> 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮

有名な歌なんで、気にも留めてなかったが、
ググってみると、
「かげもなし」というのは、
「雪や風を避けるための物陰」が見当たらないと解釈している例がほとんど。
いやしかし、
古語では、「かげ」というのはまず「光」(朝日影、など)のことであり、
次には「像」「姿」「幻」のことである。
「かげろふ」の「かげ」である。
たとえば「人影」というがこれは「人の影」ではなくて「人の姿」と言う意味だ。
英語で言えば light よりも vision、image というのに近い。

「陰」(shade)という意味はなくもないが一般的ではない。
おそらくは割と最近になって「陰」という意味が固定してきて、
さらには光が当たらない「影」(shadow)という意味になった。

「影」という漢字にしてもそうだが、これは「景」と同じで、
ひかり、すがた、まぼろし、という意味だ。
これを光の差さない暗い箇所という意味につかうのはおそらく近世の日本だけだ。
だから

> 駒をつなぎ止めて、袖や馬の背に積もった雪を打ち払い、しばらく休憩するための、適当な物陰がない

というよりは、単に

> 馬の姿も、人の姿もまったくみあたらない閑散とした雪原

という意味に解釈すべきだと思うがどうよ。
でまあ現代人にはこの定家のダダイズムがピンと来ない。
存在しない景色をなぜ歌に詠むか、となる。
私も最初、はぐらかされて腹を立てたほうだ。

定家ただ独りがたどり着いたこの境地を、現代人はわかってない。
幽玄とかありがたがっておりながら幽玄の意味がわかってない。
[幽玄](https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BD%E7%8E%84#.E5.92.8C.E6.AD.8C.E3.81.AE.E5.B9.BD.E7.8E.84)だが、正徹がすでに、

> 人の多く幽玄なる事よといふを聞けば、ただ余情の体にて、更に幽玄には侍らず。
或は物哀体などを幽玄と申す也。余情の体と幽玄体とは遙か別のもの也。
皆一に心得たる也。

などと言ってるのがおかしい。
でまあ、鴨長明

> 詞に現れぬ余情、姿に見えぬ景気なるべし

これが比較的近いかな。
正徹と鴨長明は正確に理解しているわな。
姿に見えない景色をわざわざ感得する。
まさに禅だな。
或いは「色即是空、空即是色」。
定家が和歌で初めてやって、みんなまねした技だ。

> 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮

これも同工異曲。
こっちのほうがわかりやすい。
さきほどの佐野のわたりの、と比べるとより理解しやすいだろう。
断っておくが私はこういう定家の歌が好きなわけじゃない。

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