ジジイの好き放題の感想の書き散らし

自分とほぼ同じことを書いている人を発見したので張っておく。
[大学入試は学力を計るものではないことを改めて感じる](http://d.hatena.ne.jp/arakik10/20130119/p1)

> 文章構成としては好き放題の感想を書き散らしているだけの駄文である。

まさにその通りだ。多少、小林秀雄の文章を読んだことがある人なら、
そして、権威を盲信しない人ならそういう感想を持つだろう。

> しっちゃかめっちゃかな文章を批判的にではなく「とりあえず丸のみ」にして要素の解析を強要するのである。これでは将来、自分が作文をする段になったときに、事実を正確に記述し、合理的に論理を組み上げるトレーニングにはならない。

うん、そう。つまり、この問題を解いても、誰も将来小林秀雄みたいな文章を書けるようにはならないし、そもそも、ほとんどの日本人にとって、小林秀雄みたいな文章を書けるようになる必要などない。

> 技巧的な構文解析、文脈解析の指標としてしか機能していない。

> 多分、「技術立国」を目指した教育の文脈で、高校3年程度の過半の人口に対して、国語に関する基礎的な学力を測るには、出題の題材としてはもっと素直でロジカルな文書、例えばOECD報告書のアブストラクトのような文書を読ませて、内容の正確な読み取りがどこまでできるかを問うべきだと思う。

そうね。まったくその通りね。

OECD の報告書って、そつなくよくまとめてあるけど、でも英文だよね?

これ書いた人も理系の人みたいだが、
たぶん無視されるんだろうな。

角川新字源を見ると、謹啓と拝啓は同じだと書いてある。
確かに意味はだいたい同じだろうとは思う。
謹啓は謹んで申し上げる、だし、拝啓は拝み申し上げる、だ。

拝啓で始めたら敬具で終わる、というのもある。
敬具と敬白、拝具は同じ、とも書いてある。
謹白とかもある。

で、読史余論を読むとときどき「謹按」ということばが出てくる。
「謹んで按じるに」というのはつまりこれは、主君家宣に呼びかけている言葉である。
ここで「謹按」は「恐れながら私の考えを申し上げますと」というような意味ととれる。
このような言い方は同輩の儒者どうしではしないだろうと思う。
ちなみに「恐れながら申し上げる」の漢語直訳は「恐恐謹言」「恐惶謹言」などだと思われる。
「恐惶謹言」は腰越状に出てくる。義経から頼朝に宛てた手紙である。
もしかすると日本独自の決まりかもしれん。

だが、「拝」や「敬」などは同僚どうしでも使ったのではなかろうか。
実際儒者は出会うと袖の中に手を入れて「揖」というおじぎをする。
なので、儒者が自分の友人もしくは先生に宛てる手紙の書き方として「拝啓」「敬具」という定型ができたのではなかろうか。

しかしながら、「謹賀」とか「謹告」とか「謹白」などと言った言葉は、
自分の主君にしか使わなかったのではなかろうか。

いずれにしろ私が知りたいのは江戸時代の儒官たちの漢語漢文の用法であって、
現代人が正しく使ってようが間違ってようがまるで興味はない。

今年のセンター国語

昨日の国語のセンター試験なんだが、
小林秀雄は嫌いじゃないが、刀のつばが応仁の乱の産物だという説には納得できなかった。
刀はたしかに天皇から征夷大将軍に下賜される佩刀のような、権威の象徴であったかもしれん。
だが、山野に暮らす下級武士にとっては昔から生活必需品だったはず。
また、平安時代から戦国時代末期まで主たる武器は弓矢、槍、長刀、場合によっては熊手、後代では鉄砲、などであったはずであり、刀はその中では比較的近接した敵を倒すための補助的な武器だったはずだ。
日本刀やつば、研ぎ師などが流行しだしたのはおそらく関ヶ原以後だろう。
つまり戦乱の時代が山場を越えたあとだ。
武力そのものよりも武士の権威というものが必要とされ始めたからだ。

とかまあそんな小論文みたいなことを答えさせる問題ならば楽しいのだろうが、
小林秀雄の文章には本来正解はない。
論説ではない。エッセイだ。
ゴッホとかモーツァルトとか宣長とか、みんなそんな感じだろ。
たまにまだ他の人が指摘してない、鋭いこと言ってたりするけど。
で、正解のない文章から学力を定量的に評価しなきゃならんわけで、
それはずいぶん無理をしなきゃならん。
よくわからんのだが、
じゃあなぜわざわざ文芸作品を使う必要があるのだろう。
文章自体がもともと真偽を問うようなものにすりゃいいだけなんじゃないか。
そもそもそんな作問の裏事情を高校生が理解するはずもなく、
またそれを理解している者が高得点をとるような状況も肯定できない。

