[酒を自制する詩](/?p=8543)。
ああ、これは二度の入院の間に作った詩だな。
懐かしいな。
今はもうけっこう酒飲んでるがね。
完全に忘れてた。
平仄がむちゃくちゃ。
そりゃそうだわな。
平仄守り始めたのは二度目に入院した後だからな。
押韻すらしてない。
恥ずかしい。
良寛式(笑)
[酒を自制する詩](/?p=8543)。
ああ、これは二度の入院の間に作った詩だな。
懐かしいな。
今はもうけっこう酒飲んでるがね。
完全に忘れてた。
平仄がむちゃくちゃ。
そりゃそうだわな。
平仄守り始めたのは二度目に入院した後だからな。
押韻すらしてない。
恥ずかしい。
良寛式(笑)
ついでに読んでみた。
これを読んでまず思ったのは、小説を読んでもらうなら、
高校国語までの教養で理解できる範囲のことを書かなきゃならないということだ。
普通の日本人は「こころ」「羅生門」「山月記」を読む。
そこから先は読まない。
大学に入ると専門に分かれるから、定番の読み物なんてものはない。
大学に行かないひとも多いし、行っても勉強しない人が大半。
だから、(総体としての)日本人の教養といっても高校止まり。
おそらく放送業界や出版業界のマーケティングもそうなっているはずだ。
無難に高校教育までの範囲で本を出していきましょう。
それ以上の冒険をしても売れませんよ、と。
日本の高校教育までで必要十分な教養が身に付くという考え方もあるが、
それはあまりにも狭い世界で、
定番で、既視感で、予定調和で、
昨日もどこかのテレビでみたような話、となる。
そこから一歩出れば新しい珍しい話もいろいろある。
しかし、結局、発展途上国へ旅行するのを取りやめて、せいぜい海外といっても先進国、
或いは国内旅行に切り替えるようなもの。
別にね、
ハリーポッターとか、
シャーロックホームズとか、
高校生の男子と女子がどうしたこうしたなんて話を、私は読みたくはないんです。
そういうラノベを中学生や高校生が読むのはいい。
ラノベは読みやすい。
読者も多い。
従ってそういうのの作者になろうとかそういうのを商売にしようという人も多いだろうと思うよ。
私が書いているものは、そんなに難しいものじゃあない。
半導体理論や量子力学に比べればはるかに簡単だ。
それでも理解できないのは、普通の人の教養が、高校教育までで閉じていて、
その外の世界の存在を想定してないからだろう。
それから今回初めて
森鴎外の[舞姫](http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/682_15414.html)
を読んでみたのだが、
なんじゃこりゃという感じ。
> げに東に還る今の我は、西に航せし昔の我ならず、學問こそ猶心に飽き足らぬところも多かれ、浮世のうきふしをも知りたり、人の心の頼みがたきは言ふも更なり、われとわが心さへ變り易きをも悟り得たり。
は?それが何か、としか言いようのない陳腐な擬古文。
擬古文を読ませたいならば、他にもいくらもあるだろうが、
擬古文はたいてい国学つまりは右翼思想が混じっている。
やはりこれも戦後、GHQのチェックが入って、
なんとなく鴎外ならよかろうということになっただけの話じゃないのか。
こんなもの勉強させられても何のやくにもたたないよ。
たぶん、検定教科書作ってる出版社の人も、
検定している文科省の人も、そんなことは言われなくてもわかっている。
しかし、教科書を最終的に採用するのは地方自治体の教育委員会とか日教組とかPTAとか校長先生だろ。
そうすると「舞姫」みたいな、衒学的な話を好む。
なんかかっこよさそう。
それから、なんかよその学校も同じこと教えてるから安心、みたいな。
鴎外の雅文体教えられる俺かっこいい、みたいな。
「山月記」あるいは「羅生門」「こころ」にも、そんなところはあるだろう。
そんで戦後GHQの時代のことはともかくとして、教員もPTAも世代交代して、
俺が私が子供の頃はこんなの読まされました、だからうちの息子娘にも読ませよう、
みたいな怪しげな一子相伝・免許皆伝みたいなものが形作られてくる。
時代に合わせて変えるのは大変だがそのまま残すのは簡単だから出版社もじゃそれでいいわとなる。
「舞姫」と「山月記」に共通するのは、頼山陽や本居宣長といった本物を隠蔽して、
その代用品を提供するというところにあるわけ。
最初から頼山陽や本居宣長を読めばいいんだよね、明治時代みたいにさ。
或いはそういう右翼思想が嫌なら、永井荷風がやったように、為永春水や山東京伝を読めばいいんだけど、
仮名遣いがむちゃくちゃだし、しょせんは江戸時代のラノベだから、教材にはなりにくいわな。
さらに、[菊池寛](/?p=11697)とか楽しくておもしろいのにわざわざ「こころ」とか「羅生門」を読ませたがる。
ねじけてるよね。戦後左翼思想だよね、典型的な。
そこまでねじけたければ葉山嘉樹でも読ませりゃいいのに。
[今年のセンター国語](/?p=11499)、
[センター試験「国語(古文)」を解いてみる。](/?p=7280)などにも書いた話題だが、
今の高校国語なんてセンター試験で高得点出すための手段にすぎないわけ。
だから教材も定番なほうがいいに決まってる。
どれが正解でもいいようなどうでも良い選択肢のうち一番間違ってないやつを選ぶ技術を競うだけ。
法律や契約書の文言解釈にはこういう技術が必要なんだろう。
或いは特許とか?
