勝海舟の和歌

> 八田に歌を見てもらふと、少しも直さなかったよ。アナタ方のは別だからと言ふた。然し、一字二字の所を、これではかういふ意味になります、と言はれると、実に一言もないネ。それから高崎正風に見せると、じきに、コレがいけぬ、アレがいけぬと言ふて、直すから、馬鹿にしてやった。お前の師匠の八田さんは少しも直さないよつてネ。それから大分遠慮しだしたよ。
松平上総介が始終来て、歌をおよみなさい、およみなさいと言つて、せめかけたものだから、その頃はよんだのサ。
千陰は、目明かしの御用達で、あのせはしい中で、あの筆と歌だ。実に驚いたものサ。

などと言っているのだが、松平上総介とは松平忠敏 (主税助)のことらしい。維新後も宮内省に出仕して御歌所の歌道御用掛となり、御歌所所長の高崎正風の部下になっている。明治15年まで生きている。なので、勝海舟にいつ和歌を勧めたのかはよくわからん。ただ、勝海舟の和歌集を見ると、戊辰戦争より前のは皆無である。やはり和歌は明治になってからさかんに詠み始めたのではなかろうか。漢詩よりはだいぶ遅れたようだ。
松平上総介と高崎正風は職場でずいぶんぶつかったようである。

八田というのは、八田知紀で、この人は明治6年までは生きた。やはり宮中の御歌所に出仕していた人。八田は薩摩人であり、京都で香川景樹に学んだのだから、れっきとした桂園派である。古今調だ罠。
一方勝海舟は幕臣であって、加藤千陰や松平上総介らに影響を受けたのだから、江戸風の和歌、つまり、どちらかと言えば、万葉調の賀茂真淵、田安宗武らの影響を、最初は受けたのだろう。
八田知紀にしてみれば「アナタ方のは別だから」直しようがないということだろう。
しかし高崎正風はどんどん直したというのだから面白い。
薩閥の八田と幕臣の勝が出会うのは、明治維新以後としか思えないし、
高崎と出会うのは、西南戦争より前であることはあり得ないだろう。

目明かしの御用達というのは町奉行与力で、吟味役(取り調べ係)だったということ。

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