やっと図書館が開いたので大野晋『日本語について』岩波書店同時代ライブラリーと、丸谷才一『恋と女の日本文学』講談社、を借りてきた。
大野晋が宣長と草深多美の再婚について言及しているのは、宣長全集に挟み込まれている記事で知り、
さらにネットで検索してだいたいのことはわかったのだけど、ともかく原著にあたってみようと思ったのだ。
まず、『恋と女の日本文学』の方だが、こちらは「恋と女と本居宣長」という文があり、何かの講演のような体裁になっているが、
1995年2月号の「群像」に直接掲載されたもののようだ。
その9の中の「大野晋さんの説を紹介することになるでせう。」(p80)から以降の部分に記述してある。
『日本語について』の方はI語学と文学の間―本居宣長の場合―「美可」と「民」という箇所だ。
こちらの初出は 1976年日本書籍社版『日本語について』らしい。
大野晋は、
> 外にとりたてた証拠はないのです。
と断っているし、丸谷才一もまた、
> 小説家らしい想像力の働かせ方と笑はれるかもしれませんが、しかしここからの展開ぶりはちよつと小説的である。
と言い訳めいたことを書いている。
つまり、ふたりとも、是が非でも真実であると主張したいわけではない。
でも、一つの可能性として、仮説として、世に問うに値する、といいたいらしいのだ。
特に大野晋の場合には1994年に再度岩波書店から同じ内容で出しているのだから、自分の説にそれなりの自信があるということだ。
私は子供の頃から丸谷才一も大野晋も大ファンで大きな影響を受けたから、むしろ、
なぜ彼らはそのように判断し、しかし私はそうは思わないのか、という点に非常に関心を持った。
きっと私以外の人たちはふーんそうなの、と考えてそれ以上追求したりしないだろうと思う。
宣長は京都から松坂に帰郷してから三年間結婚しなかった、いかにも不思議だ、何か未練でもあったのだろう、
と彼らは考えているのだが、それはどうでもよいことだ。
宣長は二十二歳と、学問を始めるにはかなり遅い時期から遊学している。
無論彼は松坂でずいぶん早い時期から学問をしていて、その結果意を決して京都に上ったのだろう。
さらにそれから五年間も京都にぐずぐずして、師匠が死んでやっと帰郷していて、しかも三年間も結婚していない。
私が思うに、この二十二歳から八年間の長い長いモラトリアムは、
単に宣長が学問好きだったからとか、独身でいたかったからではなくて、
結婚したかったけどなかなかうまい縁談がみつからなかったからだろうと思う。
京都ではどこか医者の娘のところへ婿入りできないか探していた。
松坂に帰ってからも、一年か二年の間はその運動を続けていた。
それらがすべてうまくいかなかったから、地元の有力者の娘と結婚したが、それもうまくいかなかった。
仕方なく知り合いの妹の後家の女と結婚した。
そう考えるのが一番自然だ。
大野晋は日記の文体のリズムが、最初の妻の美可(旧名ふみ)のときと、二度目の多美のときで違う、などと書いている。
しかし、それにしても、美可のときは初婚で大家との縁談なので緊張していただけかもしれんし、
多美のときは再婚で気負っていただけかもしれん。それだけのことのような気がする。
さらに、大野晋と丸谷才一が言いたいのは、宣長が仏教や儒学からの呪縛から逃れて、
『源氏物語』を読み解く目を持ち得たのは、多美への未練を三年間持ち続けていたからだ、などと言っているのだが、
そんな重大な結論が導かれるには、これだけの状況証拠では足りなすぎる。
宣長が儒教や仏教などの呪縛から自由だったのは、なぜかだが、この問は、
信長がなぜ比叡山を焼き討ちして本願寺を武装解除できたのか、という問と同じだ。
白河天皇が手を焼き、清盛が甘やかした寺社勢力というものを、なぜ突然信長が中世の宗教的桎梏から解き放たれて、
徹底的に弾圧し得たのか。
信長が天才だったからだろう。
そうとしか言いようがない。
宣長の場合、自ら歌を詠み、古今集や新古今集、伊勢物語や源氏物語を「原著」で読んだであろう。
さらに定家や契沖の歌論書など片っ端から読んだ。
その経験が「国学」というものを突然創始させたようにみせた。
少なくとも定家や後鳥羽院の頃までは、日本人は儒教や仏教にとらわれず、自由に歌を詠んだ。
そこから直接学べば、外来思想の影響は受けにくい。
また、国学の祖といわれる契沖は、
定家よりも古く、万葉集や日本書紀、古事記などを研究していたから、
宣長もまた、定家の頃にはすでに忘れられていた古い古典にさかのぼって国学というものをうちたてねばならないと考えていた。
宣長が古事記の研究をライフワークとしたのも、契沖がそのとっかかりを与えてくれたからだろう。
源氏物語を読めるようになったのも、第一には契沖の影響だろう。
蘭学の影響もまったくなくはなかったかもしれない。
医者にとって、少なくとも医者のコミュニティの中では、蘭学の影響は無視できないはずだ。
仏教があり、儒教があり、それとは別にキリスト教というものがある。
学問の世界はすでにいろんな説に分かれて相対化しつつあった。
宣長も京都に上っていろんな学問のうちどれをどのくらい学ぼうかと品定めくらいはしただろう。
そういう雰囲気の中に第四の学問として国学を創始するべき時運が整っていたのだろうと思う。
さらにいえば、戦国時代や江戸初期の歌人、とくに武将などは、わりと自由に歌を詠んだ。
必ずしもイデオロギーに囚われてはいなかった、と思う。
誰も彼もが心を縛られているのではない。
宣長はもともと浄土宗だが、自らそのくびきから逃れている。
ただ、仏教や儒教から逃れて国学に徹したのではなかった。
仏式と国風の二つの墓を作ったくらいだ。彼は宗教というものを相対化していた。
宣長もまったく恋愛を経験しなかったわけではなかろうが、それは草深多美への片思いだった可能性は低い。
一番可能性が高いのは、日記にも記されていない、あるいは記したが後世には残されなかったところにあるかもしれない。
それはたぶん五年間という長い長い京都遊学時代のどこかだと思うが、何も証拠は残ってない。
熱烈な恋愛を経験したから源氏物語が読めるようになるのであれば、そんな人間はいくらでもいるだろう。
しかし当時の多くの日本人は、仏教や儒教に囚われた、曽根崎心中のような浄瑠璃に感情移入したのであり、
当時すでにあまりにも浮世離れした源氏物語に結びつけるには飛躍がありすぎる。