アルプスの少女デーテ」カテゴリーアーカイブ

デーテ 15. 姪の出戻り

 ある日いきなり朝早くゼーゼマンさんから呼び出しがあって、これはハイディが何事かしでかしたかと、お叱りがあるのかと思い、あわてて訪ねて行ったら、「ハイディが山が恋しくてホームシックのあまり夢遊病になってしまった」と言われたのよ。ハイディも姉のアーデルハイトと同じ夢遊病の気があったということなのかしら。  最初は、フランクフルトで白パンを買って一日で山に帰るなんて駄々をこねていたけど、案外ハイディもクララと一緒に町の暮らしに慣れて楽しんでいるとばかり思っていたわ。そりゃあ、よそ様のおうちで、ロッテンマイヤー女史に監督されて、厳しくしつけられたりして、多少は窮屈だったかもしれないけど、まさかそんなくよくよと思い悩んで、ほんとうの病気にまでなってしまうなんて。なんて手間のかかる子なのでしょう。  ゼーゼマンさんは、ものすごい剣幕で、「今日すぐにも引き取って山に返して欲しい」というのだけど、あまりに急な話で私はどうしていいのかわからなかったわ。だって私は毎日シュミットさんの事務所でニューギニア植民地に最近開設した出張所と連絡をとりあって、東アジアや太平洋の島々の物産を仕入れるのに忙しくって、一日たりとも職場を離れることはできなかったし。それに、いったんハイディをアルムおじさんに押しつけて、それを無理矢理連れ出しておいて、親戚づきあいもこれきりだからもう二度とくるなと言われて、もののはずみと… 続きを読む »

デーテ 14. 姪をドイツのお金持ちに紹介

 ゼーゼマンさんとこの娘、クララという子が、子供の頃から病弱で、片足が悪く、いつも車いすに乗って暮らしていたの。ゼーゼマンさんの奥さんは、クララを産んですぐに亡くなってしまい、ゼーゼマンさんはいつも仕事でお屋敷には不在がちで、クララはフランクフルト一というくらい大きくて立派なお屋敷で、たった一人で家庭教師に勉強を習っていたけど、一緒に住み込みで遊び相手ともなり、勉強仲間にもなれる友達を、ロッテンマイヤーさんというゼーゼマン家をきりもりしている女性の執事の方が、探していたのね。  ロッテンマイヤー女史は、「かわいらしくて古風な趣のある、」「気高く純粋で、」「地面に触れもしない澄んだ山上の空気のような」「スイスの娘」をご所望だった。それで、スイス出身の私に、ご主人様のシュミットさんを通じて打診があったのよ、親戚や知り合いに、そんな娘の心当たりはあるまいかと。  どうも彼女は、なにやらスイスの娘というものを勘違いしているようね。本物のスイスの娘というものは、山羊や牛や羊たちと一緒に、野山を駆け回る、獣と土と藁の混ざったような匂いのする、黒々と日に焼けた山女のようなものなのにね。でもまあ、私の脳裏にそのとき浮かんだのは、あの山の炭焼き小屋におじいさんと二人きりで置いてきた、姪のハイディのこと。あのあわれな境遇にいるハイディを、もしかしたら救い出すことができるかもしれないってことでした。  … 続きを読む »

