マイノリティが毒を吐く

投稿者: | 2013年6月6日

正義感というのは生きる上で何の役にもたたないものであり、
生まれたばかりの幼児にも正義感とか闘争心というものがあり、必ずしも高級な感情ではない。
少なくとも、理性の一種ではなく、動物にもあるものだろう。

試しに子供の母親をいじめる(いじめるふりをするだけでよい)と幼児は怒ってかみつく。
本気でかみつく。
ネコや犬が噛みつくのと何も変わりは無い。
闘争本能とか復讐心というものが教育や社会環境によらず生まれつき身に付いたものである証拠だ。

そこで正義感とか怒りというものをできるだけ抑えて、世の中に無関心無反応になるのが、
自分の精神も汚染しないし、気分良く生きていくコツだと思う。
どうせ世の中というものは変わらないし、自分に変える力もないのだから。

だが、酒を飲むと自制心が弱まって正義感が強まり、つい怒ってしまうことがある。
これが困る。
酒は飲みたいのである。

朝から歩行喫煙者を見ると腹が立つ。
飲食店でも当然のように灰皿がおいてあり煙草を遠慮無く吸うやつがいる。
中には煙草の火を消さずに道に投げ捨てるやつもいる。
犬が吠えてうるさい。
戦闘機がうるさい。
道をよけられないくらい狭い路地で車や自転車に後ろから警笛を鳴らされる。
自転車の運転が乱暴。
ロマンスカーで隣に座ったやつが横柄で越境してくる。
食い物の食い方が汚い、くちゃくちゃうるさい。
歩行者の動線などまったく考慮してない車線設定。
破綻した道路行政。
そういったものに腹を立てなけりゃいいんだが、
こういうものは、(たとえば犬のうるさいのとか車のうるさいのとか)子供のころは平気だったとしても、
次第次第に嫌な経験が蓄積されていくうちにアレルギーのように、
ささいなことでも腹が立つようになる。

一番いいのはまったく新たに作られた、道が広くて車道と歩道が分離していて、
喫煙者がいなくて、犬を屋外で飼うやつがいなくて、戦闘機が飛ばなくて、
住人がともかく礼儀正しい地方自治体というものをなんとか拵えてもらい、
自分もそこの住人になることだろうと思うのだが、まあ実現不可能だ。
田舎にいけばいくほど人間は練れてないから、都心のどこかにひっそり暮らすのが比較的理想に近いかもしれん。

今非実在なんとかとかうるさいんだけど、
昔、1990年に新風営法で、ソープランドとか競馬とかパチンコなんかが事実上野放しになってるのに、
ゲームセンターがなぜか規制対象になったことがあったが、
今回の規制にも似たようなものを感じる。
規制するなとは言わないが、他にもっと先に規制すべきものはいっぱいあるのに、なぜそこを規制するのか。
ゲームセンターが朝まであいてて何が困るのか。
居酒屋だって24時間開いてるところはある。
深夜は未成年者はいれないようにすればいい。
悪徳かどうかを政治が判断しないのが近代社会である。
少なくとも成年したまっとうな納税者がどういう私的生活をしているかに干渉しないのが近代社会である。
いやいやそもそも話は逆で、納税者の契約した社会が近代社会というものであり、
納税者の意思以外に社会を構成する根拠はないのである。

ゲームにパチンコに許されているような換金も許せば良い、パチンコだけ許すのは不公平だ。
ゲームは飛躍的に進化するだろう。
馬鹿がゲームにはまって困窮するかもしれないが、
大の大人がパチンコやギャンブルや宝くじや先物取引やゲームにはまって困るのは自業自得であり、
自分の意思で行動できる一般人を規制するのは間違いである。

もしゲームセンターが規制を受けなければ今ごろビデオゲーム文化はどれくらい発展し、爛熟していたかもしれない。
なぜ規制しなければいけなかったか。
規制しなかったことであり得たかもしれない可能性を、摘んでしまう。
その罪を、百年後千年後の人類にどうやって償うのか。
今までいろんな為政者がそうやって人類に対する罪を犯してきた。
同世代人である私もまたその共犯者なのだろうか。
当然共犯者である。
看過することによって人類に対する罪を犯すのである。
しかし、私はむしろ自分の静かな生活を守りたいし、行動にでたくはない。

人類の脳みそがも少し賢かったら、
アーケードゲーム特区を作りそこではカジノのように金かけてゲームできるようにする、
という実験さえできたのに違いない。
競馬など公営賭博がある。ギャンブル特区を作ろうという話もたびたびでる。
そういうことは絶対やってはならないというわけではない。
しかしいつもつぶされる。

ようは、賭博にしろ風俗にしろ、政治的マジョリティがいるからつぶせないだけであり、
児童ポルノにしてもゲームセンターにしても、その擁護者が政治的にマイノリティだから規制を受けるのであり、
政治的マジョリティが政治的マイノリティを規制するのはいつの時代でも人類に対する罪なのである。
未来永劫償おうとも償えない罪である。

私は児童ポルノがどうのというのにはあまり興味ないのだが、
たとえばコミケに参加するのが60万人弱いて、日本全国にそういう趣味の人がざっと100万人いるとしよう。
日本人の100人に1人くらいいるとしよう。
たぶん私はその中の1人ではない。
コミケに類したイベントには一度も行きたいと思ったことがない。

60万人というのは厚木花火大会と同じ動員数であり大したことはない。
しかし、その60万人だか100万人だかは日本の文化創造のほぼ中核にいるひとたちである。
で、規制をかけると飯が食えなくなって普通のサラリーマンか下手するとアルバイトで飯を食っていかなくてはならなくなる。
同人活動は基本エロで食っている。
社会に順応できず、同人活動を行いつつ、メジャーをめざすものたちにとってエロは死活問題なのだ。
エロを規制するとは、ゲスな親父や変態を規制することとは少し違う。
そういうおっさんたちを規制する方法は他にいくらでもあるんじゃないのか。

どんなつまらないマンガでも小説でもエロを入れれば買い手はつく。
才能の無い人間、メジャーになれてなくて、他に飯を食う手段がない人間はそれにすがりつくしかない。
メジャーな作家でもお色気シーンなどを入れて読者サービスをしなくてはならない。
司馬遼太郎の『燃えよ剣』だって似たようなものだ。
宮城沢昌光だろうと佐藤秀峰だろうと三浦しをんだろうと鈴木みそだろうと畑中純だろうとそうだ。
無難なエロを入れるかお上品なエロを入れるか、露骨なエロを入れるかの違いだ。
それが商売というものだからだ。

で、そのエロが社会に悪影響を与えるというのなら規制の対象になってもしかたないかもしれないが、
同人が身内で楽しんでいるだけならば、規制するのは間違いである。
暴力ゲームも同じ。
暴力ゲームとリアルの暴力の関係が明らかでないならば規制するのは間違いである。

春画は規制されただろう。
山東京伝も為永春水も規制された。
しかし今の時代それらはすべてすぐれた江戸の文化の一部だ。
同じことを現代の為政者として行って、百年後、千年後の人類にどう申し開きをするつもりなのか。
過ちを犯して我々に謝って欲しいのではない。
未来の人類に責任をとってほしい。

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