感を書す二首

『勝海舟全集20 海舟語録』を読んでいる。これには和歌集と漢詩集もついている。
勝海舟の全ての和歌と漢詩が収録されているとはとても思えないが、多少役には立つ。

勝海舟は、文久3(1864)年11月10日に軍艦奉行を罷免されてから、慶応4(1868)年1月17日、戊辰戦争の直前に海軍奉行並に戻される間、
閑職にあって、その時に和歌や漢詩を学んだという。
慶応2(1866)年には、徳川慶喜の命で第二次長州征伐の停戦交渉に赴いたりしているが、慶喜が勝手に停戦してしまったので、
怒って江戸に帰ったりしている。
わずか三年ほどの間であり、そんな短い間に和歌や漢詩ができるようになるはずもないから、前から多少の素養はあり、
明治になってからもいろいろ勉強したのに違いない。

安政6(1859)年、丙寅(1866)、丁卯(1867)、戊辰(1868)などが初期の漢詩ということになる。
こないだ、[なんでも鑑定団で勝海舟の書というのが200万円で出ていた](http://www.tv-tokyo.co.jp/kantei/database/20110816/02.html)のだが、
それは戊辰戦争の頃、江戸城の全権を任された時に作った詩だというので、
それらしいのが掲載されていた。

誰教大鼎弄群児 誰か大鼎をして群児に弄ばしむる
只見蒼生苦荊岐 ただ見る蒼生の荊岐に苦しむを
嗚呼吾主高義家 嗚呼、吾が主は高義の家
如何憤怨及我私 如何ぞ、憤怨の我私に及ぶを
古往今来已如此 古往今来、已にかくのごとし
上下千年任天知 上下千年、天知に任す

※大鼎 天下の大権
※荊岐 悪臣

壮士決戦不顧死 壮士戦を決すれば死を顧みず
此際豈亦容毀誓 この際、豈に亦毀誓(きし)を容れんや
錦旗飜風函嶺巓 錦旗風に飜(ひるがへ)る、函嶺の巓(いただき)
湯城殺気紊綱紀 湯城の殺気、綱紀を紊(みだ)す
丈夫報恩他有需 丈夫、恩に報ゆるに、他に需(もと)むる有り
救此蒼生答天子 此の蒼生を救ひて天子に答へん

※毀誓 悪口
※函嶺 箱根の山

湯城というのは、ちと意味がわかりにくいが、ここでは天子の討伐の対象となっている江戸城のことであろうか。
血気にはやって官軍と一戦交えるのでなく、江戸の街と人民の秩序と安全を保つのが天皇への報恩だと歌っていると解釈されるのだが。

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