デーテ 13. 都会の仕事

 母が亡くなった夏、 フランクフルトから、今お勤めしているシュミットさんのご一家が、はるばる汽車を乗り継いでラガーツに保養に来られたのよ。ご当主のシュミットさんと奥様とご子息。また、シュミットさんの伯母で、ゼーゼマン家に嫁いだゼーゼマン夫人。  あなた、新聞記者だから、シュミットさんやゼーゼマンさんたちの御一家のをことを詳しく知りたいでしょ。私がしゃべったって言わなきゃ教えてあげるわ。  昔、シュミットさんのお父さんやその兄弟たちは、まだこれからという若さで、癌を患ったり結核に侵されたりして亡くなってしまった。残された子供たちはまだ若い。  ゼーゼマン夫人の旦那様もやはり貿易先のニューギニアでマラリアに罹って亡くなってしまった。ゼーゼマン夫人にはたった一人の息子、ゼーゼマンさんがいらっしゃったけど、この子もまだ若い。  それでシュミット家とゼーゼマン家の長となったゼーゼマン夫人は、残された就学中の子供らを養育して、大学を卒業するまで面倒をみて、シュミット家とゼーゼマン家の合弁会社を作り、それを今日の規模まで大きくした。つまり、シュミット・ゼーゼマン・ニューギニア商会はゼーゼマン夫人お一人で作り上げたようなものなの。ほんとうにゼーゼマン夫人は、男まさりの活動家で、商才のある方だと思う。そのかわり、いつもドイツ中、鉄道でせわしなく移動していらっしゃるのだけどね。  実際、今のドイツとい… 続きを読む »

デーテ 12. 姪と二人の暮らし

 話は戻るけど、遺された姉夫婦の子、姪のハイディを母と私が引き取ったのだけど、私はそのときまだ22才だったわ。いろいろ遊びたい盛りだったけど、贅沢なんて言えない状況だったの。姉夫婦が健在だったら、私も今頃はどこかの家に嫁いでいたに違いないわ。縁談の話もいくつかあったのだけど、うちにハイディという小さな子がいて、母は老い先短く、家にはたいした資産もなく、私と結婚するともれなくハイディもついてくる、という状況では、普通の殿方ならどうしても躊躇してしまうわよね。  私の青春は、身内に引き続いた不幸のために台無しになってしまった。特にハイディという幼子のために。老いた母と自分を養うだけでもたいへんなのに、まだお乳を飲み、おしめもとれない子供の世話するのだから、ほんとうに毎日働いて食べていくだけで精一杯だったわ。  そして、ハイディが4才のときとうとう母もいろんな苦労がたたって死んでしまった。  母は、亡くなる間際まで私にハイディをくれぐれも頼むと言い残していた。ハイディの祖父のおじさんは山に引き籠もったきりになってしまい、みんなからは「アルムおじさん」と呼ばれるようになった。つまり、人里離れた山の牧草地に住んでる変人のおじさんという意味ね。もともと、ナポリ帰りの元傭兵で、凶状持ちだっていう噂だし、山に篭ってからは、村人たちはおじさんを完全に野蛮人か修験者扱い、私とハイディはその唯一の身寄り… 続きを読む »

デーテ 11. 叔父の帰郷

 ドムレシュクの人たちは、父さんが、ナポリではガリバルディの赤シャツ隊の切り込み隊長だったとか、シチリアでは悪虐非道の限りを尽くしたとか、私的な喧嘩で人を殴り殺したりとか、そのために軍隊を脱走したりとか、さんざん噂したのだけど、話には尾ひれがつくもので、実際には、そんなむちゃくちゃな行状はなかったのじゃないかなあ。何しろ父さんは工兵だったから、もっぱら後方支援に当たっていたのだと思うし。  僕の生まれた年は、イタリア統一がなって3年後くらいだから、父さんが軍役を解かれて、まだナポリに滞在していた頃に僕は生まれたはずだ。でも、僕にはナポリの記憶がない。  ナポリで経営がうまくいかなくなってから、僕たち親子は、イタリアのいろんなところをさまよった。父さんは、傭兵時代に知り合った、ピエモンテやロンバルディアの仲間たちをあちこち頼ったらしい。広い畑の中の町だったり、海のそばだったりした。でもいつも、僕がその土地に慣れるより前に引っ越してしまう。最後に大きな町、ミラノだと思うんだが、そこに着いたとき、「母さんはどうしてもスイスには帰りたくないという。だから母さんを残して二人でスイスに帰ろう、」などと父さんは言い出した。僕は、母さんと別れたくないと泣いて頼んだ。「母さん、父さんと一緒にスイスに行こうよ」僕は母さんにお願いした。そしたら母さんは「私と一緒にナポリに帰りましょう、トビアス。父さんは… 続きを読む »

