和歌とプロパガンダ

伊東静雄の詩を読むと、
当時の日本人の昂揚と、そこから突き落とされた絶望が刻まれていてつらい。
伊東静雄は戦前はドイツ語訳風な漢語調の硬派な詩を作った。
しかし戦中は大和言葉で詩を作った。
戦後、ふつうの話し言葉で詩を書くようになった。

伊東静雄もまた国粋主義に振り回された一人だった。

国威高揚のための国粋主義は極めて危険だ。
大和言葉もファナティックな思想の道具とみなされてしまった。
非常に不幸なことだ。
上田秋成も本居宣長も大和言葉や和歌がプロパガンダに使われるとは思ってもいなかっただろう。

私の祖父も戦中に大和言葉で和歌を詠んだ。
伊東静雄とまったく同じだと思った。
戦争だから和歌を詠むというのはあまりにも悲しい。
戦後和歌が忌避され、醜悪な現代短歌が生まれたのは、和歌をプロパガンダに使ったせいだ。

ツイッターでわざと歴史的仮名遣いを用いたり、
天皇は万世一系でうんぬんと賛美したりするのを見るのはつらい。
我々は一度挫折と失敗を経験したのだからそこから学び、その経験を活かすべきではないのか?

国費留学

なんか最近は割とツイッターを読んで書くようになった。
わざわざこのブログのリンクを貼るようなことはしないが、
興味をもった人はリンクを貼らないでも読みに来てくれると思う。

ツイッターでフォロワーを増やそうとしているのはむろん私の小説の読者を増やすためである。
つまりは営業である。
このブログにリンクを貼った方がよりわかりやすいとは思うが今のところそこまではしていない。
私としてはツイッターで昔fjやらウェブ日記界でやったようなことを繰り返したくはない。
渦中に巻き込まれたくはないのだ。

ツイッターで中国の留学生は日本の文科省から奨学金もらっててずるい、日本の学生に回すべきだ、
という意見が多いのだが、これはどうか。
そういう国費留学生というのは中国からの留学生の中のほんの一握りで、
中国の中でもものすごいエリートの人たちだ。
その他おおぜいは私費留学生であって日本の税金が使われているわけではない。

中国人のエリートたちに少しでも日本びいきになってもらうには国費留学という制度は必要だと思う。
中国人でも韓国人でも国費留学で来る人たちはすごく頭がいいし、
将来中国という国のリーダーになる人たちだ。
そして自分たちの国の政治を批判的に見る理性を持ち合わせている。
自分たちの国の将来を真剣に憂えている人たちだ。
私が知る人ではほとんど100%がそうだ。
彼らは人民日報を信じてない。
というか普通の中国人でも人民日報を信じてはいないし、
中国野菜や中国製粉ミルクを信用してないだろう。
反日はある程度は現政権の国策に過ぎないのだから、そこのところを見誤らないように、
外国にいる外国人の味方をできるだけ増やすように、
決してそういう善良な外国人に嫌われぬようにしなくてはならない。

そのためには、本来日本人に出すべき奨学金を多少外国人に回すくらいはやむを得ないと思う。
というか、何度も書いているが、
日本の財政を圧迫してるのは社会保障と地方交付なんで、
生活保護や外国人への奨学金、国家公務員や国会議員の給与なんてのは誤差に過ぎない。
そんな些細なことにばかりこだわるのはまぬけだ。

文学全集を立ち上げる

以前に[京極派](/?p=9207)
で、丸谷才一は京極派というものがまるでわかってないんじゃないかと疑いを持ったのだが、
この「文学全集を立ち上げる」という本を読んでますます疑念は深まった。

日本文学全集に古今集と新古今集と風雅集と玉葉集を入れるという。
なぜよりによって21代勅撰集からこの4つを選ぶのか。

p124
> 三浦 「玉葉」「風雅」は「新日本古典文学大系」にも入っていないでしょう?

> 丸谷 あの二つはいまだに虐待されているだよ。なぜ虐待されるかというのは、二つ理由が考えられる。一つは、折口信夫が絶賛したから(笑)。

> 三浦 本当の話ですか(笑)。

> 丸谷 それと、あの二つは北朝の文学なんです。「風雅」は明らかに北朝、「玉葉」も北朝の色が濃厚ですね。国文学者たちは北朝には触れたがらないんだよ。

> 鹿島 いまだにそんなことがあるんですか。

> 丸谷 少なくとも僕は、そうなんじゃないかなと思うんだ。岩佐美代子さんのように、「北朝が正統なんだということを政府ははっきりせよ」と言う学者もいる。でも、男の国文学者でそんなこと言う人は誰もいないんだよ。国文学者はつまり官僚なんだもの。仕方ないさ。

つまり丸谷才一は「玉葉」「風雅」は北朝の勅撰集で虐待されている。
北朝が正統だと言っているのは岩佐美代子くらいで男にはいない。
だから男の自分がやってやる、そう言っているだけにしか読めないのである。

一応丸谷才一は京極派を研究している岩佐美代子という人を知っているらしい。
しかしほんとに理解しているのだろうか。
岩佐美代子が北朝が正統だなどとほんとに主張しているのか。
そう言いたいのは丸谷才一だけなんじゃないのか。
南朝とか後醍醐天皇とか楠木正成とか太平記が嫌いで抹殺したいだけじゃないのか。
当時の二条派とか京極派とかいうコンテクストを無視して単に政治的理由で北朝を応援したいだけなんじゃないの?まさに邪道。

丸谷才一という人はやっぱり和歌なんて何もわかってないんじゃなかろうか?