曖昧に書かれた文言の中にある真意を読み取る駆け引き。
実用性はあるっちゃあるが、しかし文芸とは関係ない。
そんなら最初から民法や刑法の条文を試験に出せばいい。
著作権関係の法律なんか特に役立つに違いない。
あるいは本物の契約書を読み解く試験をすればいいだけじゃんか。
最初からそう割り切らないと良い点取れないんだわ。
私は中島敦が好きなのでこの本を読ませてもらったのだが、
まず、
高校国語教師というのは、
おおよそただの人である。
指導要領もなしに授業などできない。
では指導要領を作るひとたちはどうかと言えば、
別に彼らが特に中島敦を理解できるわけではないだろう。
だから「山月記」が高校の国語の教材として採録されれば、
このような「誤読」や間違った「教育」が行われうるのは当たり前であって、
国語教育批判はたとえば丸谷才一の『日本語のために』などが古くからあるのに、
今更わざわざ怒ってどうするのかと思う。
次にこの作者は『山月記』がわかっていてこれを書いているのか。
いや、わかる必要はない。
自分なりの解釈、自分なりの思い込みがあればそれでよい。
しかし、結局言っていることはこれは古潭という連作の中から切り取られて、
わざと短編小説となって、わざとらしいお説教臭い教材に仕立てられたというだけだ。
[中島敦生誕百年](/?p=10114)や
[ガス抜きとしての中島敦](/?p=10058)
に書いた通りだが、
ドナルドキーンがなんといおうと中島敦の作品は戦争小説ではない。
あれは、南洋の現地人に日本語を教育するための教科書の教材として自ら書いてみたものだ。
「山月記」がなんで漢文調かっていえば、それは漢文をいきなり教えるのは難しいが、
漢文は日本語教育に不可欠だから、わざと漢文調の文章をこさえたのである。
それからみんなだまされているが中島敦は必ずしも漢文は得意じゃない。
漢学の家に生まれたわけでもない。
商人の祖父が趣味で漢詩をかじってただけで、
中島敦よりも漢詩がうまい人は明治時代にはざらにいるし、
江戸時代ならもっといる。
昭和だとそんな多くなかったかもしれないが、
少なくとも永井荷風は中島敦よりちゃんとした漢詩を作った。
中島敦も彼の叔父も漢詩は平仄がむちゃくちゃ。
「山月記」に出てくる漢詩も中島敦には決して作れないまともな詩だ。
それでまあ考えられるのは中島敦は、山月記とか李陵なんかは、わざと、
擬古文みたいにして、難しい和漢混淆文を書いたのだということ。
もともと教科書の教材として書いたものだから教科書と相性が良くてもおかしくない。
山月記自体は面白い教材だと思うが、
私ならちょっと悪趣味だが「山月記」と一緒に原作の「人虎傳」を読ませるだろうと思う。
> 隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね、ついで江南尉に補せられたが、性、狷介、自ら恃むところ頗る厚く、賤吏に甘んずるを潔しとしなかった。
というところは
> 隴西李微博學弱冠從州府貢焉時號名士天寶十五載春於尚書右丞楊門下登進士第後數年調選補尉江南微性疎逸恃才倨傲不能屈跡卑僚
の訳である。「才穎」「虎榜に連ね」などという表現に若干のオリジナリティーがあるが、
だいたいは同じである。
いきなり「人虎傳」を教材にしては難しすぎるから、中島敦が多少現代風にアレンジした、
というあたりが真実だと思う。
追記: [人虎伝](/?p=14480)、
[中島敦の書簡と日記](/?p=14710)。
無料キャンペーンやって良いことといえば、ネットやツイッターで検索かけたときにタイトルが出てくること、などだろうか。
今「エウドキア」で検索しても大したものは出てこない。
「エウドキア」と言う人も複数いて、
語源的に言えば、eu (良い)+ dux (支配者) という意味なんだろうな。
ま、どちらかと言えば王族の名のようだ。
eu はギリシャ語だが、dux はラテン語だから、ギリシャがローマに併合された後にできた名前だわな。
ヘレニズム時代にはさかのぼれないな。
eudokia の男性形が見当たらないんだが、女性名しかないのだろうか。
まあそういうこともあるのかもしれんね。
も少ししたら一応お披露目として無料キャンペーンやるかな。
表紙の絵がなかなか切り替わらない。
いがらしみきおのアイの主人公は他人と意識を共有することができるのだが、
手塚治虫のブッダに出てくるタッタという子供も動物に乗り移ることができる。
賤民の子供で無教養だから超能力を身に付けたという設定も似ている。
人に狐や狸が憑くという話は普通だしな。
生き霊や死んだ人や神が憑いて物語るというのも普通だわな。
自分から相手に乗り移るというのも自然とそこから出てくる話かもしれん。
こういう怪奇譚はしかしどういう起源を持つのだろうか。