読者

思うに、通りすがりの読者も読者のうちである。
読み間違いする読者も読者のうちである。

あなたは誤読してますと指摘してはならない。
誤読もまた読者の権利なのだから。
そして誤読されないような文章を書こうと努力しても無駄だ。
大いなる徒労だ。
誤読されない文章が書きたければコンピュータ言語で書くしかない。
人間は誤読が大好きなのだ。
著者は読者が誤読することまで責任を負わなくてよい。
文章を書くところまでが著者の責任だ。

松岡正剛というひとが何者かは知らないが彼もしばしばはなはだしく誤読している。
白洲正子も。丸谷才一も。
読書体験というものはその大半は誤読で成立していると思えるようになってきた。

誤読を容認し、多くの人の目にふれるようにするのが大事だ。
だから、あなたが読もうとしている私の本はあなたが読みたい本ではないかもしれませんなどと指摘する必要はない。
大きなおせっかいだ。
自分から自分の本を読まれる機会をそぐようなことをしてはならないと思った。

比較対象にするのもおこがましいが、私は本居宣長と立場が似ていると思う。
もし宣長を誤読する人を宣長の読者ではないとすると、宣長の読者はほとんどいなくなってしまう。
もちろん宣長の理解者がいないわけではない。
しかしその思想の根本のところは理解されているとはいいがたい。
宣長は、世間の人はこう考えているが実際はそうではないよ、ということを言う人である。
しかし世間の人は宣長がいくら一生懸命そう主張していても、そうは読んでくれない。
自分に理解しやすい良いように解釈して読んでしまう。

平田篤胤や賀茂真淵などの場合誤読されるような心配はあまりない。
というのは彼らはある意味誰でも思いつくようなことを書くひとだからだ。
誰も思いつかないことだからこそ書こう、
というスタンスだと誤読は増える。

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