだ。 2004年に第二版が出ているようだ。はて。

カテゴリー: 未分類

後鳥羽院四百年忌御会

後鳥羽天皇が隠岐の島で死去して400年目(1638)に開かれた歌会、その冒頭の後水尾院の御製 > 恋ひつつも鳴くや四かへりももちどり霞へだてて遠き昔を なぜ4回なくかというと、ももちどり、つまり百匹いる千鳥が (いやほんとは百千いる鳥、なのかもしれないがそれはさておき)4回ずつ鳴くので合わせて400回、 遠くへだててかすむしにしえの後鳥羽天皇の御代を慕って鳴くという、 なんとも言えずみごとな歌ではないか。 やはり、後水尾天皇はひと味違う。 新日本古典文学大系「近世歌文集 上」の解説で、上野洋三氏が指摘しているが、「禁中並公家法度」において、 > 第一御学問なり、学ならずんば則ち古道明らかならず、而して能く太平を致すもの未だ之有らざるなり。 貞観政要の明文なり。 寛平遺誡に経史を極めずと雖も群書治要を踊習すべしと去々。 和歌は光孝天皇より未だ絶へず、綺語たりと雖も、我国の習俗なり。 棄て置くべからずと去々。 禁秘抄に載せる所、御学習専要に候事。 要するに、天皇や公家は勉強に励み古道を明らかにせよと。 和歌は光孝天皇(なぜこの人なのか)から未だに衰えていない。 「綺語たりと雖も、我国の習俗なり」ずいぶんとひどい言い方だ。 「禁秘抄」は順徳天皇が書いた有職故実の解説書だそうだが、そこに書かれたことを一生懸命学べと。 かなり高飛車な文句に思えるな。

カテゴリー: 未分類

子規と曙覧

子規は[曙覧を評して](http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/card46490.html) > 明治に生れたる我らはかくまで貧しくなられ得べくもあらず。 などと言っている。 私も最初はだまされた。 橘曙覧は江戸時代の石川啄木だと最初は思った。 しかし、曙覧は別段貧乏な家の生まれではなく、好きこのんで山の中の家で暮らし始めたのである。 妻や子までまきぞえにして。 なので彼の歌で貧乏陋屋などというのはジェスチャーに過ぎない。 僧侶の良寛がそまつな庵に住んで寒いと言っているのとはわけが違う。 ハイジのじいさんが村の生活をいやがって勝手にアルムに住んでいるのと同じようなもの。 「金をもらってうれしい」ことを素直に歌に詠んだのはよい。 しかし、これまた江戸時代には狂歌や俳諧歌の伝統があり、 必ずしも曙覧が初めてではあるまい。 尊皇攘夷を憂えた歌や王政復古を喜んだ歌などもただのおっちょこちょいの歌にしか思えない。 孝明天皇や吉田松陰の歌とはまるで違う。 子規はやはりだまされた、あるいは勝手にはやとちりしたのではあるまいか。

カテゴリー: 未分類

子規と景樹

改めて[歌よみに与ふる書](http://www.aozora.gr.jp/cards/000305/card2533.html)を読んでみると、 子規が景樹を褒めていて驚いた。 > 香川景樹は古今貫之崇拝にて見識の低きことは今更申すまでも無之候。俗な歌の多き事も無論に候。 「古今貫之崇拝にて見識の低き」とはおかしな言い方だ。 だいたいだじゃれがすきなのは貫之だけじゃない。 古今がすきなのも貫之だけじゃない。 当時の歌人はみなだじゃれが好きだったし、人麿だって好きだった。 業平だろうが小町だろうが和泉式部だろうが、竹取物語だろうがみんなそうだ。 景樹の歌に俗なものが多いのはそのとおり。 > しかし景樹には善き歌も有之候。 自己が崇拝する貫之よりも善き歌多く候。それは景樹が貫之よりえらかつたのかどうかは分らぬ。 ただ景樹時代には貫之時代よりも進歩してゐる点があるといふ事は相違なければ、 従って景樹に貫之よりも善き歌が出来るといふも自然の事と存候。 それはそうだ。時代が下れば必ずしも悪くなるばかりではない。 良くなることだってあり得る。 そもそも、景樹は「貫之を崇拝」していたのではあるまい。 古今を手本にして学べと言っているだけだろう。 そうするとだいたい後の世の歌も詠める。 宣長が言っていることとほぼ同じ意味だと思う。 > あをによしならやましろのいにしへをまなばでなどか歌は詠むべき… 続きを読む »

カテゴリー: 未分類

歌道

たとえばだが、華道、茶道、書道、剣道、柔道、居合道など、だいたいこれらは江戸時代の習い事に由来しているわけで、 どれも江戸時代に確立された古態をそれなりに継承している。 歌道もまたそうだったはずだ。 歌道は、いろんな習い事の中の一つとして嗜まれていて、 茶道や華道などと同じ程度に庶民にも親しまれていたはずだ。 ところが、明治になって近代文学運動というものに、歌道だけが巻き込まれた。 茶道や華道や書道などは西洋の影響をあまり受けずに済んだが、 歌道は、つまり和歌は、同じ文学の一種だというだけの理由で、西洋的な価値観で自己批判を強いられて、 さんざんにいじり回され改造されて、 あれほど日本人のいろんな種類の人たちに愛されていたという記憶まで奪われ、 今日に至っているのだ。 和歌は本来相当に保守的な芸能であって、たとえていえば、 能や狂言や神楽などと同じかそれ以上に保守的な伝統芸能といって良い。 しかし、能楽に関しては、正岡子規のような攻撃者がいたわけでもなく、 西洋演劇理論で改造すべきだなどいう乱暴な議論がされたわけでもなく、 今日に至るまで古典芸能として生き延びてきた。 しかし和歌は古典芸能であり続けることを否定されてしまった。 古典芸能でありつづける部分と、近代文学として変化して行く部分と、 うまく両立できればよかったのだろうが、近代文学な部分があまりにも勢いづいてしまい、 伝統芸… 続きを読む »

カテゴリー: 未分類

さくらまつり

まだ全然咲いてないのにさくらまつりとて > 春を浅み色香の足りぬ花を見にしひてつどへる市の店並み > 花を見て酒によはむと思へども花は少なし日もまた寒し > 山のはに日はかたぶきてかげりゆく麦酒寒き春の夕暮れ > 春遅く花は咲かましうらうらとあたたかき日に花は見まほし 和歌を四つ、四行詩、というか起承転結というか絶句みたいに組み合わせるのってどうよ。

カテゴリー: 未分類