和歌では長谷(はせ)のことを「をはつせ」と言ったりするのだが、
「はつせ」は初瀬のことだなってすぐわかるんだが、「を」がよくわからない。
古今以後でもたまに使われるが、もう意味がわからなくなっているようだ。
万葉集では「小泊瀬」とあるから、
「小泊瀬」に対して普通の「泊瀬」があるんじゃなかろうかと思い調べてみると、
意外な事実が。
武烈天皇のことを小泊瀬稚鷦鷯尊(をはつせのわかさざきのみこと)
といい泊瀬列城宮(はつせのなみきのみや)に住んだが、これに対して、
雄略天皇を大泊瀬稚武尊(おほはつせわかたけるのみこと)
と言い、泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)に住んだとある。
そんでまあ、泊瀬に大泊瀬と小泊瀬があったのかなかったのか、
あったけど忘れられたのか、
それとも雄略天皇のほうが昔或いは年上なので大泊瀬でそれに対して、
武烈天皇を小泊瀬というのか、よくわからん。
ただもう万葉集の時代には「をはつせ」だけが歌語として残っていて、
古今集以後でもまれに使われた、ということなのだろう。
> 01-0045 八隅知之 吾大王 高照 日之皇子 神長柄 神佐備世須等 太敷為 京乎置而 隠口乃 泊瀬山者 真木立 荒山道乎 石根 禁樹押靡 坂鳥乃 朝越座而 玉限 夕去来者 三雪落 阿騎乃大野尓 旗須為寸 四能乎押靡 草枕 多日夜取世須 古昔念而
こもりくのをはつせやまは、とある。
> 01-0079 天皇乃 御命畏美 柔備尓之 家乎擇 隠國乃 泊瀬乃川尓 舼浮而 吾行河乃 川隈之 八十阿不落 万段 顧為乍 玉桙乃 道行晩 青丹吉 楢乃京師乃 佐保川尓 伊去至而 我宿有 衣乃上従 朝月夜 清尓見者 栲乃穂尓 夜之霜落 磐床等 川之水凝 冷夜乎 息言無久 通乍 作家尓 千代二手尓 座多公与 吾毛通武
こもりくのはつせのかはに。
> 03-0282 角障経 石村毛不過 泊瀬山 何時毛将超 夜者深去通都
はつせやま。
> 03-0420 名湯竹乃 十縁皇子 狭丹頬相 吾大王者 隠久乃 始瀬乃山尓 神左備尓 伊都伎坐等 玉梓乃 人曽言鶴 於余頭礼可 吾聞都流 狂言加 我聞都流母 天地尓 悔事乃 世間乃 悔言者 天雲乃 曽久敝能極 天地乃 至流左右二 杖策毛 不衝毛去而 夕衢占問 石卜以而 吾屋戸尓 御諸乎立而 枕邊尓 齋戸乎居 竹玉乎 無間貫垂 木綿手次 可比奈尓懸而 天有 左佐羅能小野之 七相菅 手取持而 久堅乃 天川原尓 出立而 潔身而麻之乎 高山乃 石穂乃上尓 伊座都類香物
こもりくの、はつせのやまに。
どうも万葉時代は「初瀬」ではなく「始瀬」と書いたらしいな。
> 03-0424 隠口乃 泊瀬越女我 手二纒在 玉者乱而 有不言八方
こもりくのはつせをとめが。
> 03-0425 河風 寒長谷乎 歎乍 公之阿流久尓 似人母逢耶
かはかぜ(の?)さむきはつせを。
この頃から長谷という表記があったのか。
> 03-0428 隠口能 泊瀬山之 山際尓 伊佐夜歴雲者 妹鴨有牟
こもりくのはつせのやまの、か。
> 06-0912 泊瀬女 造木綿花 三吉野 瀧乃水沫 開来受屋
はつせめ(の?)
