デーテ 6. イタリア統一戦争

 そもそもなぜイタリアで戦争が起きたかを説明しておこうか。

 近世、北イタリアの大半はオーストリアの支配下にあった。ミラノはスペイン継承戦争の頃からオーストリア領。そのまた東のロンバルディアやヴェネツィアもヴィーン会議によってオーストリア・ハンガリー帝国の一部に編入された。オーストリアはナポレオン戦争における最大の勝者だった。オーストリアが主宰国となり、踊っても進まぬ、と揶揄されたヴィーン会議は、ナポレオンのエルバ島脱出で一旦妥結され、ナポレオンが完全に失脚した後にヴィーン体制として確立する。

 トスカーナやモデナも元はといえばハプスブルク家の所領ではなかったのだが、欧州の王侯貴族はみな親戚で、カール大帝のフランク王国の時代から、いや、古代ゲルマンの部族制の頃から、王や公や伯らの継承権というのは土地の相続権なのであって、相続権さえあれば複数の領地や国を統治してもよい。つまり一般人が地主になるのと王が国を継承するのは同じ理屈なのだ。特にハプスブルク家は「戦争は他家に任せよ。幸せなオーストリアよ、汝は結婚せよ!軍神マルスが他家に土地を与え、しかるのちに女神ヴィーナスがそれを汝に手渡すだろう」などと言われるように、戦争よりも政略結婚が大好きで、しかも他家に所領をとられないように、いとこどうしの近親結婚が盛んだった。そうこうしているうちにヨーロッパの小さな共和国や辺境伯国などがいつのまにやらハプスブルク領になっていて、オーストリアは南ドイツのザルツブルクやティロル、北イタリアだけでなく、中欧のチェコ、バルカン半島やポーランドの一部など、ヨーロッパの諸民族を抱え込んだ大帝国に発展し、オーストリア大公は皇帝を称する。

 ヴィーン体制の下、オーストリアはその全盛期を迎えていた。オーストリアが旧神聖ローマ帝国領の諸国の盟主となり、プロイセン、バイエルン、ザクセン、ハノーファーなどを従えて、大ドイツ連邦を作ろう、などと言っていたのはこの頃のことだ。

 発端は1848年の欧州革命だった。パリでは復古王政が倒れ第2共和政となる。ヴィーンではハンガリーの叛乱がもとでヴィーン体制の主役・オーストリア宰相メッテルニヒが失脚する。30年間続いたヴィーン体制の崩壊だ。

 これは、それまでの中産階級や知識人が起こした革命ではなくて、歴史上初めての、無産階級による赤色革命だった。マルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』が出たのもこの年だ。産業革命が労働者階級を生み出し、国民の多数勢力となった彼らが、諸侯や領主たちによって形成された古き良きヨーロッパ社会を揺さぶった。

 欧州の諸侯・領主たちは相変わらず、陣取り合戦のような小競り合いを繰り返していた。しかしナポレオン戦争以来、民族主義に目覚めた民衆は、欧州が一部の王族の恣意によって支配されるという構図に我慢ができなくなり、各地で憲法制定や国民議会の開催を要望する革命が起きる。君主や貴族らは危険を避けるため、一時的に避難・亡命したりした。

 ロンバルディアの市民はオーストリアの支配から脱すべく、フランスやドイツに起きた革命に乗じて蜂起し、オーストリア軍を追い払った。このためロンバルディアの西隣に位置するピエモンテも否応無しに戦乱に巻き込まれる。この国は古くはピエモンテ公国と呼ばれていたが、サヴォイア公が隣接するピエモンテとジェノヴァ、地中海のサルディーニャ王国をも支配するようになり、公国と王国では王国の方が格上なので、サルディーニャ王国と総称されることが多いが、領主は昔ながらにサヴォイア公と呼ばれることが多く、しかも王国の中心地は首都トリノがあるピエモンテである。ニースもサヴォイア公が領有していたわけだ。ややこしいな(※5)。

 サヴォイア公カルロ・アルベルトはミラノとヴェネツィアに蜂起した叛乱軍に呼応してオーストリアに宣戦布告、ミラノに入る。ヴェネツィアは再びヴェネト共和国として独立を宣言した。南イタリアの両シチリア王国でも新憲法が制定され王フェルディナンド2世は革命勢力に譲歩する。人民らは、この機に乗じて、イタリア半島におけるハプスブルク家による支配を払拭しようとした。

  しかしながらイタリアの、いやヨーロッパの宗教的中心ローマでは、教皇ピウス九世自身が封建領主の一員であって、イタリアに民族主義に基づく統一国家が出現するよりも、従来通り、欧州諸侯の力の均衡の上に自己の存続を望む。

 当時のイタリアというのは、真ん中が教皇領、パルマと南イタリアがブルボン家、北イタリアをハプスブルク家とサヴォイア家が領有していた。ハプスブルク家はヴィーンから教皇領の北隣まで地続きにつながっていた。ブルボン家はもとはフランスが本場だったのだが、本家は途絶えて、その代わりにスペインや南イタリア、シチリアなどで繁栄していた。教皇はそうした王族らによるイタリア支配を支持したため、ローマ市民もまた蜂起し、教皇は一時ローマを脱出しローマには共和国政府が作られる。

 イタリアというところは、特に南イタリアでは昔から、秘密結社が盛んなところで、マフィアとかコーザ・ノストラなどと呼ばれるが、それが政治運動と結びついて「カルボナリ党」や「青年イタリア党」などとなる。それらと、ピエモンテ軍や両シチリア王軍、ヴェネト共和国軍などのイタリア人民連合は、しかし、オーストリア帝国ラデツキー元帥によって各個撃破された。その盟主たるべきカルロ・アルベルトが共和派らとの共闘を嫌ったためとも言われている。カルロ・アルベルトはミラノを脱出し、トリノに退却した。態勢を立て直して挑んだノヴァーラの戦いでも完敗し、一挙に失望感が広がる。 フランスも教皇支持に回る。両シチリア王国では王が議会や革新勢力を弾圧して、教皇をガエータ要塞に保護する。ヴェネト共和国も頓挫する。サヴォイア公カルロ・アルベルトは完全にハシゴを外された形になる。

  ちなみに、当時すでにオーストリア軍の中将だったギュライはヴェネト方面でイタリア連合軍防衛に当たっていた。彼にめだった戦果はない。ハンガリーに代々続く軍人の家系の出のため、昇進は早かったが、元来地味で慎重な性格なのだろう。

  カルロ・アルベルトは王位を長男のヴィットーリオ・エマヌエーレに譲って、亡命先のポルトガルでまもなく死ぬ。敗戦に塗れたピエモンテもまた共和国になる瀬戸際だったが、ヴィットーリオ・エマヌエーレはその危難に耐える。ヴィーン体制は崩壊したが、オーストリアは依然として精強だった。

 戦後、ピエモンテ議会の長老議員たちは一人の聡明な青年貴族を宰相に推挙する。カヴールの領主ベンゾ家の次男カミッロ、若干42歳。プロイセン王国の鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクと並び称されることとなるカヴール伯カミッロ・ベンゾがいきなり歴史の表舞台に引っ張り出されたのはこのときだ。

 伝統的に欧州貴族は長男が家督を継ぐ。次男以降は軍人や教師、僧侶などになる。カミッロもまた、将来軍人となるべくトリノの士官学校に入れられる。しかし彼は戦争よりも学問、特に数学が好きだった。士官学校では自由に学問に励むことが禁じられていた。読んでもよい書物も限られていた。そのためカミッロは処罰を受けたこともある。彼は技術にたけていたので、工兵部隊に入れられた。

 サヴォイア公カルロ・アルベルトもその先代のカルロ・フェリーチェも、お世辞にも開明的な君主とはいえなかった。敬虔なカトリック信者で、青年イタリア党も弾圧された。カミッロは堅苦しいカトリックの教義と窮屈な軍隊生活を嫌い職を辞す。その後欧州各地を転々とし、イタリアの領主としては初めて化学肥料を使ったり、ピエモンテ農学会を設立したりした。彼はまた蒸気機関の普及にも貢献する。

