千載集

千載集を読んでいるのだが、なかなか面白いなあ、歌がというよりも、時代背景が。

藤原道長、赤染衛門、紫式部、和泉式部、清少納言、藤原公任などが多い、というか、目立つのは、先の勅撰集の流れというのもあるかもしれんが、
俊成の文学趣味を反映しているのかも。

後白河院の歌が多い。
千載集は後白河院の院宣によるものであるから、当たり前といえばいえるが、
彼は歌人とはみなされておらず、そもそも歌をそれほどたくさんは詠んでないはずだから、特別待遇といえる。
選者俊成自身の歌を三十も四十も入れるように命じたのは、案外自分の歌が多いのを恥じたからかもしれぬ。

式子内親王は後白河の皇女。
上西門院は後白河と崇徳と覚性法親王の実の姉。
待賢門院は後白河と崇徳と覚性法親王の実の母。
上西門院も、待賢門院も、自ら歌は残してないが、その二代続いたサロンには、
待賢門院堀河や上西門院兵衛と言った女流歌人が多い。
俊成の活躍の場はこのサロンが中心だったのではなかろうか。

千載集には崇徳の歌もたくさん採られているが、後白河と崇徳は保元の乱で戦争までした仲である。
しかし、千載集編纂のころにはすでに崇徳は崩御しており、後白河は崇徳に個人的に恨みもなく、
したがって千載集に採るのに不都合がなかったのだろう。
後白河の性格もあるかもしれない。

崇徳も覚性も歌人として名高いのになぜ後白河だけ歌が下手だったのだろうか。
不思議といえば不思議だ。

俊成の官職は皇太后宮大夫というが、この皇太后というのは、後白河の后の藤原忻子のこと。
また俊成の娘に後白河院京極局という後白河の女御がいる。
彼女は定家の異母姉にあたる。

いずれにせよ俊成と後白河の関係は深い。
選者になったのも当然といえるだろう。

俊成と西行は歌のやりとりもかなりあったようだ。
西行が出家したときに歌を贈っている。

西行と清盛は同じ北面の武士だったから、仲が良かった。
清盛と後白河も非常に深い関係があった。
西行と後白河もおそらく緊密な間柄であり、
待賢門院や上西門院のサロンにも出入りしていたはずであり、
特に待賢門院堀河との交友は有名だ。

つまり、西行の歌が千載集に採られても何も不思議ではないということだ。

他に千載集で目立つ歌人には、覚忠。彼は日記『玉葉』で有名な九条兼実と、頼朝と親しかった慈円の兄だ。
兼実、慈円の入選も多い。

藤原清輔は『続詞花集』を編纂していたが、二条天皇が崩御したために、勅撰ではなく私選となった。
彼の父・顕輔は『詞花集』の選者。『詞花集』は崇徳院の命による。
徳大寺実定は忻子の弟。
源俊頼は『金葉集』の選者、俊恵はその息子。道因は俊恵の知り合いらしい。

源頼政は清盛と同時代の武士で、歌人としても名高い。
叛乱を起こして清盛に討たれたが、その平家も滅んだあとなので、
とっくに名誉回復したのだろう。

二条太皇太后宮肥後、二条太皇太后宮大弐という歌人がいる。
二条太皇太后宮とは誰かよくわからんのだが、
白河院皇女で、堀河天皇皇后の令子のことであろうか。
太皇太后は皇后の先代の先代(?)。
あまりに該当者が多すぎてよくわからん。

ざっとこんな感じかな。つまり、後白河の身内が多い。

俊成自身の歌は、やはり、文学青年っぽい、理屈っぽい歌が多い。
文学趣味がにじみ出ている。
本歌取り、という言い方もできるかもしれん。
源氏物語の愛読者だったのは間違いなさそうだ。
西行とはまったく違う。
西行の歌には古典のにおいがしない。
即興でそのときの思いつきで詠んだような歌。
俊成は一杯勉強した教養をもとに詠んだような歌。

千載集は古今集とも新古今とも新勅撰集とも全然違う。
たぶん雰囲気としては後拾遺とか詞花集とか金葉集に近いのだろうと思う。よく知らんが。

追記:
俊成は西行とまったく違うなどと書いているが、
俊成と西行はかなり似ている。
どちらがどちらをまねたかは知らんが、
本歌取りというより、返歌といってもよいくらい同じ趣向の歌がある(cf. [もろこし](/?p=14586))。
俊成は確かによく学んだ人だが、定家ほど秀才っぽくはない。
西行と定家の間くらいと言えばよいか。

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