万年筆

万年筆は持ち歩くべきではない。他の筆記具よりも壊れやすいし、ポケットの中で液漏れして服を汚すかもしれない。もっぱら仕事場の中だけで使うのが良い。まして人にみせびらかすのはよくない。

万年筆は手間がかかる。しかしそれが良い。インクを詰め替えるときに手が汚れるのも、たまには良い。そうしてインクと戯れていると気が晴れる。筆で字を書くとき墨で手が汚れるのも心地よい。

webのアクセスが一時的に増えたのだがまた減ってしまった。誰かがクロールしに来ただけのことだったのかもしれない。

googleにインデックス登録をリクエストするとその場では登録されるのだがしばらく経つとまた登録を外されたりするようだ。その理由がサイトマップが見当たらないとかそんなことらしいんだが、サイトマップにはすでに載せている。googleのやることはほんとよくわからん。

web日記30年

twitterにリンクを張ったのでPVが増えたかと思ったがまったくそうではなかった。google search console でちまちまURL検査してインデックス登録リクエストしたおかげで検索が増えている。過去記事を読まれるのはちと恥ずかしくもある。昔の記事には稚拙なものも多い。中には30年前に書いたものなどあって、物の見方が変わってしまうのは仕方ないではないか。

私はかなり早くからウェブに日記を公開していた者の一人だと思う。1994年にwebサーバーを立ち上げて、メモ書きのようなものを残し始めた。あまりにも幼稚なものは今は非公開にしてあるが、当時のものを読めばその雰囲気はわかると思う。1996年になると日記猿人などが出てきて私もせっせとweb日記などを書いたものだ。あの頃書いた記事はサルベージしてないだけでまだけっこうあるはずなんだよね(個人情報的に出せないとかで)。中台危機ダイジェストなどは、これは当時30才の私が書いたものだが、けっこう熱心に書いている。今の人たちはこういう過去のケーススタディなどろくにしないで、twitterあたりでやれ中国は台湾に侵攻するなどと騒いでいる。日本は良く奇襲戦法を採る。保元の乱以来ずっとそうだ。中国という国は奇襲はあまりやらない。歴史的にやった人がいるだろうか。項羽とか韓信くらいか。少しずつ挑発して様子を見ながら攻めてくる。中越戦争もそうだったと思う。そうしているうちにアメリカ人はすぐ頭に血が上ってマスコミが煽るから、議会は台湾に同情してきて空母を送り込んでくる。そうすると中国はひよって諦める。逆に下手に出て何もしないと調子に乗ってどんどん攻めてくる。南沙諸島や尖閣諸島なんかがそれだ。

しかし1994年から書き始めたとして今年は2024年だから30年が経ったわけだ。すごいね。年を取るはずだわ。ここにはそれ以前の日記も遡って多少は載せている。

道元 永平広録 巻十 偈頌。私の祖父が58才のときに書いた書。今の私とちょうど同じ年齢だなあ。

しかし、Eizoのモニターを使ってるのに中間調が全然出てないな。今年度買ったmouse computer のノートPCのディスプレイの方が発色が良い。世の中が進化しているのか。経年劣化によるものか。

氏姓

氏(うぢ)は朝鮮語(ul)、モンゴル語(uru-g)、ツングース語(ur)、トルコ語(uru)などと共通で、血縁、同族という意味で、地名や職業を一族の名としたもので、おそらく古代には女系の家系を言っていたのではないか。

これに対して姓(かばね)は屍、つまり死骸を意味する大和言葉であり、天皇から下賜される政治的な名であった。明らかに氏のほうが姓よりも古い。

族(やから)は家(や)+血縁(から)の意味で、(たね)とも訓む。

漢語の氏はおそらくもとは丘という意味(岐阜の阜に同じ)であって、丘の上に村が形成されたため氏族の意味になったのだろう。族は旗と矢からなり、明らかに軍事集団のことを言うようだ。姓は最も古くて、漢民族がかつて女系社会だった頃からある宗族のこと。

