四方の海

ふと気になって明治天皇御製で「四方の海」を検索して見たのだが、かなりある。
実際にはおそらくこの数倍はあるだろう。

> 池水のうへにもしるし四方の海なみしづかなる年のはじめは (明治20年)

> 四方の海なみをさまりてこの春は心のどかに花を見るかな (明治29年)

> いくさぶねつどふもうれし四方の海なみしづかなる世のまもりにと (明治33年)

> まじはりのひろくなりゆく四方の海は波たつ風のおともきこえず (明治34年)

> 外つ国のふねもつどへり四方の海なみしづかなるとしのはじめに (明治36年)

> 仇波のしづまりはてゝ四方のうみのどかにならむ世をいのるかな (明治37年)

> おほづつの響きはたえて四方の海よろこびの声いつかきこえむ (明治37年)

> 四方の海みなはらからと思ふ世になど波風はたちさわぐらむ (明治37年)

> 四方の海なみしづまりてちはやぶる神のみいつぞかがやきにける (明治38年)

> 波風もしづまりはてて四方の海に年のほぎごといひかはしつつ (明治39年)

> 四方の海なみしづかなる時にだになほ思ふことある世なりけり (明治39年)

> 波風はしづまりはてて四方の海に照りこそわたれ天つ日のかげ (明治39年)

明治29年のは日清戦争が終わったことを言っている。
一番有名なのは明治37年の「四方の海みなはらからと思ふ世に」であろうと思う。
さらにこれらには本歌がある。

> 四方の海なみをさまりてのどかなる我が日の本に春は来にけり

亀山天皇が元寇の後に読んだ歌。「弘安百首」に採られている。
また、

> 四つの海波もをさまるしるしとて三つの宝を身にぞつたふる

後村上天皇。こちらは新葉和歌集に採られている。
もっと遡ると「後鳥羽院御集」に

> ちはやぶる日吉の影ものどかにて波をさまれる四方の海かな

がある。
うーむ。
谷知子「天皇たちの和歌」を読みつつ。
なるほど、ここで「日吉」とは比叡山の東の麓にある、滋賀大津の日吉大社のこと。
同時に詠まれた「正治二年初度百首」中の御製では、伊勢神宮、石清水八幡宮、住吉大社、春日大社も詠まれていて、
要するに近畿の主要な社を詠んでいる:

> 万代の末もはるかに見ゆるかな御裳濯川の春の曙

> 石清水絶えぬ流れの夏の月たもとの影も昔おぼえて

> 三笠山峰の小松にしるきかな千とせの秋の末ははるかに

> 冬くれば四方の梢はさびしきに千代をあらはす住吉の松

御裳濯川(みもすそがわ)は五十鈴川の別名。
で、こうして並べてみると、「四方の海」以外の歌にはそれぞれ春夏秋冬が詠み込まれている。
こうしてみると「四方の海」の歌は正月に当たって四方の神々を遙拝する「四方拝」を意味しているのだろうと言うことがわかる。
なんとも見事だ。

酒を詠める歌一首。

> 身をこはし心もくるふものなれど夜ごと飲まではをられぬが酒

別にまだアル中ではないと思う。

若山牧水は43才で急性胃腸炎+肝硬変で死んだそうだな。

辞世千人一首

荻生待也「辞世千人一首」を読む。
千人といっても、
江戸時代の辞世の歌(狂歌)が充実しているようだ。

便々館湖鯉鮒(べんべんかんこうり)という狂歌師の歌:

> 三度炊く米さへこはし柔らかし思ふままにはならぬ世の中

式亭三馬:

> 善もせず悪も作らず死ぬる身は地蔵もほめず閻魔叱らず

蜀山人:

> 生きすぎて七十五年食ひつぶしかぎりしられぬあめつちの恩

魚屋北渓(ととや ほっけい、浮世絵師):

> 暑くなく寒くなくまた飢ゑもせず憂きこときかぬ身こそやすけれ

中山信名は幕臣で、国学者。塙保己一の弟子の一人。

> 酒も飲み浮かれ女も見つ文もみつ家も興して世にうらみなし

のんきだな。
とまあこんな感じで、江戸時代とは実際泰平な世の中だったのかもしれん。
幕末維新はうってかわって殺伐としていて、中山忠光:

> 思ひきや野田の案山子のあづさ弓引きも放たで朽ちはつるとは

宮本大平:

> えびす船打ちもはらはで白雪のふり行く老いの身ぞあはれなる