 カミッロはまた、1847年トリノで「リソルジメント( Il resorgimento; 復活)」という日刊紙を発行する。リソルジメント編集長のカミッロはカルロ・アルベルトに対し憲法の制定を呼びかけ、また、革命中の選挙でカミッロはピエモンテ議員に当選する。議会が解散すると彼は一旦議席を失うが、ノヴァーラの敗戦後行われた選挙で再びカミッロが議会に戻ってくると、彼は農政さらに財務大臣に抜擢される。彼は国力を増強するのに科学技術が不可欠であると確信していた。彼がこれらの大臣を歴任した時代にピエモンテの鉄道網は急速に発達する。

 ヴィットーリオ・エマヌエーレは、カミッロを嫌った。リベラルすぎる。王党派でも教皇派でもない。近代科学を過信し、伝統や宗教を軽んじていると。

 しかし長老らは言った。

 我々にはもはやピエモンテ議会をたばねていく力がありません。新しい時代は、新しい世代の手にゆだねねばならないのです。

 カミッロはリベラルとはいえ貴族です。今この国歩艱難のときに、国内の保守・革新両勢力をまとめられるのは彼しかいません、貴族の中に彼ほど広い見識を持ち、指導力をそなえた政治家はおりません。王よ、今こそ、イタリアでも、フランスで既に起きたような近代化や民主化が進行するものと覚悟をお決めにならねばなりません。時流に積極的に身を投じて、ピエモンテが常にそのイニシアティブを取って、イタリアの盟主となってこそ、王としての地位を保てるとお考えください。ピエモンテをイタリアで最も進歩的な国とし、王はイタリアで最も目の開けた君主にならねばなりません。ピエモンテは中世的封建国家から近代的中央集権国家に脱皮しなくてはならないときにきております。その任務に耐える宰相たり得るのはカミッロしかおりません、と。

 王はしぶしぶカミッロを宰相に任命した。いわずとしれたカヴール閣下、イタリア統一のために神が地上に遣わした男、である。「リソルジメント」はそのままイタリア統一運動を指す言葉となる。

 宰相カヴールは、ピエモンテだけでオーストリアを撃退することはできないし、イタリア伝統の秘密結社を政治的に組織して武装蜂起させても役には立たない、と考えていた。

 カヴールは、ともかくも、イギリスとフランス、この二つの先進大国の協力と賛同が得られねばならない、それ以外にイタリア統一は成らない、王ヴィットーリオ・エマヌエーレの意見を容れて、積極的にそう考えるようになった。もともとカヴールは、イタリアのことはイタリア人だけで解決したかった。わざわざイギリスやフランスなどの列強の干渉を招きたくない。リスクの大きな、外科手術のようなものだ。イギリスはロシアを討ち、トルコを救うために欧州諸国に参戦を呼びかける。ピエモンテでこれに応じたのは、カヴールではなく王であった。

 イギリスには、クリミア戦争に参戦することで恩を売った。日の沈まぬ世界帝国イギリスにしてみれば、小国ピエモンテに加勢されたからといって、大してありがたくはなかったろう。が、ピエモンテ軍は思いの外、善戦する。少なくとも足手まといにはならなかった。積極的な支援は望めないかもしれないが、一応味方にはついてくれそうだ。

 一方フランスだが、革命後神輿に担がれて政権を握ったナポレオンの甥ルイ・ナポレオンがローマに進駐してイタリアの統一運動を潰す。王政であろうと共和政であろうとフランスは伝統的にカトリック大国であり、教皇派なのだ。ルイ・ナポレオンはついに帝位についてナポレオン3世となった。ボナパルティズムの復活、フランス第2帝政だ。皇帝ナポレオン3世は叔父の時代にピエモンテから奪って、奪い返された失地ニース、サヴォイアを回復したがった。

 ナポレオン3世がパリで主催したクリミア戦争の講和会議以降、カヴールはナポレオン3世と秘密の駆け引きを繰り広げる。プロイセンのラインラント州に隣接するフランス東部ロレーヌ州(後に普仏戦争でプロイセンに割譲され、ロートリンゲン州となる)にある湯治場プロンビエールで行われた密約もその一つであった。

 ピエモンテはフランスにニースとサヴォイアを割譲する。その代わり、フランスは、ピエモンテがロンバルディアとヴェネツィアからオーストリアを追い出す戦争に協力する。ピエモンテがオーストリアを挑発し、オーストリアが誘いに乗ってピエモンテに侵入したら、フランスも参戦する。

 ヴィットーリオ・エマヌエーレの娘マリア・クロティルデと、ナポレオン3世の従弟でナポレオン1世の弟の子ナポレオン・ジェローム(ナポレオン・ジョゼフ・シャルル・ポール・ボナパルト)の婚姻の約束も含まれていたが、これはオーストリアを露骨に警戒させた。

 カヴールはオーストリア支配から脱した暁に、「イタリア連邦」とでも言うべきものを構想していた。北イタリアとサルディーニャ島はサヴォイア家が。その南にはボナパルト家が。その南には教皇領。さらにその南にはブルボン家の両シチリア王国。カヴールは当初、これら四つの国の連邦という形で、イタリア統一を成し遂げようと考えていたのだ。

 両シチリア王国とは教皇領より南のナポリ王国とシチリア島のシチリア王国を、ナポリの王宮にいるブルボン家の王が支配していたので、合わせて両シチリア王国、と呼ぶのである。このサヴォイア家とブルボン家が実質的なイタリアの盟主となるであろう。カヴールは当然両シチリア王国のブルボン家の協力を期待する。この機会に両シチリア王国も立憲君主制に移行すればよい。ピエモンテ与党第一党の首班として宰相となったカヴールにはそれが一番好都合でかつ近道に思えた。俺にもそれが一番の理想型だったように、今でも思う。

 しかし両シチリア王国の君主フランチェスコ2世の動きはにぶかった。急激な世の中の動きに乗り切れず、呆然として路傍にたたずむ人のようであった。地中海のど真ん中という、重要な場所にいたのにもかかわらず。

 カヴールは徹底的な国内の改革を断行する。王や僧侶らの反発をねじふせて修道院を解散しその領地を国有化する。一方で彼は共和主義者を抑え、普通選挙や自由貿易を制限した、立憲君主制の中央集権国家を目指す。

 あなた方は、そんないくじのないことで、オーストリアに勝てると思っているのですか、ノヴァーラの雪辱を晴らすことができると、思っているのですか、イタリア統一の大業を成就できるとお考えなのですか。それほどに自治や伝統が大切なのですか、と言ってね。そう、かのビスマルクのように果敢に改革を進めたんだ。

 ポー川下流のミラノやロンバルディアはアルプスの雪解け水が潤す沃穣の地であり、特に米がばんばん獲れる。また、ヴェネツィアは今も海運業が盛んで、その海軍力も衰えていない。また北イタリアは人民も勤勉で生産性も高い。イタリア近代工業は北イタリアのピエモンテ、モデナ、ミラノ、ボローニャが先導していた。北イタリアを押さえるということは、イタリア産業をほぼ手中に収めることに等しいのだ。寒冷で日照の少ないオーストリアやハンガリーなどを治めるハプスブルク家としても、農業に適したロンバルディアを、おいそれと手放すわけにはいかない。

 ピエモンテ政府は兵を募り、ミラノの南にポー川を挟んで隣接するモデナ公国やトスカーナ大公国の民衆を扇動する。たまらずハプスブルク家の領主はヴィーンに亡命する。オーストリアは最後通牒を送りつける。これ以上、挑発を続ければ、戦争だ、ただちに武装解除し、モデナとトスカーナから手を引けと。その上、フランスとピエモンテの間で調印されたプロンビエールの密約は事前に漏れており、イギリス、ロシアなどの反対でナポレオン3世は弱腰になっていた。しかし、小国ピエモンテは強硬姿勢を変えない。イタリア人民は、いよいよ祖国を統一する好機だと勇み立つ。イタリアは今や煮え立つ鼎のように熱狂していた。かつて大ナポレオンの力を借りて、イタリアが一時的に統一されたことがあった。今度は3度目の正直。対オーストリア戦に向けて、まさに、遺恨十年、一剣を磨いて来たのである。1859年の春のことだった。


