自由業をうらやむ

私の知り合いに、日本のCGの黎明期に仕事をしてそれから電飾職人になった人がいる。
CGはすでにいろんな人がよってたかって仕事してるから、日本に一人しかいない電飾職人になったほうが食えると。
今からPICマイコンとか覚えた方がましだと。

またある知り合いは、ほんとうのお金持ちを顧客にして建築業と不動産業を両方兼ねたマネージメントの仕事をしているという。
つまり、ほんとうのお金持ちは土地をもったりして運用しなきゃいけない。
自分の土地に家族の家を建てることもあればマンションを建てることもある。
そんなとき不動産屋と建築会社の両方に話を通すのは面倒だから、両方いっぺんにやってくれるエージェントがいればありがたいということ。

また、私は知らない世界だが、弁護士と税理士と司法書士と私立探偵を一度にマネージメントしてくれる営業の人なんかがいれば、
たぶんお金持ちな人には便利だろう。

そんなふうにして、会社のサラリーマンになればこれからは拘束され搾取されるだけで、
まあこれまでは給料そこそこもらえてたからそれでもいいやとなったかもしれんが、
これからは正社員になったからといってどれほどもらえるかもしれんし、
まして契約社員なんかだともうフリーランスになったほうがましかもしれん。

そうやって会社としてプールする金とか無能な社員を飼っておくために本来は自分がもらえるはずだった給料が天引きされると考えると、
これからの時代はやはりフリーランスでいける人はいったほうがよい、
少なくともその機会は常にうかがっていたほうがよいと思う。
なんか独立できるうまい話はないかと(うまい話もないのに独立するはダメ。今のポッと出のキンドル作家とか(笑))。

ていうかフリーランスでうまくやっている人がうらやましい。
自由業というのは昔の「社会主義」社会ではカタギな仕事じゃないとか見られていたかもしれんが、
今の「新自由主義」社会では誰にも迷惑かけず自分で食っていくまともな人、といえないか。

新古今集

11月に入ってまだ一冊も売れてない。
私はまあ、本の印税というものは、カラオケの印税みたいなもんで(?)、
いっぺん登録しておけばじわじわ年金みたいにお金が儲かるもんだと思っていたのだが、
そういう人もいるのかもしれんが、私の場合全然ダメで、
そりゃそうだ、まだ売り出して半年のペーペーなのだから(昔新人賞に応募したりパブーで公開していたストックはあった)。

それでだいたい分かったことは、新作を常に投入しなきゃならないということだ。
一年に二冊では少ないくらいで、
もっとハイペースで出していく。
そのたびに無料キャンペーンかなんかやる。
そうすると目立つ。
旧作もついでにうれる。
ファンも徐々に獲得できる。
そうして10年くらいがんばってみないと結果はでない。
それが営業というものだろう。

最近は新作を出すと驚いたことに最初の5冊くらいはすぐに売れる。
ありがたいことにすでに何人か私のファンがいるらしい。

3月くらいから10月までkdpで本を出版して1万円とちょっとくらい売れた。
確定申告しなきゃならんな、大した額ではないが。
全部必要経費で落とせる程度ではあるが。
そういうことも学んでいかねばならん。

そんでまあ老い先も短いのだが、
エウメネスが一番売れていて、残り全部合わせてその半分以下くらいだと思う。
では私は古代ギリシャの小説を書くべきなのだろうか。
とりあえずエウメネスの続編か姉妹編を書くべきなのだろうか。
それはまあそれとして、
たぶん私が他人に対して比較優位なのは和歌だと思う。

和歌はやっている人が極めて少ない。
大野晋も丸谷才一も亡くなってしまったし、
あとは、京極派の研究をやっている岩佐美代子という人くらいしか思いつかない。
いや、他にもいるのかもしれないが、
ともかくあまりいない。
私が今本業でやっているようなことはいろんな人が世界中でやっていることであり、比較優位とは言いがたい。

人生が無限にあればやりたいことすべてをやれば良いかもしれんが、
良い仕事をただすれば良いというのではなくて、
優先順位をつけて、
その中で重要度は高い割に競争相手が少ない仕事をすべきだと思う。
エウメネスはまあ2番目くらいに置いておく。

本業の方は一応つきたい仕事に就いたわけでしかしなってみると全然物足りないわけで、
しかも自分くらいのやつはざらにいる。
となると、本業の範囲でできることはもちろんがんばるとして、
それ以外の分野、特に子供の頃から好きだったこと(趣味)で何か仕事をしてみたいと思うわけだ。
しかし、本業をやめて趣味だけで生きていく金もなければ自信も無い。

それで古今和歌集を調べて一冊書いてみて次に新古今集を見てみると、
古今集は非常に危なっかしくてナイーブなのだが、
新古今集はすっかり成熟して安定していて安心して読んでいられるのが心地よい。
古今集は、いろいろ謎解きするのが楽しいのだが、
新古今集は完全に観客席に深々と腰掛けて、後鳥羽院の演出を楽しめばよい。
古今集の場合は、つい自分も舞台に上がっていろいろいじくり回したくなってしまうのだが、
新古今集に関してはそれはほとんどない。
遠くから眺めていてぼそぼそ批評をつぶやくくらいだろう。

古今集はつまらん埋め草や屏風歌も多いし単なるだじゃれ以上でかつ当時の人の内輪受けみたいなのが多い。
ああいうのが新古今にはまったくない。
すべては後鳥羽院によって緻密に構築されている。
丸谷才一が後鳥羽院や新古今が好きなのはそんな絶対安心感のようなものによるのに違いない
(そして多くの人はそこから派生した小倉百人一首を無批判に楽しむのだ)。
彼は、本居宣長や香川景樹や細川幽斎の歌の中から秀歌を拾い出すようなことはしない。
室町時代より後だからだ。
むしろ彼は江戸狂歌の蜀山人を好むのだが、
蜀山人の歌には良いものもあるが全体に粗雑で私には鑑賞に堪えない。

新古今集という名前も非常におもしろい。
それまで既存の和歌集に「新」をつけた例はなかったのではないか。
後鳥羽院の万能感が反映された題名。

というわけで新古今集でもこんどはいじろうかと思っているのだが。

もし和歌の研究者が今の百倍くらいいたら、私がこないだ書いたようなことくらいとっくに指摘されていて、
わざわざ私は本を書くこともないか、
或いはもっと先を調べるのに手間取っただろうと思う。
他にも疑えば疑えることがたくさんあるわけで、今本屋に新書で並んでいるような程度しかまだ研究されてないのなら、
私に書けることはまだまだいくらでもある気がしてくる。

普通の人には古今集のほうが新古今より簡単に見えると思う。
新古今はそうとうにひねってあるからだ。
しかし、慣れてくると古今集は古さ故の難解さがあり、
逆に新古今は出典さえ調べれば割と簡単にわかる、見た目だけの難しさだということがわかる。
逆に先行研究や資料がそろっているぶんつまらないともいえるかもしれない。