漢族の社会が女系から男系に変わった時期はよくわからないが、古い姓以外に、多くの氏や族ができてきて、それらは農耕共同体であり、軍事集団でもあったから、指導者を男から男へ継承する必要が生まれた。その継承ルールから姓以外に雑多な氏族が生まれ、姓もその中に飲み込まれて、すべての氏姓、宗族が男系に転じたが、女系の頃にあったイクソガミー(外婚)制度はそのまま男系にも引き継がれたのだろう。

タルコフスキー版ソラリスの問題

ハヤカワ文庫、旧訳「ソラリスの陽のもとに」と新訳「ソラリス」を読み比べると明らかに旧訳はおかしい。Joanna Kilmartin と Steve Cox による英訳「Solaris」も読んでいる。冒頭、新訳では「私は竪穴の周りに立っている人たちの前を通りすぎ、金属製の梯子を降りてカプセルの中に入った。」というところが旧訳では「私は狭い金属の階段を降りて、カプセルの中に入った。」、英訳では「The men around the shaft stood aside to let me pass, and I climbed down into the capsule.」となっている。英訳では金属というニュアンスが落ちている。旧訳は旧訳で、だいぶはしょっている。

スタニスワフ・レムは母国語、つまりポーランド語で原作を書いたと思われるが、ロシア語ならともかくポーランド語から直接翻訳できる人がそんなにいるとは思えない。まそれはともかくとして、新訳はできるだけ原文に忠実に訳そうと努力しているような感じを受ける。

レムの原作は、ソラリス・ステーションに着陸し、ステーションの中に入り、スナウトに出会って、スナウトと会話するところまでが実に念入りに書かれている。タルコフスキー版ソラリスの大きな問題は、そこのところが極めて雑だということだ。ハリーと出会うまでの前振りとして、ここをどのくらいきちんと描写するかで、全然感じが変わってしまう。

スナウトはかなり重要な人物なのだがタルコフスキーはたぶん全然彼に関心が無かったのだろう。その点、ソダーバーク版ではケルヴィンとスノー(スナウト)の出会いと会話がかなり緻密に描かれていて好感が持てた、ような気がする。またちゃんと見直してみようと思うのだが。

タルコフスキーは単にスナウトを老いぼれた科学者という程度にしか描いていないが、ソダーバーグのスノーは若くて演技力が高い。ここの部分はソダーバーグがちゃんと原作を参照して丁寧に解釈し直していて偉い、と思う。

以前にも私は「スノー役のジェレミー・デイビスは名演技だった。」などと書いている。タルコフスキー版ではスナウトと話している最中からいろんな怪しげな現象があちこちで起きているのだがそんなことは原作には書いてない。タルコフスキーはクリスとスナウトが延々としゃべるシーンに耐えられなく、映像で手っ取り早く表現したかったのだろうが、雰囲気を台無しにしていると思う。原作ではスナウトに会い、自分の部屋でシャワーを浴びるまでケルビンはずっと重い宇宙服を着っぱなしだったのに、タルコフスキー版では宇宙カプセルから降りたばかりのケルヴィンが普段着で皮のブーツの紐がほどけていてつまづくなどというつまらない演出を入れている。SFを軽視するのも甚だしい。ちょっと許しがたい気がする。

postsToShow

wordpressはユーザーインターフェイスがしょっちゅう変わるらしくして、カスタマイズの仕方をネットで調べても役に立たないことが多く、結局phpをじかに書き換えるしかないってことが多い。wordpressのバージョンが5から6に変わったところで相当仕様変更してる。と思う。それで世の中が全然付いてこれてない。

最近の投稿リストの項目の数の替え方がわからんかったから、レンタルサーバーにログインして grep postsToShow。

wp-includes/blocks/blocks-json.php の中の postsToShow の default の値を変えれば良かった。

普通のエンジニアはどうやってこんなケースに対処しているのだろうか。

ブログをメンテしているとブログ村のPVがどんどん上がっていくのがわかる。googleが補足してないページをgoogleに教えてやり、googleがインデックス登録してないページを登録するようリクエストする。それをちまちまちまちまやっていると、クロールしてくるんだか人が検索してくるんだか知らないがアクセスが増える。このブログは長いことやってるせいでコンテンツだけは多いから割と効き目がある。