※5 サヴォイア公、古くはサヴォイア伯の領土は、アルプスの西のはじ、レマン湖畔と、レマン湖に東から流れ込むローヌ川上流域の渓谷、そしてレマン湖から西へ流れ出すローヌ側下流域のシャンベリーやグルノーブルあたりまである。ここは現在のフランス領、もしくはフランス語圏のスイス領に相当する。サヴォイア伯は第1次十字軍の頃にトリノ辺境伯の娘と結婚し、ピエモンテ公を兼ねるようになる。つまりサヴォイア伯はもともとどちらかと言えばイタリア人ではなくてフランス人だったわけである。

サヴォイアは15世紀のブルゴーニュ戦争の過程で、ローヌ川上流域を失う。今のスイスのヴァレー州である。また16世紀の宗教改革ではジュネーヴとヴォー州を失う。これらスイスのレマン湖周辺の領土は二度と戻ってこなかった。

十八世紀にスペイン継承戦争に勝利したサヴォイアはシチリア島を手にしたが、これをサルディーニャ島と交換。サルディーニャ王を兼ねる。

イタリア統一戦争において、モデナ・トスカーナ・教皇領の併合をフランスに認めさせるため、先にプロンビエール条約に定めたように、フランスにサヴォイアやニースなどを割譲する。これによってサヴォイア公はほぼ完全にその故地サヴォイアを失った。

デーテ 5. マジェンタの戦い

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 おやおや、こりゃおかしなことになって来たぞ。どうも今夜このデーテという女には、彼女の叔父さんの霊が憑依しているらしい。昔のピエモンテの戦争の話を始めやがった。語り口からして、彼女自身が話しているとは、とても思えない。

 どれ、ピエモンテ産の冷えたワインで、ピエモンテ料理のバーニャカウダでも突きながら、ゆっくりと拝聴することにするか。なあ、君も食べたいだろう。

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 敵国オーストリアの元帥はミラノ総督のギュライ将軍。彼は、かの行進曲で有名なヨーゼフ・ラデツキーの後任だった。ラデツキーはハンガリーの没落貴族の息子で叩き上げの軍人。ナポレオン戦争の頃から従軍しており、イタリア独立の野望をくじき、九十歳過ぎまで現役だったが、やはりハンガリー人のフェレンツ・ギュライに、ミラノ総督を交代する。ギュライの父はナポレオン戦争時代に名を成した将軍であった。

 ギュライ軍はポー川の支流の一つ、国境のティチーノ川を渡り、ラデツキー将軍がピエモンテを破った戦いで有名な、ノヴァーラの街まで、すでに侵攻していた。

 俺が最初にやらされた仕事は、やはりポー川支流のセージア川の堤防に発破をかけて決壊させ、辺りの水田を水浸しにすることだった。それ以来俺はずっと工兵部隊にいた。俺が今も大工仕事などやっているのは、軍隊で土木や建築やらの仕事を覚えたおかげだ。

 4月終わりから5月にかけて、この時期ポー川の支流はアルプスの雪解け水でいずれもみなぎっていた。その上、ピエモンテに味方するかのように連日豪雨が続いた。おかげでギュライは数日間、ノヴァーラで足止めを食った。俺たちはそのすきにノヴァーラの対岸の町ヴェルチェッリに入ったが、やがてオーストリア軍が大挙してセージア川を渡ってきたので、ヴェルチェッリを放棄してポー川南岸のカザーレに移動した。

 俺たちは結局、目的地のアレッサンドリアまではいかず、ここ最前線カザーレでふんばることになった。カザーレは、別名セメントの都とも呼ばれるくらい、セメントだらけの近代的な要塞の町だ。かつてラデツキー将軍もこの町を落とすことはできなかった。ヴェルチェッリにオーストリア軍が進駐してきた。俺たちはさらにカザーレの堡塁をセメントでがちがちに固める作業にかかった。カザーレの西とピエモンテの首都トリノの東に、南のアペニン山脈からコブのようにつきだしたモンフェッラート丘陵地帯はセメントの大産地なのだよ。モンフェッラートを迂回して、ポー川はカザーレから北を流れてトリノに至る。俺たちは毎日モッコを担いで、ポー川の中州から砂を採ったり、モンフェッラート山からセメントを運び出したりと、さんざんこきつかわれてね。

 敵は、北イタリア一の大河、ポー川に懸かる橋を渡ろうとしたが、対岸はカザーレ要塞の真っ正面。集中砲撃を浴びてしまう、橋以外から渡河しようとしても何しろ川幅は広い。渡ったとしても、当時世界最大規模の星形要塞(※日本の五稜郭をさらに巨大にしたもの、と思えばよい)カザーレを落とすのは不可能に近い。カザーレとアレッサンドリアを無視して首都トリノへ向かえば、ミラノへの退路を断たれ、ピエモンテのど真ん中で孤立してしまうからね。結局ギュライはカザーレとアレッサンドリアを迂回しつつ東からじんわりとピエモンテ軍を包囲しはじめた。

 俺たち百人ばかりのスイス傭兵はまるごとピエモンテ軍に配属されたわけだが、このピエモンテ兵というのがカザーレに入ってみて知れたのだが、将官から歩兵まで合わせて総勢千人しかいない。たったこれだけであのオーストリア・ハンガリー大帝国に喧嘩を売ったのかと、俺はあきれかえった。総司令はエンリコ・チャルディーニ将軍。

 チャルデーニは生粋のピエモンテ人ではない。領主の家柄でも、軍人の子でもない。彼の父は土木工学の技術者だったそうだ。オーストリアと教皇領の緩衝地帯、モデナ公国の出身。とはいえ彼が生まれたとき、モデナはナポレオン帝国の衛星国になっていたんだが、その後ヴィーン体制期にはオーストリア・ハプスブルク家の分家がモデナを治めていた。それでチャルディーニは20歳まで医学を学んだが、革命やらなにやらの政情不安で亡命しそれから軍隊に身を投じた。というよりも土木や医療ができる彼のような理系の人材を今の軍隊が欲していたし、彼自身一番良い食い扶持だと思ったんだろうね。1848年、ノヴァーラの戦いでロンバルディア義勇軍を率い、以後、ピエモンテの軍属となり、途中からピエモンテも参戦したクリミア戦争で一躍頭角を現したのである。

 チャルディーニは絵に描いたようなおしゃれで陽気なイタリア男で、ある日俺たちスイス兵だけを集めて言った、

「やあ、諸君。はるばるスイスからようこそ。

 我がイタリアが誇る山海の珍味をみなさんに御賞味してもらいたいところだが、あいにく農夫は野良で塹壕を掘り、漁師は丘に上がって薬莢に火薬を詰めるのに忙しく、コックたちもピザのかまどじゃなくて溶鉱炉の番をしているもんでね。我が軍自慢の糧食をご堪能いただくこともできなくて残念だ、ははは。」

 ギャグをかましたつもりかもしれないが、無粋なスイス兵らはくすりとも笑わなかった。

 「さてと。オーストリア軍というのは数ばかり多いが、ただの野合(やごう)だ。ミラノ駐屯軍は指揮官だけがオーストリアやハンガリーの貴族の出身で、下士官はロンバルディアやヴェネツィアの領主、兵卒は地元の農民だ。たまたまオーストリアに支配されているから税を納め軍役に就いているだけで、だれもオーストリアのために死のうというやつはいない。ちょっと小ずるく立ち働いて、出世してやろうと考えている単なる寄り合い所帯。

 しかし我らピエモンテ兵は少数精鋭。ノヴァーラ、クリミアで実戦を経験したベテラン揃い。その上、小粒だがイタリア一の工業国ピエモンテと、図体ばかりでかくて旧態依然とした封建国家オーストリアとは近代兵力に雲泥の差がある。

 しかもまもなくフランス軍が隣のアレッサンドリア要塞に到着する。こちらはなんと五万人だ。その上、宰相カヴール閣下が練りに練った秘策がある。必ず勝てる戦だ。

 傭兵も勝ち戦に乗るか、負ける側につくかじゃあ、まるでうまみも違う。君たちは良いほうについたよ。」

 

