後鳥羽天皇はどうすれば北条氏に勝てたか

投稿者: | 2010年4月1日

後醍醐天皇の例を見るまでもなく、
後鳥羽上皇の時代にはまだ、天皇や上皇が軍事力を掌握し動員することは不可能ではなかった。
保元の乱は、崇徳上皇と後白河天皇の間の権力闘争だったが、
この時代までは確かに、軍事力を動かす権限は、天皇か上皇か或いは親王にあった。
南北朝の頃までは、皇族の宣旨には武士団を動かし、日本全体を戦乱に巻き込む力があった。

実朝が死んで鎌倉幕府は混乱の極みにあった。
ほおっておけば内部崩壊していたかもしれない。
ところが、承久の乱によって、政子と義時と泰時を核として、
鎌倉幕府は結束を固めてしまった。
外向きの戦争によって中は逆に固まったのである。

北条政子は1225年に死んでいる。
承久の乱のわずか4年後だ。
もし後鳥羽上皇が、あと5年待って挙兵していたとしたらどうだろう。
鎌倉幕府は内紛でくだぐだで、日本国内さまざまな矛盾が噴出していただろう。
後鳥羽上皇は、北条氏打倒の機運が高まるまで「善政を敷いて」待っていればそれでよかったのだ。
自分から戦いを挑んだので負けた。
そういうことではないのか。
その余韻が後醍醐天皇の倒幕を成功させたのではないのか。
後鳥羽上皇のもとに大江広元レベルの政治家・戦略家が何人か居ればなお良かっただろう。

だが。
後水尾天皇の時代にはもはや天皇は、なんら軍事力を持ってはいなかった。
なにしろ、関ヶ原の合戦や大阪の陣などは、天皇の宣旨とはなんの関係もないところで起きたのだった。
かりに後水尾天皇が徳川追討の宣旨を出しても、まったく何の効力もなかっただろう。

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