正解があるのは設問の方で、小林秀雄の文というのはただのおかずであって、
選択肢には文意に近いものとどちらかと言えば遠いものがあって、
つまり適当にノイズが混ぜてあって、
もっとも文意に近いものを選べとか、
もっとも文意から遠いものを選べとか、
ノイズが比較的少ないものを選べとか多いものを除けとか、
そんな設問の意図を解釈させるような問題しか出せず、
それはつまり受験テクニックであって、
役所の法令の解釈には多少使える技術かもしれんが、
文芸作品を鑑賞する能力を見るものではあり得ない。
まあ、広く言えば、文章の読解を見る問題にはなっているのかもしれんが。
本文を読めてなきゃとけないのには違いない。
だが本文が読めたということと設問を解けるということのギャップが大きすぎる。
著者を無視した作問者と受験生の腹の探り合い、
という印象がぬぐえない。

ああ、つまり、文芸作品の読解と、紛らわしい文言の解釈の、両方を一度に見る問題か。
高等テクニックだな、そりゃ。

たとえば、ある論説文がある。
一箇所手を加えて意味が通らなくする。
論理的に意味の通らない箇所を指摘させるとか。
起承転結のパラグラフの切れ目を指摘させるとか。
前半部分と後半部分の矛盾を指摘させるとか。
マークシートで小論文的能力を見る問題といえるか。

二問目はとばした。全文というから短編小説なのだろう。
いろいろネットで検索してみたが、短編とは言え限られた時間で読解するのは大変だったようだな。
シビアだな。

三問目は例によって古文なのだが、
和歌が三つも出ていてある意味驚いた。
意味はだいたいわかったけど、高得点をとれる自信はない。
思うに、この文章を初めて読んでガチンコで読めるという高校生がどれだけいるのか。
そんな高校生がたくさんいるならもっと和歌は流行っているはずだし、
古文を原文ですらすら読む人がいてもよさそうだが、
そうとはとても思えない。

で、この物語を書いた人は、
自分の文章や歌がこんなふうにマークシートの試験に使われるとは
0.01%も想定してなかっただろう。
自分でもたまに歌物語を書くが、
こんな使われ方をしたらすごく違和感あると思う。
たぶん、そんなことより、もっと歌を鑑賞してくれとか、
たとえばだが、歌を読んでおもしろかったら返歌を返してくれとか、
そんなふうに思うのではなかろうか。
まあ、今の高校生が和歌を詠む訓練を受けているとは思えんが。

菊池寛などがこんな問題を見たらなんていうだろう。
なんでこんな陳腐で退屈な文章を出題するのか、というのではなかろうか。
事実、ストーリー展開や歌のやりとり自体はたいしたものではない。
よくある男女のごにゃごにゃした話というにすぎない。
問題として利用しやすい、無難だった、
より出題ミスのリスクが少なかった、ただそれだけだろう。

四問目漢文。これは、こういう問題にしかならんだろうな、と思った。
ある意味良問なのだが、
最近私は漢詩に凝ったりなんぞしてまた日本外史など漢文を良く読むので、
だいたい意味がわかるけど、
高校の漢文教育でこれが読めるようになる若者がどれほどいるのだろうか。
自分が受けていた授業やら教科書やら思い出しても、実に不思議である。
ていうか高校教師のどれくらいがこの問題を完答できるのだろう。
予備校教師なら?
大学の国文学の教員なら?
極めて疑わしい。

こういう国語のマークシート問題というのは、どうしても、
カンがするどいかどうかを見ているだけのような気がしてしかたない。

Virginia Oldoini

ナポレオン三世の愛人になった Virginia Oldoini は Camillo のいとこだというのだが、
どういう血のつながりなんだか、調べてもよくわからん。

Gustavo と Camillo の父は Michele という。
おそらく Micheleに姉か妹がいて、彼女が Oldoini家に嫁いで生まれたのが Virginia Oldoini だと思うのだが、
よくわからん。
Michele の弟の娘が Oldoini家に嫁いだ、ということも考えられるか。

ちゃんとカヴールの伝記読めば書いてあるのに違いないが、さてどうしよう。

貴族の次男

Camillo は貴族の次男であり、
本人は貴族だが、自分の子孫に相続する所領がないから、
子孫を残すと大変こまったことになる。
つまり結婚できない。
結婚しても良いが子供を作れない。
欧州貴族は普通男子も女子も所領を相続する。
所領が王国なら王や女王になることもあるわけだ。
だが相続するのは普通長男。男子がいなければ長女。
一子相伝が普通だ。そうしないと所領がどんどん細分化されてしまうわな。

で、おそらくだが、次男はよっぽど戦争で手柄を立てない限り新しい所領を獲得することはできない。
だから愛人がいても結婚はせず、もし私生児が生まれたら、長男の養子にするか、
そもそも長男の嫡出子として育てるのではなかろうか。
特に長男に実子がなかなか生まれない場合など。

Camillo の兄 Gustavo には Augusto という息子がいたわけなんだが、
もしかすると Augusto は Camillo の実子かもしれない、
などという話も作れそうなわけである。

JSバッハもずいぶんたくさん子供を産んだが一度に一人の妻しかもってない。
これもまたJSバッハ自身がたくさん愛人を持っていたからというよりは、彼の弟たちの子供を自分の子供として育てたせいではなかろうか。

などと想像できるのである。