 俺は、チャルディーニ将軍の話を、話半分に聞いた。フランス軍が来るかどうか、いつ来るかなんて重大な機密を、将軍が俺たち傭兵にぺらぺら話すはずがない。逆にこんな膠着状態が何週間も、或いは何ヶ月も続くのじゃなかろうかと思ってたところが、なんと、フランス皇帝ナポレオン3世が、実はもう昨日のうちにアレッサンドリアに入ったと聞いて、びっくり仰天した。なぜって、彼は5日前にはまだパリに居たのだから。

 ナポレオン3世は、ピエモンテに最後通牒が送られても、自国の陸軍司令部に武器弾薬や兵站の準備すら命じてなかった。最後通牒は4月23日、宣戦布告は4月29日、フランスがオーストリアに宣戦布告したのが5月3日、皇帝がパリを発ってイタリアへ向かったのが5月10日。アレッサンドリアに着いたのが14日のことだった。

 アレッサンドリアはジェノヴァの北、ピエモンテ州都トリノの東、ミラノの南西に位置し、トリノ、ノヴァーラに次いで、ピエモンテで三番目に大きな町だ。アレッサンドリアの郊外のマレンゴ村はナポレオン戦争時代の激戦地の一つ。かつてエジプト遠征から帰国したナポレオン・ボナパルトはクーデターを起こして第一統領となり、政権を掌握。片やオーストリア軍は、ナポレオンの留守中にマントヴァ・ミラノ・アレッサンドリア・ジェノヴァ・トリノを攻略。ロンバルディア・ピエモンテを完全に制圧し、さらにフランス本国へ侵攻しようとしていた。ナポレオンはオーストリア軍の退路を遮断すべく、レマン湖畔ジュネーヴに兵を集結し、ローヌ川上流の渓谷を抜け、グラン・サン・ベルナール峠を越えてミラノへ入城。ミラノ市民は、ナポレオンはすでにエジプトで戦死したと信じていた。市民たちはナポレオンを旧時代からの解放者としておおむね好意的に見ており、もろ手を挙げて開城し、ナポレオン軍を迎え入れた。敵の意表を衝いたナポレオンはモンテベッロでオーストリア軍を下し、さらにオーストリア軍が占拠していたアレッサンドリアに進軍中にマレンゴで両軍の全部隊が会戦。その結果、フランス軍が完勝したのだ。マレンゴは両軍が死力を尽くした、きわどい戦いだった。もしオーストリアが勝っていたら、北イタリアはまるごとオーストリア領となっていただろうね。

 ピエモンテは、イギリスやベルギーなどと比べれば遅れていたが、当時イタリアの中では最も早く鉄道が発達していた。ましてオーストリアよりはずっと進んでいた。ピエモンテは、オーストリアと戦端を開くより以前から、戦争にこれらの鉄道を利用する秘策を考えていた。前の国王カルロ・アルベルトの時代から国費を投じて、首都トリノからアレッサンドリアを経て地中海の港町ジェノヴァをつなぐ鉄道の建設を始める。ジェノヴァはずっと独立した共和国だったがナポレオン戦争の結果ピエモンテに併合されていた。アレッサンドリアからジェノヴァまでの区間には、イタリア半島を縦断するアペニン山脈の北端が延びている。ピエモンテは当時としては世界最長のトンネルをこの山脈に通して鉄道を開通させる。これによりピエモンテに一本の動脈が通った。後発ではあったが、ピエモンテは鉄道技術に自信を持った。

 さらに、トリノからサヴォイアとフランスの国境近くの町スーザまで、またアレッサンドリアからカザーレ、ヴェルチェッリ、ノヴァーラに至る鉄道を完成させる。スーザからフランス領までは、アルプス山脈が隔てており、当時の技術ではまだここに鉄道を通すことは不可能だった。

 ナポレオン3世はフランス南部の町リヨンに集結させていた軍を徒歩と馬車でアルプスのモン・スニ峠(※3)経由でサヴォイアのスーザに移動させた。スーザからアレッサンドリアまでは、鉄道で一日もかからずに兵士や物資を輸送することができる。

 フランスは必ずしも鉄道先進国ではなかったが、第二帝政開始とともに大投機時代に入り、1855年にはパリ=マルセイユ間が全線開通する。ナポレオン3世自身はパリからマルセイユまでを鉄道で、マルセイユからジェノヴァまでを船で、そしてジェノヴァからアレッサンドリアまでを鉄道で移動した。アレッサンドリアはピエモンテ領内の鉄道のジャンクションであり、故に連合軍の集結地点に選ばれたのだ。

 世界戦史にも類を見ない「鉄道を使った電撃戦」。それがピエモンテの宰相カヴールとナポレオン3世の間で、練りに練られた策戦だった。産業革命がもたらした歴史的な転換点の一つだったとも言える。

 

 チャルディーニ将軍は麾下の将兵を集めて言った、

 「ギュライは、フランス軍が海路マルセイユからトスカーナに上陸し、教皇領を保護し、それから内陸のモデナ、ロンバルディアへと侵攻してくるのだろうと考えていた。フランスはローマ教皇が大好きだ。ぜひとも自分の影響下に置きたい。かつ、フランス皇帝の甥がサヴォイア公の娘と結婚した上でモデナとトスカーナの君主になる、というもっぱらの噂だからだ。

 モデナ公とトスカーナ大公はオーストリアと同じハプスブルク家。彼らはフランスとピエモンテが扇動した暴動のため、すでにお里のヴィーンに逃げ帰っている。

 フランス軍は或いはジェノヴァに上陸するかアルプスを越えてくるのかもしれんが、どちらにせよ、イタリアまで来るにはだいぶ時間がかかるのに、パリの皇帝ボナパルトはのらりくらりしている。

 そこですばやく、ミラノに隣接し比較的手薄なピエモンテを威嚇し、サヴォイア公を屈服させ、フランス皇帝の介入を未然に防ごうと考えた。

 ところが、ナポレオン3世がいきなりピエモンテのど真ん中アレッサンドリアにいると知ったギュライはびっくりしたよな。ハンガリーはブダペスト生まれのフェレンツ・ギュライ伯。領主の家系でお父さんのイグナツ・ギュライも軍人、ラデツキー将軍の同輩で、ともにオスマン帝国や初代ナポレオン帝政と戦った。息子のフェレンツは1816年、17才で軍役に就いたが、彼の初陣は彼が49才の時、1848年の革命の時だったというから、ヨーロッパ全体が平和ぼけしてたヴィーン体制のまっただ中、ハプスブルク家の宮廷でのんきに出世して、老後にさしかかっていきなり実戦を経験したって人だな。

 彼は宿敵ボナパルトにどう立ち向かえばよかろうか、と考える。父イグナツなら、あるいはラデツキー将軍なら、どうしただろうか、と。さあ、諸君。君らがもし、ラデツキー将軍なら。或いはギュライ将軍なら。この局面でピエモンテをどう攻めるか。」

 最前列に居並ぶ青年将校の一人が言った。

「ミラノ駐屯軍全兵力5万をただちにアレッサンドリアに投入し、フランス本隊を叩きます。」

「なるほど。確かにそれが一番良い策だ。しかし、それはギュライが、フランス軍が実はまだ五千人しかピエモンテに着いてない、という情報をキャッチしていれば、の話だ。もしフランスがピエモンテ内の鉄道を駆使して兵を動員する、というところまで知っていたら、まず鉄道網を修復不能なまでに破壊するだろう。そして、断固としてアレッサンドリアへ進軍し、蟻の子も這い出ぬように包囲したら、ナポレオン三世は孤立無援、捕虜になるしかない。そしたら、たんまりと身代金を払ってパリへお帰り願うさ。しかし、帰ったところでもうパリにボナパルト君の居場所はなかろうね。

 ところが、ギュライには、フランス軍が5万人いるか10万人いるかも今の時点ではわからない。どういう仕掛けかしらぬが、フランス大陸軍(グラン・ダルメ)が突如、ミラノから指呼の間、ピエモンテはアレッサンドリアに出現したってわけだ。敵ながら見事な演出。初代ナポレオンの謳い文句「戦争の芸術」って言葉がギュライ頭によぎったろうね。ではどうするかね、中佐(ルーテナント)殿。」

