白石の屋敷

調べれば調べるほどわけわからなくなってきたのだが、
白石が拝領した屋敷は、一ツ橋門外にあって隣の御舂屋(おつきや)という幕府の脱穀所の敷地を足して六百坪から八百坪としたという。
つまり白石の屋敷は御舂屋に隣接していなくてはならないが、
御舂屋というのは今の毎日新聞本社であって、一ツ橋門の外ではなくて、平川門と一ツ橋門の間にある。
神田小川町というが、古地図を見ても小川町あたりには御舂屋などない。
御舂屋が移転したということも考えられるのだが、もうわけわからんので、
白石の屋敷は御舂屋の隣、日本橋川に隣接した、一ツ橋河岸のすぐ近くにあったものとして話を進める。

一ツ橋河岸という交差点があるが、この河岸は何だったかといえば、
江戸城内で消費する米を御舂屋に搬入するための河岸であったのだろうと推測できるのである。
ネットで検索しても何もわからんのだが。
このくらいのことはもう誰か調べてどこかにまとめてあるのだと思っていた。
案外何もわかってないのだなあ。

新井白石御用部屋

ロマンスカーに乗っていて初めて気がついたのだが、
昔の箱根峠は、早川沿いに強羅まで行き、そこから芦ノ湖へ越えるのではなく、
湯本から須雲川沿いに渓谷をさかのぼっていくのであった。
今の国道一号線とはだいぶ経路が違う。

日本橋川は今は小石川から一ツ橋まで通じているが、
神田川が開削されたときには小石川から掘留橋まで埋め立てられてつながってなかった。
つまり、一ツ橋河岸というのは、神田川経由で両国橋の辺りで隅田川へ抜けるのではなく、
日本橋川経由で大手町、日本橋をすぎて永代橋の辺りで隅田川に出たのである。
危ない危ない。

それから、両国広小路には御召場という船着き場がある。
両国橋の上流側と下流側に一箇所ずつあるのだが、
これは新井白石の時代にはまだなかったようだ。
ここに御召場が作られたのは、神田川開削によって水運の要衝となったから幕府が押さえたというのではなく、
おそらくは、両国橋が繁華街になったから、そこへ将軍が遊びに行くためなのだろう。

今の皇居の東御苑に展望台というのがあって、丸の内のビル群を見渡すことができるが、
これはおそらく江戸城本丸の御台所前櫓のあったところだろう。
だから、この展望台の下が台所口であり、
中雀門と台所口のほぼ中間くらいに中ノ口があって、新井白石が使った御用部屋があったはずである。
中雀門から台所口まで200m弱なので、中雀門から100mくらいのところがそれのはずだ。

で、中ノ口のどの部屋が将軍侍講の部屋であったか、これは良くわからん。
表祐筆、裏祐筆の部屋はあるが、白石は祐筆ではなかっただろう。
祐筆は単なる代書係だったはずで、おそらくは、それよりもう少し広い奉行が使っていた部屋を拝領していて、
その中には白石一人ではなく、数名の部下も一緒に働いていたものと思われる。

調べれば調べるほどいろいろ出てくるなあ。
しかも江戸時代ともなると素人でもめちゃくちゃ詳しい人がいるからたいへん。
だいたい google マップで見当は付くのだが、実際に歩いてみるとやはりいろいろと気付かされる。

新井白石の家は雉子橋外にあってそのあと一ツ橋外に移ったが、
ということは、白石は江戸城を汐見坂を二の丸に下りて梅林門から平川門へと通り、
雉子橋や一ツ橋の方へ出たのだろう。
竹橋を経由したとは考えにくい。
平川門から船で糞尿を運び出したというが、日本橋川と内堀は直接つながってはいないので、
おそらく、平川門から千鳥ヶ淵辺りまで船で運び、
そこで百姓に下げ渡し、内藤新宿方面へ運んだのであろうか。
甲州街道は江戸で大量に発生する人糞を郊外で肥料とするために運搬するのに使われたとどこかで読んだことがある。