デーテ 10. ガエータの戦い

 シチリア独立派たちは、王を擁立して、あくまでも北イタリア政府に抵抗するかまえを崩さない。彼らはシチリアやナポリの山岳地帯に竄匿(ざんとく)した。王フランチェスコと王妃マリア・ゾフィーが、ナポリを脱出して、ローマの南に位置するティレニア海に面した港町ガエータへ海路入ったと知ると、多くの戦士たちがガエータ要塞に集結した。  王妃マリアの姉エリーザベトはフランツ・ヨーゼフの妻、つまりオーストリア皇后だった(エリーザベトとマリアは、いずれもバイエルン王家の傍系であるバイエルン公マクシミリアン・ヨーゼフと、バイエルン王女ルドヴィカの間の子)。マリアはしきりにオーストリアに救援を請うたが、フランツ・ヨーゼフは北イタリアの敗北に懲りて、動こうとはしない。マリアは要塞の中でみずから傷病兵を看護し、食料を分け与えて、ブルボン家を護る「戦う王妃」としてけなげに献身した。  ガエータ要塞は海に突き出した地峡の先の岩山に作られた頑丈な砦で、当時欧州随一の難攻不落の城塞として名高かった。ティレニア海に洗われそそり立つ断崖に取り囲まれており、ピエモンテ艦隊の海からの砲撃では、ほとんど損傷を与えられない。チャルディーニ・ガリバルディ連合軍によって地峡側から激しい爆撃が加えられたが、四ヶ月間落とすことができなかった。爆裂弾の砲撃によって火薬庫が爆発するなどして、多くの死傷者が出た。何度も休戦や講和交渉が行われた… 続きを読む »

デーテ 9. 両シチリア王国

 スペインのハプスブルク家は後嗣が無く途絶し、継承戦争によってフランスのブルボン家がスペインの君主となった。これがスペイン・ブルボン家。シチリア王国とナポリ王国もスペイン・ハプスブルク家の所領であったが、どうようにスペイン・ブルボン家の分家に領主が代わる。  ピエモンテを含む欧州の多くの国は、憲法を持つ議会制民主主義の国家に移行しつつあった。大衆万能の時代が到来しつつあった。フランス革命によって生み出された人民軍の強さがそれを実証した。君主は主権者たる国民の上に君臨する存在としてのみ、存在を許されるようになってきた。  ブルボン家の分家のまた分家、若きシチリア王フランチェスコは、バイエルン公の娘マリア・ゾフィーと結婚し、その直後に父フェルディナンドが崩御したために王位を継いで、まだ1年も経っていなかった。若干23歳。王妃マリアは5歳年下で、まだ18歳。  フランチェスコは英邁な君主であった。彼にも自分の置かれた立場が、自分の国の命運が、見えていた。ブルボン家の本家がフランス革命で断絶したさまも、まざまざと目にしていた。しかし、歴史の渦中にいるものは皆、過去にあったことはよく見えても、未来はぼんやりとぼやけて見えないものである。その半透明のスクリーンに自分に都合の良い幻影を投映したがるものである。  彼はまだ若く、治世の実績もなく、国難に対処するのは最初から不可能だった。正直な話、も… 続きを読む »