 ピエモンテの中佐ということは、おそらくは貴族の子弟。中佐といえど、彼の若さで、千人しかいない国軍の中ではエリート中のエリートだろう。

 「ええっと。慎重に敵情を偵察し、ラデツキー将軍のように、弱いところを先に攻め、時間差で個別に撃破すると思います。」

 「その通り。10年前、ラデツキーは強かった。何故か。我々イタリア人民がばらばらだったからだ。バルカンでもポーランドでもティロルでも、ハンガリーでも、そしてイタリアでも、オーストリア帝国は、一箇所に味方兵力を集中し、敵には集まる時間を与えず、個別に攻略していく。

 つまり、ギュライ君がお馬鹿さんでなければ、ピエモンテ軍とフランス軍が集まる前に、一番弱い、千人しかいないピエモンテ軍を五万の兵で叩こうとするだろう。フランスのナポレオン親征軍はほっといて。しかし、それもどこにピエモンテがいてどこにフランスがいるか知っていればの話だ。戦場では悠長に偵察なんかしてるひまはない。実際戦ってみなければ敵情というものはわからぬものさ。だから、ギュライは我々連合軍の力量や構成を試すべく、初手は比較的少数の兵を繰り出し、弱いとみれば増援する。手強そうだと思えばミラノに籠城して、オーストリア本国の首都ヴィーンと、ハンガリーの首都ブダペストに駐屯する精鋭部隊がミラノ救援に到着するまで、一ヶ月ばかり持ちこたえようという戦略に切り替えるだろう。

 ギュライは、ナポレオン戦争時代に確立した、教科書的な戦い方しかできぬはずだ。一方我々は、クリミアで実証された最新の科学戦争をしかける。我々は10年前の我々ではない。ラデツキーの勝利しか知らぬオーストリアがどうでるか。みものだ。」

 チャルディーニが言った通りにギュライはモデナ・トスカーナ方面へ割いていた兵を呼び戻し、戦力をピエモンテ戦線に集中しつつ、兵を小出しにして我が方の当たりを探ってきた。アレッサンドリア東の村モンテベッロで戦闘が発生すると、オーストリア兵はフランス兵に榴弾の矢玉を雨あられと浴せられ、撃退された。あっぱれ皇帝直属の精鋭部隊。一応やる気満々。

 アレッサンドリアからフランス軍が、カザーレからは俺たちピエモンテ・スイス軍がそれぞれ打って出て、セージア川を渡り、ノヴァーラをめざす。10年前のノヴァーラの大敗こそは、ピエモンテの悪夢であった。王ヴィットーリオ・エマヌエーレが、トリノの王宮から、自ら近衛兵を連れて、我らチャルディーニ軍が露営するセージア河畔のパレストロ村までやってきた。国家の、サヴォイア家の存亡がかかっているのだ。王も気が気じゃあない。

 ギュライは、パレストロにいる我が部隊にも兵を差し向けた。とうとう敵にピエモンテ軍の本隊が捕捉されたわけだ。小生意気なピエモンテ兵め。とりあえずサヴォイア公以下ピエモンテ軍を血祭りに挙げれば、フランスはただの助っ人。後はどうとでも料理できよう。

 ところがまさにこのとき、アルプスのモン・スニ峠を越えてきたフランス軍本隊が、セージア川対岸に姿を現した。ぎりぎりのタイミング。ギュライ軍は動揺し、すごすごと撤退した。モンテベッロの戦いから10日後、ナポレオン3世到着から15日後、チャルディーニは宿縁の地ノヴァーラを回復する。彼の軍歴はここノヴァーラの敗戦から始まったのだ。しかし感傷に浸っているひまはない。いざ、ミラノへ。

 ギュライはティチーノ川を渡ってミラノ領内に後退。川に架かる橋を全て爆破させる。

 ティチーノ川は大河で、徒歩では渡河できない。ミラノは11の城門と9つの突角堡をもつ巨大な城塞都市。大河ティチーノ川を防衛線にし、その周辺の水郷の村落を要塞化して待ち構えれば、普通に考えて陥落するような街ではない。

 我々は壊れかけた橋を修繕し、また船を並べて浮き橋にしてミラノ領内へ侵攻する。

 ミラノ近郊で起きたマジェンタの戦いは、榴弾の戦い、でもあった。中世、黒色火薬の原料の一つ硝石は、厩肥から作られていた。要するに馬や牛の糞尿、藁、堆肥などから作られていたから、大量生産はできない。ところがスエズ運河が通ってからというもの、インドの鉱山から採れる硝石が安く大量に供給されるようになった。ジェノヴァには火薬工場や兵器廠が作られ、武器弾薬を鉄道で最前線のアレッサンドリアやノヴァーラに運ぶ。それまでの戦争を「馬糞戦争」と呼ぶならば、以後の戦争は「化学戦争」と言える。オーストリアはモンテベッロやマジェンタで、それまでの何十倍、何百倍もの榴弾を喰らった。数千人が榴弾の爆撃で死んだらしいよ。味方の被害も多かったんだが、この千人万人単位の傷病兵の救護ってのは、それまでの戦争の常識では、ありえなかったものだ。恐ろしいね、近代戦争というものは。

 いずれにせよ、勝利は勝利である。我々はマジェンタの勝利の余勢を駆ってミラノに入城する。俺たち連合軍は結局やっとミラノで全軍が集結したのだった。

 俺は、カザーレやアレッサンドリアの星形要塞の巨大さにも度肝を抜かれたが、このミラノのばかでかさと言ったら、もう比べものにもならない。

 1848年の革命以来、ミラノは再びイタリア人のものとなった。パリ市民は夜通し煌々と灯りを灯して浮かれ騒ぎ、共和国広場から北駅までに完成した新しい通りは「マジェンタ通り」と名付けられ、また発明されたばかりの化学染料にも「マジェンタ」の名が付けられた。

 一方、ミラノを追われた敗軍の将ギュライは更迭、ヴィーンに召還され、華やかな宮廷生活から一転、惨めな老後を送ることになる。オーストリアは代わりに皇帝フランツ・ヨーゼフ一世みずからロンバルディアに入った。

 緒戦における心理戦は、ナポレオン3世の大勝利だった。彼の叔父ナポレオン1世ボナパルトも実に無茶なやつだった。常識外れの戦い方をしてなぜか勝ってしまう。ギュライやオーストリア兵がそんな初代ナポレオンの亡霊を彼の甥に見て恐慌状態に陥ったのは、ある意味仕方ないかもしれん。また、ナポレオン3世が叔父にならって無茶な戦い方をしたのも、やはりある意味必然だった。嫌でも彼の叔父の代役を演じるしかなかったのだろう、彼自身に特別な才能はなかったのだから、強引で無茶な叔父のイメージを利用せざるを得ない。

 鉄道を兵站に利用することは、ほんの5年前、クリミア戦争で初めて試みられた。ロシアのセバストポリ軍港の背後に位置するバラクラヴァ湾を奪取したイギリス他の連合軍は、セバストポリとバラクラヴァの間にある丘の上まで、約7週間で11kmの複線の鉄道を敷設し、バラクラヴァから兵士や物資を運んだのである。これによってセバストポリ要塞はたまらず陥落した。ピエモンテとフランスはイギリスの側で派兵したのだが、このときクリミア半島で補給に使われた鉄道を見て、今回のアイディアを思いついたのかもしれない。

 アメリカのリンカーン大統領は、これらの近代戦を研究し、鉄道や電信などの最新技術を駆使して、軍隊を戦略拠点に迅速に移動させることが、決定的に重要な意味を持つことを見出し、アメリカ全土に鉄道網や電信網を張り巡らして、北軍を勝利に導いたのである。プロイセンのビスマルクも、普墺戦争や普仏戦争でその戦略を踏襲した。


※3 この峠はおそらく古代ローマ時代にハンニバルがアルプス越えしたルートである。或いは、越えた可能性のある峠の中でも、最もありえそうな峠の一つである。

1868年には、この峠を越えて、フランス側のモーリエンヌと、イタリア側のスーザまで、モン・スニ峠鉄道が開通する。このころには統一イタリアによってスーザから南イタリアのブリンディシまで鉄道が通っており、またフランス国内もカレーからモーリエンヌまで鉄道が通っていた。インドを獲得しスエズ運河を開通させたイギリスは、モン・スニ峠に鉄道を敷設する会社を設立する。1871年にはアルプス初のフレジュス鉄道トンネルが開通することによってモン・スニ鉄道は廃止される。

