調べれば調べるほどわけわからなくなってきたのだが、
白石が拝領した屋敷は、一ツ橋門外にあって隣の御舂屋(おつきや)という幕府の脱穀所の敷地を足して六百坪から八百坪としたという。
つまり白石の屋敷は御舂屋に隣接していなくてはならないが、
御舂屋というのは今の毎日新聞本社であって、一ツ橋門の外ではなくて、平川門と一ツ橋門の間にある。
神田小川町というが、古地図を見ても小川町あたりには御舂屋などない。
御舂屋が移転したということも考えられるのだが、もうわけわからんので、
白石の屋敷は御舂屋の隣、日本橋川に隣接した、一ツ橋河岸のすぐ近くにあったものとして話を進める。
一ツ橋河岸という交差点があるが、この河岸は何だったかといえば、
江戸城内で消費する米を御舂屋に搬入するための河岸であったのだろうと推測できるのである。
ネットで検索しても何もわからんのだが。
このくらいのことはもう誰か調べてどこかにまとめてあるのだと思っていた。
案外何もわかってないのだなあ。
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