空海の歌

風雅和歌集には、弘法大師の歌

> わすれても汲やしつらむ旅人の高野の奥の玉川の水

が収録されているそうだが、はて、あまりにも時代がかけ離れているし、空海が和歌を詠んだとして、
風雅集の時代に初めてあらわれたというのが、ちと信じがたい。
玉勝間11「高野の玉川のうた」で宣長はこれを後世の偽作と見ている。
詞書きには

> この流れを飲むまじきよしを、しめしおきてのち、詠みはべる

とあるそうで、歌の意味は
「高野の奥の玉川の水は飲むなと定めおかれたものだが、旅人はそれを忘れて酌んで飲むものがいるかもしれない」となる。
この歌の解釈を豊臣秀次とその家臣の霊が解釈するという話が雨月物語に出てくる。
で、確かに高野山には玉川という川があるようだが、なぜこの川の水を飲むなと空海は定めたのだろうか。
よくわからんのう。
宣長が指摘しているように「わすれても汲やしつらむ」は「忘れて汲みやせむ」の意味だが、
意味が通りにくい。

> 旅人は定め忘れて汲みやせむ高野の奥の玉川の水

とかならすっきりわかろうが。

ふと

ホットプレートでかすぎワロタ。
しかも鉄板三種類とか。
重いしでかいしかさばるし。
しみじみとお好み焼きでも焼くか。
たこ焼きも焼けるし。

しらべもの

[江戸後期紀行文学全集](http://catalog.library.metro.tokyo.jp/cgi-bin/exec_cgi/ibibdet.cgi?CGILANG=japanese&ID=TW92225392&NOCONT=1)。
比較的新しい本。

菅沼斐雄著「香川平景樹大人東遊記」というのは、香川景樹が江戸進出を企てたときの日記なのだろう。
菅沼斐雄は景樹の門人で文政元年(1818)景樹に従って江戸へ行くが、景樹が帰京した後も江戸に留まり、浅草に住んで門人を指導した、等。
なかなかおもしろそうな日記だわな。

木下幸文「朝三日記」。木下幸文もまた景樹の門人。「朝三」はその号のようだ。
「貧窮百首」こちらは、[近代名家歌選](http://catalog.library.metro.tokyo.jp/cgi-bin/exec_cgi/ibibdet.cgi?CGILANG=japanese&ID=TW00883235&NOCONT=1)という本に採られているようだ。佐佐木信綱編の古い本。

石塚龍麿「鈴屋大人都日記」。石塚龍麿は宣長の門人。鈴屋大人は宣長のこと。1801年宣長が上京した際の記録。おもしろそうだ。
宣長自身が「享和上京日記」というものを残していてこれは全集に収録されている。
[おのが京のやどりの事](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/onogakyono.html)、こちらは玉勝間。
[四条烏丸の宣長](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/sijyo.html)。
[宣長の最終講義の場所](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/nori_saisyukougi.html)。
[宣長の旅一覧](http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/tabi_ichiran.html)。

なんかおもしろそうなものがたくさんありすぎる。

[乃木希典の歌](http://www2u.biglobe.ne.jp/~gln/77/7739/773911.htm)。

思うに、

風邪気味。
薄着で寝冷えしたせい。
三日目くらい。
薬飲む。

庭のバラがわさわさ茂る。
バラは草ではなくて樹木だが、枝は自分を支えるほど強くない。
しかもどんどん密生して互いに絡み合う。
垣根にうまく紐などで結んで形を作ってやらないといけない。
これから、六月頃にちょうど花盛りになるだろう。

浦島太郎のドキュメンタリー番組とか某掲示板のリレー短歌など見てふと思ったのだが、
平安鎌倉ならともかく江戸明治のことくらいなら、
現代人にもわかるはずだと思うのはやはり間違いであり、
現代人は基本的に江戸明治のことはわからない。
わからんのが当たり前、というところから出発しないとどもこもならんのだなと思った。
文語で和歌を詠むということ自体がある種わけのわからんことをしているという自覚が必要だ。