デーテ 4. 叔父の戦陣訓

 身を持ち崩してから、父さんは生活もままならないから、ご先祖様が傭兵で立身出世したということもあると思うけど、もう一度家をもり立てようと、兼ねてから計画していた通りに、今度は自分から州兵に志願して、ピエモンテの外人部隊に加わった。父さんは夜寝る時に、僕に戦陣訓を語って聞かせたものだった。

 

***

 

 おまえもいずれ、我がスイスの一兵士として戦場に立つこともあろうから、今から覚悟して、良く聞いておけ。

 決して他人事ではないのだ。

 我がスイスは小国、欧州の真ん中に位置する小さな自治州の寄り合い所帯、常に大国間のパワーポリティクスの犠牲になってきた。しょせんアルプスの天険も我々を守ってはくれぬ。戦乱を避けることはおろか、独立を保つことすら、常にあやうい。スイスはもともと自治州が同盟を結んで神聖ローマ帝国、つまりハプスブルク家から独立して出来た国だ。ヴィルヘルム・テルの話はおまえも知っているだろう。自分の息子の頭に乗せたリンゴを射ることができたら罪を許そうと、オーストリア人の代官に命令されて見事一発で射抜いた。テルは、スイス独立初期の伝説的英雄なのだ(※1)。

 独立によって神聖ローマ皇帝の命令でスイス兵が戦争に駆り出されることはなくなったけれども、他の大国、特にフランスから傭兵を貸してくれと言われれば、断り切れないいろいろな事情があるのだ。またスイスは貧乏な山国だったから、獣らといっしょに原野に育ち、忍耐強く頑健な男共は、外貨獲得のために傭兵になることが多かった。

 我がスイスは、ヨーロッパのいろんな戦争に巻き込まれて、特にフランスとオーストリアという大国の板挟みにあって、スイス兵は立場の弱い傭兵なものだから、いつも最前線の危険な軍務に従事させられる。

 ルイ14世の頃に欧州全土を巻き込んだ一連の戦争(※2)では、一度に4万人以上のスイス傭兵が敵味方に分かれて戦った。フランス革命の時、テュイルリー宮殿を護衛していて、ルイ16世に見捨てられて民衆に虐殺されたのも、スイスの傭兵だった。ナポレオンがモスクワ遠征から逃げ帰るときに、殿軍(しんがり)を任されてほとんど全滅しかけたのも、スイス兵だった。

 そうやって国際政治にブンブン振り回されて、スイス傭兵があっちこっちに引っ張り出されては悲劇的な戦死を遂げたものだから、初代のナポレオン・ボナパルトが失脚したときに、ヴィーン会議で我がスイスは永世中立国となったのだがな。しかし、ヴィーン体制もまたわがスイスをうまく利用しようとしただけだった。そういう長年の血なまぐさい歴史の結果、今やスイスでは国外への傭兵派遣をほとんど完全に廃止しようとしている。少なくとも州単位での傭兵派遣はもはや禁じられた。

 俺が従軍した戦いは主に4つ。最初の2つはオーストリア軍との戦いで、1つはマジェンタの戦い、もう1つは最大の激戦だったソルフェリーノの戦いだ。3つめは教皇軍とのカステルフィダルドの戦い、最後は両シチリア王国の残党たちの掃討戦だ。1859年早々、俺たちが所属していたスイス連邦部隊は、まだアルプス連峰が氷に閉ざされている頃合いに、ピエモンテでフランス軍に合流しそのまま戦闘に加わり、延々1861年の3月末まで、いわゆるイタリア統一戦争と呼ばれる戦争の全期間に渡って俺は従軍したわけだ。

 俺はまずグラウビュンデン州で志願して、予備役として登録された。州都クールの庁舎の役人の言うことには、「10年前の欧州全土をゆさぶった革命以来、どこの国の政情も極めて不安定だ。イタリア方面ではピエモンテが盛んにオーストリアを挑発し、フランスが介入すれば今度はプロイセンが黙ってはいない。そうなればイギリス、スペイン、ロシアも巻き込まれて、ナポレオン戦争のときのような欧州大戦に発展するかもしれない。いずれにせよ傭兵の出番はこれからいくらでもあるだろう、」と。

 それで日雇い人足の仕事などしながら待機していたが、1週間もしないうちに出頭命令があって、「とうとうオーストリアがピエモンテに宣戦布告して交戦状態に入った。フランスは自動的にピエモンテの側に立ってオーストリアに宣戦布告する。ついては、報酬は望み通りにはずむので、ピエモンテに速やかに大軍を投入してもらいたい、スイス連邦軍の精鋭をできるだけたくさん、ピエモンテ州のアレッサンドリアに派遣するように、」そう要請されたそうだ。そこで俺はまずピエモンテ軍所属の傭兵として、イタリアに行くことになった。

 グラウビュンデンから南へ、残雪を踏みしめてサン・ベルナルディーノ峠を越え、マッジョーレ湖の上流、ティチーノ州に入る。そのまま下ると敵国オーストリアが支配するミラノだ。アレッサンドリアに行くにはミラノを迂回しなくてはならないが、すでにミラノからオーストリア軍がティチーノ川を越えてピエモンテ領内に侵入していた。いきなり戦闘の最前線を通り抜ける形になった。


※1 スイス独立は1291年。当時、神聖ローマ帝国は、大空位時代 (1254 ― 1273) の直後で、この権力の空白期間に、スイス出身のハプスブルク家が神聖ローマ帝国全土に影響力を及ぼすようになり、次第にハプスブルク家のオーストリア大公が神聖ローマ皇帝を世襲するようになる。同郷ハプスブルク家の支配を嫌ったスイスのいくつかの州が自治権を守るために連盟したのがスイスの始まり。ヴィルヘルム・テルがオーストリアの代官を射殺したのは1307年と言われる。

※2 ルイ14世(在位1643―1715)の時代には、ネーデルラント(1667―1668)、プファルツ選帝候領(1688―1697)、そしてスペイン(1701―1714)の継承戦争が起きた。ネーデルラント継承戦争は、スペイン王女マリー・ルイーズがルイ14世の王妃となるときに持参金を支払わなかったために、マリー・ルイーズの王位継承権は放棄されていない、つまりフランス王妃が南ネーデルラント(ベルギー)女王に即位できるはずだ、というルイ14世の主張で起きた。すでにスペインから独立し共和国となっていた北ネーデルラント(オランダ)はフランスの領土拡張を脅威とし、イギリス、スウェーデンと同盟してフランスを南ネーデルラントから退けたが、その報復にルイ14世は逆にイギリスとスウェーデンを味方につけてネーデルラント侵略戦争 (1672―1678) を起こす。ネーデルラント共和国はオーストリアとスペインに援助を求めて対抗した。プファルツ選帝候領継承戦争は、ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世の妃エリザベート・シャルロットがプファルツ選帝侯カール2世の娘であったため継承権を主張した。スペイン継承戦争はスペイン・ハプスブルク家が断絶し、ルイ14世の孫アンジュー公フィリップがマリー・ルイーズの長男の次男であったために、スペイン王を相続してフェリペ五世となったが、これに反対したオランダ、オーストリアが宣戦したというもの。なおスペイン・ブルボン家は現在までスペイン王家として存続している。

デーテ 3. 叔父の放蕩

 アルムおじさんはもともとずいぶん身勝手で気むずかしく、近所づきあいも苦手だし、滅多に教会に礼拝にも来なかった。トビアスが死んでからというもの、

 「放蕩暮らしの罪でとうとう神がおじさんを罰した。」

と村中の顰蹙(ひんしゅく)を買い、牧師さんにも

 「悔い改めて正しい生活をしなさい。日曜日にはきちんと教会に来なさい。」

と説教されたのだけど、逆に腹を立て意固地になって、山の上の炭焼き小屋みたいなところに引きこもったっきりになってしまった。村には滅多に下りてこないし、それでみんなおじさんのことをアルムおじさんって呼ぶようになったのよ。下りてきても、太い丸木の杖をついて、まゆげは眉間で1本につながってもじゃもじゃで、鬼のような形相で子供たちは怖がるし。挨拶もせずに山羊のチーズや手作りの家具を売って代わりにパンや服を買って帰っていくだけ。

