内在律

漢意(からごころ)とはすなわち内在律である。
時代環境や教育によって後天的に獲得した、無自覚的、無意識的に思考を束縛し規律するものだ。

> 第一に漢意儒意を云々。
おのれ何につけても、ひたすら此の事を言ふは、故無くみだりに、これを憎みてにはあらず。
大きに故ありて言ふ也。
その故は、古の道の意の明らかならず、人みな大きにこれを誤りしたためたるは、いかなる故ぞと尋ぬれば、みな此の漢意に心の惑はされ居て、それに妨げらるるが故也。
これ千有余年、世ノ中の人の心の底に染み着きてある、痼疾なれば、とにかくに清くはのぞこりがたき物にて、近き頃は、道を説くに、儒意を交ふることの、わろきを悟りて、これを破する人も、これかれ聞ゆれども、さやうの人すら、なほ清くこれをまぬかるることあたはずして、その説クところ、畢竟は漢意に落つるなり。
かくの如くなる故に、道を知るの要、まづこれを清く除き去るにありとは言ふ也。
これを清く除き去らでは道は得難かるべし。
初学の輩、まづ此の漢意を清く除き去て、やまとたましひを堅くすべきことは、たとへばもののふの、戦場に赴くに、まづ具足を良くし、身を固めて立ち出づるが如し。
もし此の身の固めを良くせずして、神の御典を読むときは、甲冑をも着ず、素肌にして戦ひて、たちまち敵のために、手を負ふが如く、必ず漢意に落ち入るべし。

これは『うひ山ふみ』だが、「儒意」「漢意」を「内在律」に置き換えてみよう。

> 第一に内在律を云々。
おのれ何につけても、ひたすら此の事を言ふは、故無くみだりに、これを憎みてにはあらず。
大きに故ありて言ふ也。
その故は、古の道の意の明らかならず、人みな大きにこれを誤りしたためたるは、いかなる故ぞと尋ぬれば、みな此の内在律に心の惑はされ居て、それに妨げらるるが故也。
これ千有余年、世ノ中の人の心の底に染み着きてある、痼疾なれば、とにかくに清くはのぞこりがたき物にて、近き頃は、道を説くに、内在律を交ふることの、わろきを悟りて、これを破する人も、これかれ聞ゆれども、さやうの人すら、なほ清くこれをまぬかるることあたはずして、その説クところ、畢竟は内在律に落つるなり。
かくの如くなる故に、道を知るの要、まづこれを清く除き去るにありとは言ふ也。
これを清く除き去らでは道は得難かるべし。
初学の輩、まづ此の内在律を清く除き去て、やまとたましひを堅くすべきことは、たとへばもののふの、戦場に赴くに、まづ具足を良くし、身を固めて立ち出づるが如し。
もし此の身の固めを良くせずして、神の御典を読むときは、甲冑をも着ず、素肌にして戦ひて、たちまち敵のために、手を負ふが如く、必ず内在律に落ち入るべし。

或いはこんなふうに読みかえてみると面白いかもしれない。

> 第一に戦後民主主義教育を云々。
おのれ何につけても、ひたすら此の事を言ふは、故無くみだりに、これを憎みてにはあらず。
大きに故ありて言ふ也。
その故は、戦前の意の明らかならず、人みな大きにこれを誤りしたためたるは、いかなる故ぞと尋ぬれば、みな此の戦後民主主義教育に心の惑はされ居て、それに妨げらるるが故也。
これ七十年、世ノ中の人の心の底に染み着きてある、痼疾なれば、とにかくに清くはのぞこりがたき物にて、近き頃は、戦前を説くに、戦後民主主義教育を交ふることの、わろきを悟りて、これを破する人も、これかれ聞ゆれども、さやうの人すら、なほ清くこれをまぬかるることあたはずして、その説クところ、畢竟は戦後民主主義教育に落つるなり。
かくの如くなる故に、戦前を知るの要、まづこれを清く除き去るにありとは言ふ也。
これを清く除き去らでは戦前は得難かるべし。
初学の輩、まづ此の戦後民主主義教育を清く除き去て、やまとたましひを堅くすべきことは、たとへばもののふの、戦場に赴くに、まづ具足を良くし、身を固めて立ち出づるが如し。
もし此の身の固めを良くせずして、戦前の文章を読むときは、甲冑をも着ず、素肌にして戦ひて、たちまち敵のために、手を負ふが如く、必ず戦後民主主義教育に落ち入るべし。

近年の、現代の常識をまずきれいに除き去り、古典を直接読みなさいと言っているだけである。
古典理解に一番差し障りがあるのが実に現代の常識という痼疾なのである。
この意味において古典とは畢竟は現代社会の問題なのである。
現代の問題から目を背けて古典のファンタジーの世界に遊ぶことではない。
むしろ現代を糾弾するために古典を学ぶのである。
古典の問題とは昔の資料が欠けていることばかりではなく、現代までの曲解を除去することにもある。

例えば天声人語を毎日書き写すという勉強を子供の頃からやっていれば、
それはそれなりに実用文を書く練習にはなるが、そのついでに天声人語の「内在律」に落ち入るのである。
そしてそれ以外の文章を読んだときに無意識的に拒絶反応を起こしてしまうのだ。

現代の内在律を無視して小説を書けば読者はついてこない。
音楽もそうだ。
全然聞いたことのない音楽を聞いても面白くはない。
内在律を否定するためには内在律を囮にして読者を引きつけておき、かかったところでそれを否定しなくてはならない。

ま確かにこの「内在律」というものはそれほどまでに強固に人を規律するものであるから、
これを利用すれば、散文を書いても詩のようなものは書けるのかもしれない。
ひたすら詩を読み、作り続ければそんな「内在律」を持つことはできるかもしれないが、
普段から散文しか書いてない人には無理ではないか。