> 06-0991 石走 多藝千流留 泊瀬河 絶事無 亦毛来而将見
はつせがは。
> 07-1095 三諸就 三輪山見者 隠口乃 始瀬之桧原 所念鴨
こもりくのはつせのひばら。
> 07-1107 泊瀬川 白木綿花尓 堕多藝都 瀬清跡 見尓来之吾乎
はつせがは。
> 07-1108 泊瀬川 流水尾之 湍乎早 井提越浪之 音之清久
はつせがは。
> 07-1270 隠口乃 泊瀬之山丹 照月者 盈県為焉 人之常無
こもりくのはつせのかはに。
> 07-1382 泊瀬川 流水沫之 絶者許曽 吾念心 不遂登思齒目
はつせがは。
> 07-1407 隠口乃 泊瀬山尓 霞立 棚引雲者 妹尓鴨在武
こもりくのはつせのやまに。
> 07-1408 狂語香 逆言哉 隠口乃 泊瀬山尓 廬為云
こもりくのはつせのやまに。
> 08-1593 隠口乃 始瀬山者 色附奴 鍾礼乃雨者 零尓家良思母
こもりくの、はつせのやまは。
> 09-1770 三諸乃 神能於婆勢流 泊瀬河 水尾之不断者 吾忘礼米也
みもろの、かみのおばせる、はつせがは。おばせる?「おはせる」でいらっしゃる、か。
「御室の神のおはせる初瀬川」まともかくすでに万葉集の頃には初瀬川流域は三輪山とともに神域と見なされていたようだ。
> 09-1775 泊瀬河 夕渡来而 我妹兒何 家門 近舂二家里
はつせがは。
> 10-2261 泊瀬風 如是吹三更者 及何時 衣片敷 吾一将宿
はつせかぜ。
> 10-2347 海小船 泊瀬乃山尓 落雪之 消長戀師 君之音曽為流
あまをぶね、はつせのやまに、ふるゆきの、と読むらしい。
なぜ海小船なのか、少し気になる。
> 11-2353 長谷 弓槻下 吾隠在妻 赤根刺 所光月夜邇 人見點鴨 一云 人見豆良牟可
(を?)はつせ(の?)ゆつきがしたに。
> 11-2511 隠口乃 豊泊瀬道者 常滑乃 恐道曽 尓心由眼
こもりくの、とよはつせぢは。
> 13-3225 天雲之 影塞所見 隠来笶 長谷之河者 浦無蚊 船之依不来 礒無蚊 海部之釣不為 吉咲八師 浦者無友 吉畫矢寺 礒者無友 奥津浪 諍榜入来 白水郎之釣船
こもりくの、はつせのかはは。
> 13-3226 沙邪礼浪 浮而流 長谷河 可依礒之 無蚊不怜也
さざれなみ、うきてながるる、はつせがは。
> 13-3263 己母理久乃 泊瀬之河之 上瀬尓 伊杭乎打 下湍尓 真杭乎挌 伊杭尓波 鏡乎懸 真杭尓波 真玉乎懸 真珠奈須 我念妹毛 鏡成 我念妹毛 有跡謂者社 國尓毛 家尓毛由可米 誰故可将行
こもりくの、はつせのかはの。
> 13-3299 見渡尓 妹等者立志 是方尓 吾者立而 思虚 不安國 嘆虚 不安國 左丹柒之 小舟毛鴨 玉纒之 小檝毛鴨 榜渡乍毛 相語妻遠 或本歌頭句云 己母理久乃 波都世乃加波乃 乎知可多尓 伊母良波多〃志 己乃加多尓 和礼波多知弖
こもりくの、はつせ(波都世)のかはの。
> 13-3310 隠口乃 泊瀬乃國尓 左結婚丹 吾来者 棚雲利 雪者零来 左雲理 雨者落来 野鳥 雉動 家鳥 可鷄毛鳴 左夜者明 此夜者昶奴 入而且将眠 此戸開為
こもりくの、はつせのくにに。
> 13-3311 隠来乃 泊瀬小國丹 妻有者 石者履友 猶来〃
こもりくの、はつせをくにに。
> 13-3312 隠口乃 長谷小國 夜延為 吾天皇寸与 奥床仁 母者睡有 外床丹 父者寐有 起立者 母可知 出行者 父可知 野干玉之 夜者昶去奴 幾許雲 不念如 隠孋香聞
こもりくの、はつせをくに(に?)
> 13-3330 隠来之 長谷之川之 上瀬尓 鵜矣八頭漬 下瀬尓 鵜矣八頭漬 上瀬之 年魚矣令咋 下瀬之 鮎矣令咋 麗妹尓 鮎遠惜 麗妹尓 鮎矣惜 投左乃 遠離居而 思空 不安國 嘆空 不安國 衣社薄 其破者 継乍物 又母相登言 玉社者 緒之絶薄 八十一里喚鷄 又物逢登曰 又毛不相物者 孋尓志有来
こもりくの、はつせのかはの。
> 13-3331 隠来之 長谷之山 青幡之 忍坂山者 走出之 宜山之 出立之 妙山叙 惜 山之 荒巻惜毛
こもりくの、(を?)はつせのやま
> 16-3806 事之有者 小泊瀬山乃 石城尓母 隠者共尓 莫思吾背
ことしあらば、をはつせやまの、いはきにも。
ここまで万葉集。
読みは「をばつせ」であった可能性もあるようだ。
どうもいま長谷寺のある辺りはいくらなんでも天皇が都にするには奥まりすぎているようだ。
実際の初瀬宮は三輪山の麓、今の桜井市役所あたりにあったのではないか。
そして初瀬山というのは三輪山のことだったのではなかろうかと思うが、どうよ。
ただまあ、枕詞の「こもりくの」を奥まった国の、と解釈できなくもないわな。
で、長谷寺は清少納言や紫式部や紀貫之も参詣したらしいんだが、
ほんとかいなと思わなくもない。
吉野は初瀬よりもさらに奥だわな。
後撰集
> 菅原や伏見のくれに見わたせは霞にまかふをはつせの山
はて。伏見に長谷寺などあったのだろうか。
> うかりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを
「祈れどもかなはぬ恋」という題詠だったらしい。
祈るから長谷観音、ということになったのだろうか。
割と唐突な感じのする歌。
源俊頼とかよくわかんね。