 おじさんは、年も年だし、息子たちと村で静かに余生をおくるつもりだったのに、そのたった1人の息子も死んでしまって、俗世のことが何もかも嫌になってしまったのかもね。

 アルムおじさんときたら聖書に出てくる放蕩息子そのまんまでね。

 まだトビアスが生きていた頃、彼はよく言っていたわ。

 

**

 

 僕の父さんの故郷のドムレシュクは、グラウビュンデンの中でも1番の山奥だ。標高も高いからマイエンフェルトなんかよりずっと気温も低く、春が来るのも余計に遅い。秋はなくていきなり北風が吹いて雪が積もり冬が来る。

 ドムレシュクはライン川の一支流が流れ出る狭い渓谷にある。その渓谷を南にさかのぼればサン・ベルナルディーノ峠。そこから先はスイスでもイタリア語を話すティチーノ州があり、さらにアルプスを南に降りていけばロンバルディアの沃野。ミラノの町へと続いている。逆にライン川を北へとくだっていけば、グラウビュンデンの州都クールを経て、マイエンフェルトまでたどり着くってわけだ。まあしかし、よそからみればドムレシュクだろうとマイエンフェルトだろうととんでもない山村に違いない。僕は子供の頃はずっとアルプスを知らずに育った。ドムレシュクには、イタリアから帰ってきてわずかの間滞在しただけだ。

 ドムレシュクはほとんどがアルムだ。農地らしき土地は、川沿いにちょっとしかないがね、しかし、うちはもともとドムレシュクでは一番大きな農場を持つ家だったのさ。昔、ご先祖様が、ナポレオン戦争の頃に、たいへんな武勲を立ててね。君、知ってるかい、フランス革命政府はヨーロッパの伝統的な秩序を破壊するものだったから、イギリス、ロシア、プロイセン、スペインなどの大国がフランスに干渉してきた。オーストリアもそういう当時の欧州列強の一つ。何しろルイ16世の后のマリー・アントワネットはオーストリア大公の娘だもんな。そういうフランス王族を革命政府はばんばんギロチン台に送ったんだ。そこでオーストリアはフランス革命政府に宣戦布告したわけさ。

 革命政府はフランスに侵攻してくるオーストリア軍を迎え撃つために、砲兵士官の経験しかない若干27歳のナポレオンをイタリア方面軍の司令官に抜擢した。

 イタリア方面軍は、フランス国境のピエモンテがミラノのオーストリア軍と同盟して、フランスに侵攻しようとしたために、フランス防衛とオーストリアの陽動のために割かれたもので、オーストリア征伐軍の主力はライン川を越え、バイエルン王国をよぎってヴィーンを直接目指していた。イタリア方面軍は長年ジェノヴァの山中に立てこもったきりで、フランス一の貧乏部隊と言われた。ナポレオンには大して戦果は期待されていなかったが、彼はたちまちにしてサルディーニャやピエモンテを治めるサヴォイア公を友軍に寝返らせ、ロンバルディアの要衝・マントヴァ要塞を陥落させてオーストリア領だったミラノに入城する。さらにティロルを越えてオーストリア討伐軍と合流してヴィーンへ迫る。当時の欧州戦史では予想だにされないほどの大勝利で、フランス革命はナポレオン率いるイタリア方面軍の働きによって最終的に成就したと言っても良い。オーストリアは屈服し、ロンバルディアはチザルピーナ共和国というフランスの衛星国となった。その代わり千年もの間自治独立を謳歌した「もっとも高貴なる共和国ヴェネツィア」は、戦乱の巻き添えを食って滅び、ナポレオン没落後にも復活せず、オーストリアに併合されてしまった。

 我がスイスは、フランス革命政府に占領され、フランスを宗主国とするヘルヴェティア共和国という中央集権国家にさせられて、領土も一部フランスに割譲されてしまった。うちのご先祖様はそのヘルヴェティア共和国軍の一兵卒からフランス軍の傭兵隊長になってね。エジプト遠征に従軍したり、大統領となったナポレオン軍のアルプス越えにも参加したりしたんだ。アルプスの行軍中は道先案内役も務めてね。そのとき、ご褒美の財宝だのたくさんもらって、故郷のドムレシュクに凱旋。広い農園を手に入れてね。大きなお屋敷を建てて、たくさん使用人も雇って、家畜もたくさん飼って。

 父さんはそんな家の跡取り息子だったらしい。でも、何不自由なく育って、急に大きな財産を相続したものだから、お金の使い道もよく分からない。何しろ小さな村の大地主だからね。井の中の蛙、怖い者知らずだったのさ。

 時代は変わって、ナポレオンが失脚するとヨーロッパ全体がアンシャン・レジームに復し、スイスもまた独立州の連盟体に戻った。父さんは、グラウビュンデン州の成年男子の義務として、やはり軍役に取られていたのだけど、それが明けて故郷に帰還してくると、今、世の中は産業革命で、どんどん変わっているんだ、こんな山奥の田舎の村でくすぶっちゃいられないと、実家の資産を元手になにやら大きな商売を始めようとした。あちこち、視察と称して物見遊山して回ったり。軍隊で知り合った、どこの馬の骨ともしれない連中とつきあったりして、ほとんど博打に近い事業に投資して、ものの見事に大失敗だよ。金儲けや世渡りの才能も、人を見る目もまるでなかったようだ。それでほとんど財産をすってしまう。

 おかしな借金取りみたいな連中に追い回され、借金が返せなくて家屋敷や農園をみんな取られて、ふてくされて博打や遊興にうつつを抜かし、ますますおちぶれていった。あれはきっと、金持ちの世間知らずのボンボンだからと悪いやつに目をつけられて、うまい話でつられて金をだまし取られたようなものだなあ。で、だまし取られたものは今度はだまして取り返してやろうなんて、いやしい性根になってしまい、人相もだんだんに変わっていって、やくざものみたいになってね。毎日、居酒屋に入り浸っては、亭主に安酒を値切って飲んだりして、そんな若い頃の父さんの話をドムレシュクのひとたちから聞かされるたび、僕は恥ずかしいやらはがゆいやらでたまらない。

 父さんの両親、つまり僕の祖父母は愛想をつかして次々に他界してしまった。父さんには弟が1人いて、親に大学まで行かせてもらった、勉強好きの学士様だったそうだけど、父さんは彼、つまり僕の叔父を口説いたそうだ、いっしょに傭兵になって、ご先祖様のように戦功を樹てて、もう一度大金持ちになって、失った農園も買い戻して、またおもしろおかしく暮らそうぜって。でも叔父は兵役を嫌がって、金目のものをあらかた持ち出して、どこかにぷいっといなくなってしまった。風の噂ではアメリカに渡ってけっこうな実業家になったとかならないとか。

 父さんは他人にもだまされ、身内にも裏切られて、すっかり落胆してしまった。父さんが人間不信になったのは、きっとそのころからだ。

 不運が重なって、周囲で支えてくれる人にも恵まれなかったんだろうね。どこをどう間違ったのか、汗水流して働かなくても良い身分の、お金持ちの息子だったのに、一家離散の憂き目に遭ってしまった。

デーテ 2. 姉夫婦と遺された姪

 姉のアーデルハイトの夫、つまり私の義理の兄だったトビアスという人は、生まれも育ちも、よく分からないひとなの。

 私がまだ子供の頃、トビアスは、流れ者のアルムおじさんに連れられて、デルフリに住み着いた。

 アルムおじさんというのは、トビアスの実の父で、つまり私の義理の叔父なのだけど、村では皆がそうあだ名で呼ぶの。お察しの通り、アルムに住み着いて、なかなか里には下りて来ないからなのだけど。

