加賀

木曽義仲を調べていてふと思ったのだが、越後、越中、加賀、越前。
なぜ越中と越前の間に加賀が挟まってるのかと。
ははあ、越前から能登と加賀が分離したのか。
越前は近国で赴任に便利だから、このように分割されたのかもしれんね。

吉野城軍事

『太平記』に

> 天照太神御子孫、神武天王より九十五代の帝、後醍醐天皇第二の皇子一品兵部卿親王尊仁、逆臣の為に亡され、恨を泉下に報ぜん為に、只今自害する有様見置て、汝等が武運忽に尽て、腹をきらんずる時の手本にせよ。

という村上義光のセリフがあるが、後醍醐天皇が生存中に「後醍醐天皇」などという追号で呼ぶはずがない。
本来ならば、「今上天皇」、「主上」などだろうか。

群馬

群馬出身の人と話をしていて思ったのだが、群馬には訛りがほとんど無いという。
訛りがないというのはつまり現代の標準語である江戸山の手言葉に近いということだろう。
なるほど、千葉、栃木、茨城には東北弁に近い訛りがあるが、神奈川多摩埼玉西部群馬は、
比較的訛りがない。
これは極めて面白い現象だ。

ずっと、江戸山の手言葉というのは、
三河弁か或いは駿河の辺りの言葉が徳川氏とともに江戸に入ってできたかと思っていたが、
たぶん違う。
思うに、群馬というのは、足利氏の本拠地だ。足利氏の支族というのは、
実にたくさんいる。
今日残る八幡太郎義家の子孫とはつまりは足利氏のことだ。
頼朝と違って足利氏は分家を(あまり)弾圧しなかった。
むしろ気前よく封建したから守護大名が地方に割拠する原因にもなった。
であればこそ、人口も多かったのである。
それで自然に足利氏の使う言葉が鎌倉や武蔵国にも定着したのではないか。
その土地を支配する階層というのは少数派であり、
人口を占める多数派、主に農民、がその土地の方言になるのに違いない。
だから、群馬の上州弁こそが、現代標準語の元祖と言えるのではなかろうか。
同時に、日本における足利氏の影響力の大きさをも示していると言える。

さらに想像をたくましくすれば、昔は江戸湊に注ぐ利根川が武蔵国と下総国の境であったから、
利根川を境にして、普段話している方言が、まるきり違っていたのかもしれないなあ。

『柳橋新誌』に芸妓の名前として列挙してあって、多いのは「阿長」などと「阿」が付く名前だが、
為永春水『春色梅暦』など見ると、「阿長さん」とかいて「おちょうさん」と呼んでいる。
つまり、「阿」は「あ」ではなく「お」と読むのであろう。