「玉葉」「風雅」が異端視されたのは、京極派だからだ。
伝統を破壊する、前衛だったからだ。
主流は保守的な二条派に収束していった。
なぜ二条派が主流になったか。
北朝が正統でなく、南朝が正統だからなのか?
そんなこと考えてた江戸時代までの国学者は一人もいないと思う。
宣長はそんなこと一言も言ってない。

ついでに[皇統の正統性](/?p=15983)
というのも読んでみてほしい。

日本に学者はいなかった

丸谷才一「文学のレッスン」のp152に「日本に学者はいなかった」という章がある。非常に困惑する章題なのだが、本文を読んでみると、「近代日本文学では学問が軽蔑されていた」、とか、「小林秀雄は明治憲法で中村光夫は現行憲法だ」などと書いている。

小林秀雄は気持ちの良い歯切れの良い文体だがしかし何を言っているのかさっぱりわからない。

中村光夫の文章にはそういう爽快さがないけれど内容を伝達する能力は高い。

で、世の中の人は小林秀雄みたいな人を優れた批評家だと思い込んでしまったので、批評は訳がわからなくてよい、みたいな話になっている。訳がわかる評論とは論文であって評論ではない、そういうものは学者が書けば済む話だ、というわけだ。

いやまあ言いたいことはわかる。小林秀雄は朦朧体みたいなもので、至る所かすんでいる。でもときどきすごく論理的でほかのどの論文よりも明晰で説得力があるところがある。そういう意味ではフロイトに似ている。でも論文じゃないんだな。そこが天才的なところだわな、他人にはまねできない、学者にはそういう仕事はできない、という意味で。小室直樹もそれに近いかもしれんね。小室直樹は(一応)学者だけどね。

「日本に学者がいなかった」なんてどこにも書いてない。困った表題だ。

平家物語の主人公

丸谷才一は「文学のレッスン」の中で

p124

> 「平家物語」は、前半の主人公は平清盛、後半の女主人公はその娘である建礼門院徳子という形になっていて、このバトン渡しがうまくいっているせいで成功している。

と書いている。
はて。そんなばかな。
「平家物語」は特に主人公らしき人はいない。
不特定多数の人が関わっていろんな説話がだんだんと集まってできている。
清盛が主要な人物なのには違いないが。
祇王とか二代后とか俊寛、文覚などはほぼ独立したエピソード。
祇王なんかでは明らかに清盛は脇役であり、
二代后では清盛などまったく関係ない。

いろんなエピソードに埋もれているが、
平清盛の息子の重盛、重盛の子の維盛、維盛の子の六代(平高清)
の三代記として読むことも可能だ。

文覚荒行、勧進帳、文覚被流、の一連のストーリーもとって付けたようだ。
文覚がこれほどに取り上げられるのは、平家物語を編集した僧侶が文覚の弟子か何かだったからではないかと思われるし、おそらく六代とも近かったに違いない。

徳子が主人公になる灌頂巻は、読んだことないんだが、
また別のエピソードなわけで、
あとから付け足されたもののように思われるし、
ともかく全体的に言えば、保元物語や平治物語のようにかっちりひとまとまりになった軍記物語になってない。
「バトン渡しがうまくいってる」とはとても思えない。

丸谷才一は平家物語を通して読んだことがないのではないか?
何かのダイジェスト版のことを言っているのではなかろうか。

p132
> 「平家物語」でも「太平記」でも「曽我物語」でも、何かというとすぐに中国の話を持ち出して、長々としゃべる癖がある。

これも同様だ。
たぶんどこかの坊さんが無理矢理本編と関係ない蘊蓄話を挿入しただけのことで、
深い意味はないはず。

p139
> 「平家物語」なんかでも、和歌を引く、漢詩を引く。

「平家物語」は部分的には歌物語として読むことができる。
当時の物語は、源氏物語でも竹取物語でも、歌物語として読むことは可能だ。
伊勢物語も歌物語だし。
ていうか歴史的に言えば、和歌の詞書きが発達して物語というものになったのだ。
だからいちいち唐突に和歌が入る。
劇の中に突然歌や踊りが入るミュージカルみたいなものといえばいいか。
これ、現代人に説明してもなかなかわかってもらえない。
小説がメインだ、小説と歌は別物だと思い込んでいるからだ。

二代后は歌物語だし、祇王は歌の代わりに今様が入る。

p262
> 「ばさばさと股間につかふ扇かな」というのが入ってます。これが朝日新聞に載った朝に、野坂昭如から祝電が来た(笑)。

私が知る限り丸谷才一が自分で作った唯一の詩歌である。
あれだけ詩歌についていろいろと語っておきながら、自詠でこれしか自慢するものがないのか。
おそらく和歌は詠めまい。
詠んだとしても大田南畝のような狂歌を詠むのに違いない。
丸谷才一ほどの人なのだから自分の著書の中に堂々と自詠の歌を載せればいい。
そして自慢すれば良い。
それを朝日新聞の「折々の歌」に掲載されたくらいで喜ぶなんて。
不思議な人だな。