 デルフリという村は、アルプスの豪雪を避けるように、山の渓谷のくぼみにへばりついて、ぽつんと取り残されたような、ほんとうに小さな田舎の村なので、村人みんなが親戚のようなものなのよ。デルフリの村人たちはみんな似たり寄ったりの私たちのように貧しい暮らしぶりで、親戚知人どうしお互いに助けあい、なんとかやりくりして、つつましく暮らしていた。母とアルムおじさんはドムレシュクの出身で同郷だし、母のおばあさんがアルムおじさんのおばあさんのいとこだから、たぶん私の母方の縁を頼って、おじさんはデルフリに居着くことにしたんじゃないかしら。私の父方は代々デルフリの家系なのだけど。デルフリではみんながアルムおじさんを、アルムに登ったきりになる前はただ「おじさん」って呼んでいた。

 アルムおじさんにトビアスという子供がいるということは、その母親もいなきゃおかしいわけだけど、おじさんは決して自分のおかみさんの話には触れようとしなかったし、トビアスも自分の母親のことは、あんまり覚えていないようだった。

 デルフリに来た頃から、おじさんは髪の毛も髭も生やし放題の山賊みたいなかっこうで、村の中でも特に偏屈で愛想の無い人だったけど、トビアスは優しくて明るい性格だったから、すぐにデルフリの子供たちの中にとけこんでいった。私たち姉妹や、幼なじみの女の子ブリギッテや、お調子者の男の子のペーター、パン屋の息子なんかは、年も近く気も合ったから、いつもつるんで、野山で楽しく遊び回ったり、長い冬の間は学校で一緒に勉強したりした。

 私たちが村の学校を卒業すると、女はすぐに働き始めて、男は州兵に取られるのだけど、その兵役も、普通は1年、長くて2年で終わるわ。でもそのあと、おじさんは、トビアスをそのまま軍隊に残して、彼を傭兵にしようとしたのよ。姉のアーデルハイトは、とても悲しんでね。トビアスと姉は、ずっと前から恋人どうしで、もう公然とつきあい始めていてね。おじさんに泣いて頼んだのよ。トビアスを兵隊に取られるのだけは、嫌だと。

 それで、フランス革命とナポレオン戦争の後、スイスにも新しい風が吹き始めて、それぞれが独立した自治州政府の連盟体だったスイスが、いよいよ連邦政府を持つことになって、さらにそれまで小国が割拠していた周辺のドイツやイタリアなどの地域が統一戦争で国民国家に変容していくと、「やはり我々も対外的に強力な連邦政府を持たなくてはならない、」という機運が盛り上がってきたのね。それで、一部自治州の独立戦争などの結果、スイス憲法が改正されて中央政府に権限が集中されると同時に、州が独自に傭兵を輸出したり海外派兵するのが禁止されたの。つまり、中世から続いた、伝統あるスイス傭兵の時代がついに終わったということよ。それで、トビアスは兵隊にならずにすんで、代わりにメールスの大工の学校に進学することになった。

 おじさんにはもう昔持ってた元手もほとんど残ってなかった。おじさんは軍隊では工兵だったから、自身も多少大工の心得があったのだけど、せっかくだからと、なんとか学費を捻出して、トビアスを徒弟に行かせて、それから彼は立派に親方の資格を得て、デルフリに戻ってきたの。

 姉とトビアスは、まもなく結婚したわ。2人ともとても幸せそうだった。

 ペーターとブリギッテが結婚してから、3年目くらいのことだったかしら。

 ペーターは木こりで、村の山羊を集めてアルムに連れて行って草を食べさせる仕事もしていたわ。少し村から外れた、アルムへ登る途中の、わずかに風雨を除けられる岩陰に、ペーターの家はある。とてもおんぼろで貧しい家だけど、ブリギッテはけなげに家事を切り盛りしていた。しばらくは2人とも幸せに暮らしていたのだけど、夫のペーターは、息子が一人出来てすぐに、切り倒した木の下敷きになって死んでしまった。今じゃブリギッテは、父親と同じ洗礼名の息子ペーターと、目の見えない姑さんの3人で暮らしている。

 ふむ。ペーターにブリギッテ。それに、姉のアーデルハイトと義兄のトビアスか。彼女は俺に相づちも打たせず勝手に身の上話を続ける。しょうがないので俺は彼女に勝手にしゃべらせて、聞き役に徹することにする。

 それで、姉のアーデルハイトが嫁ぎ先に片付くと、私は母と2人暮らしになった。私もそろそろお嫁に行く年になっていたので、未来の旦那様はいったいどんな人だろう、その人とどんな暮らしをするのだろうと、姉やブリギッテや、知り合いの村の夫婦たちを眺めながら、毎日空想してた。デルフリには特に幼なじみで好きあった男の子などなかったので、母方の親戚の紹介で、母の実家のあるドムレシュクの農家に、嫁ぐことになるんじゃないかなあって、母とは良く話していた。スイスでは、トビアスとアーデルハイトのように、村の中で縁組みが決まることもないわけじゃないけど、1つ1つの村はどれも小さいから、男が先祖代々、自分の村に続く家を継ぎ、女がよその村から嫁いで来るってことが多いのよね。ドムレシュク生まれの私の母もそうだし、つい最近デルフリにプレッティガウからお嫁に来たバルベルもそうだわ。

 もちろん私の家は、相変わらず女だけの所帯で貧しかったけど、私がお嫁に行ってしまえば、母には、死ぬまで暮らせるくらいの父の遺産があった。私が家を出ると、母も一人でデルフリに居るのではなく、故郷のドムレシュクの親戚のうちに厄介になって、余生を送るか、さもなくば、トビアスが引き取って養ってくれることになっていた。

 私の義理の兄となったトビアスは、なにしろメールスの職工学校仕込みの鳶職人で、親方の資格も持っていて、村でも特に頼り甲斐のある男だった。親戚にいてくれてよかった、と私にも思えた。父親と違い社交的で働きもので、村の人たちの評判も良く、大工の仕事も順調で、男手のない我が家にも良く手伝いに来てくれて、これからはやっと我が家の暮らし向きも良くなると思っていた。姉のアーデルハイトは、結婚してまもなくお腹が大きくなりだして、やがて女の子が1人生まれたの。牧師さんはその子に母親と同じアーデルハイトという洗礼名をつけたわ。でもいつも私たちはその子のことをただハイディと呼んでいたのだけど。

 私は、家事手伝いで忙しい合間に、ちっちゃな赤ん坊のハイディの子守を自分から買って出たりして、ハイディを抱いてデルフリ村の周囲を散歩に連れて行ったりした。おかげでずいぶん私の腕の筋肉も鍛えられたのよね。ああ、私もそのうち、トビアスみたいな夫にもらわれて、こんな赤ん坊を産むことになるのかしらって。ハイディをあやしたり、おしめを替えたり、寝かしつけたりしながら。そんな物思いにふけっていたの。

 そうやって、ハイディが生まれて1年程は、何事もなく夫婦と娘1人の幸せな暮らしが続いたのだけど、ある日、トビアスが出向いて働いていた建築現場で梁が落ちてきて、彼はその下敷きになって死んでしまった。突然の出来事だった。

 家に運び込まれたむごたらしい遺体を見て、姉のアーデルハイトは、悲嘆のあまり寝込んでしまい、数週間高熱を出してうなされた後、あっけなく死んでしまった。そうして、出来たばかりのトビアスのお墓の隣に、並んで葬られたのよ。

 私はどちらかと言えば体も大きく丈夫だったけど、姉はきゃしゃで病気がちで、夢遊病の発作をよく起こしていたわ。後には姉が生んだ娘、1才になったばかりのハイディが残されたのよ。アルムおじさんは、たった一人の身内のハイディを抱いて、何を考えているのか、無表情だったけど、「俺にはこんな女の子の面倒はみれない」からと、私の母にハイディの養育を全部押しつけてしまい、1人でアルムに籠もってしまった。息子のトビアスとはなんとか異国の地で、2人きりで生きてきたのに、孫娘はさすがに育てる自信がないと、今から思えば、おじさんは諦めて身を引いたのかもしれない。或いは、トビアスを育ててみて、育児にはもう半ば懲りていたのかもしれない。

 母はさすがにハイディの実の祖母だもので、やむなくハイディをうちの子として育てることにしたの。こうしてまた女ばかり3世代の暮らしが始まったのよ。