デーテ 8. ヴィッラフランカの和約

 ナポレオン3世は、近代戦争の惨禍を目の当たりにして、つくづく戦争が嫌になった。うんざりした。自ら臨んだ外征における赫々たる戦捷。しかし勝利の美酒に酔うには、支払った代償はあまりにも大きかった。  彼は、皇帝に即位したとき、フランス国民に向けて、或いは欧州列国に向けて演説した、「帝政とは平和を意味する」と。叔父のナポレオンのような大戦争を始めるのではないか、イギリスやロシアや世界を巻き込んだドンパチを始めるのではないか、と。そんなフランス人民や諸外国の懸念を払拭することに務めたのである。彼はその時の気持ちに返っていた。「フランスが満足しているとき、世界は平和で平穏でいることができる。(※7)」ともあれ、自分が原因で欧州に戦乱の嵐をまき起こすことはもう金輪際やめよう、という気持ちになった。  すでに彼の頭の中は、フランスの首都パリを、世界のどの国にも負けない、薔薇の花あふれる庭園と、静かで清らかな森、そしてきらびやかな宮殿と整然とした市街を備えた、芸術作品のような都市に作り替えようという夢想で占められていた。彼自身放浪時代に庭師の免許を取得していたくらいだ。彼の叔父とはずいぶん毛並みが違っていたわけだ。  おお、花の都パリ。美女と美食の街。自分にはそんな文化事業こそ似つかわしい。戎服を着て天幕に野営するなんて、ああ、なんたる野蛮。がらにもないことはするもんじゃあないと。   パリで摂… 続きを読む »

デーテ 7. ソルフェリーノの戦い

 ピエモンテ・フランス連合軍にとって、ミラノ奪取までは筋書き通りだった。プロンビエールの密約が漏れたことは、戦況の成り行きに大きな影響はなく、若干シナリオを書き換えるだけでよかった。フランスは中立をよそおい、開戦時にピエモンテ領内にいないことにしたのである。  セージア川の意図的洪水、鉄道の輸送力を駆使した電撃戦、モデナ・トスカーナ方面での陽動策戦、そして何より、フランス・ピエモンテ側の戦意の高さに対して、オーストリア側のへっぴり腰。  イギリス、プロイセンについで産業革命が興り、民主化が進行し、近代工業力を発揮しつつあるピエモンテと、未だ後進のオーストリアでは、国民の、国家の動員力にも差が出てくる。はっきりと目には見えぬが、歴然たる彼我の形勢の違いを、カヴールは肌で感じていた。おっちょこちょいのナポレオン三世をおだてれば、確実にミラノまでは取れる、という周到な準備、絶対の勝算があって、ピエモンテはオーストリアを挑発したのだった。  逆にオーストリアは戦力の逐次投入となってじりじりロンバルディア中原まで後退するだろう。しかし、ポー川下流域におけるオーストリアの守りは堅く、首都ヴィーンからは近く、逆にフランスやピエモンテからは遠い。おそらくここで戦線は膠着状態となって、ピエモンテとフランス、オーストリアの三者間で調整がおこなわれて、休戦協定が結ばれるだろう。その結果、ピエモンテは北イ… 続きを読む »

デーテ 6. イタリア統一戦争

 そもそもなぜイタリアで戦争が起きたかを説明しておこうか。  近世、北イタリアの大半はオーストリアの支配下にあった。ミラノはスペイン継承戦争の頃からオーストリア領。そのまた東のロンバルディアやヴェネツィアもヴィーン会議によってオーストリア・ハンガリー帝国の一部に編入された。オーストリアはナポレオン戦争における最大の勝者だった。オーストリアが主宰国となり、踊っても進まぬ、と揶揄されたヴィーン会議は、ナポレオンのエルバ島脱出で一旦妥結され、ナポレオンが完全に失脚した後にヴィーン体制として確立する。  トスカーナやモデナも元はといえばハプスブルク家の所領ではなかったのだが、欧州の王侯貴族はみな親戚で、カール大帝のフランク王国の時代から、いや、古代ゲルマンの部族制の頃から、王や公や伯らの継承権というのは土地の相続権なのであって、相続権さえあれば複数の領地や国を統治してもよい。つまり一般人が地主になるのと王が国を継承するのは同じ理屈なのだ。特にハプスブルク家は「戦争は他家に任せよ。幸せなオーストリアよ、汝は結婚せよ!軍神マルスが他家に土地を与え、しかるのちに女神ヴィーナスがそれを汝に手渡すだろう」などと言われるように、戦争よりも政略結婚が大好きで、しかも他家に所領をとられないように、いとこどうしの近親結婚が盛んだった。そうこうしているうちにヨーロッパの小さな共和国や辺境伯国などがいつのまにや… 続きを読む »