て居り

喜田貞吉[サンカ者名義考](http://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49822_44667.html)
を読んでいると、平安朝末期の散木奇歌集に

> うからめは うかれて宿も 定めぬか くぐつまはしは 廻り来て居り

という連歌があるという。
散木奇歌集とは何かというと、源俊頼の家集であるという。
どうみてもこれは連歌というよりは、一種の和歌だが、
私がびっくりしたのは「てをり」で、こんな現代短歌みたいな言い方が平安時代からあったのか。
慌てて検索してみるが、[和歌データベース](http://tois.nichibun.ac.jp/database/html2/waka/waka_kigo_search.html)にはこの一首のみらしい。
他にも変な歌がいくつかある。

> くひほそく いほししりして たちなほれ いなごまろびて みぞにおちるな

> たかうなと たかしはいはで もてまゐれ きしにおひたる たてきしたてて

> くろをとこ くろとのほとに おとすなり ひこのしろぬし ゆきたかかるい

源俊頼はごくまっとうな歌人である。
それが「傀儡回しは廻り来て居り」とか「イナゴまろびて溝に落ちるな」とか「もてまゐれ」などと歌に詠むだろうか。
信じられない。
これらは明らかに俗謡であろう。
俊頼が戯れに詠んだか。あるいは、民間の歌を収録したのか。
後拾遺集序に

> 又うるはしき花の集といひ、足引の山伏がしわざと名づけ、うゑ木のもとの集といひあつめて言の葉いやしく、姿だみたる物あり。これらの類は、誰がしわざともしらず。又歌のいでどころ詳ならず。たとへば山河の流を見て、水上ゆかしく、霧のうちの梢を望みて、いづれのうゑ木と知らざるが如し。

とあるが、民間の和歌を集めた歌集もあったと見えるが、
そういう歌が紛れ込んだ、或いは俊頼の歌集とごちゃまぜになったのではないか、とすら思える。

土佐日記に舟子舵取の歌とて

> 春の野にてぞねをばなく。わが薄にて手をきるきる、つんだる菜を、親やまほるらむ、姑やくふらむ。かへらや。よんべのうなゐもがな。ぜにこはむ。そらごとをして、おぎのりわざをして、ぜにももてこずおのれだにこず

とあり、
また梁塵秘抄のような俗謡(今様)もあるわけだが、
平安末期にはすでに「てをり」のような口語があって、
それが現代短歌にどういうルートをたどったか知らぬが復活したのかもしれぬ。
「ゐし」とか「たりし」などもそうだろうか。
おそろしいことである。

まいずれにしろ、
記録に残ってないだけで口語による俗謡のたぐいはずっとあったわけだ。
それが復権しただけかもしれんね。

> まことにや れむかをしては おともせぬ ひとはしもやとに すゑつけよかし

ははあ。
こんな歌もある。
「れむか」は連歌だわな。
『俊頼髄脳』にも連歌が採られているという。

> このみちに はうちやうたいふ ちやうしたり みれはみよしの すけるれうりも

意味はわからんが、かなり大胆に漢語を取り入れているようだ。
釈教歌以外で漢語が用いられることは珍しい。

してみると後拾遺集や金葉集の頃すでに連歌と呼ばれる(五七五・七七・五七五・七七・・・という形式の)俗謡が流行っていて、
俊頼はそれをある程度研究していた、ということだろうか。
そうするとどうも連歌というのは、少なくともその当初は、
上の句と下の句をつないでいく遊びというよりは、
むしろ、俗謡という意味に近かったのではなかろうか。

サンカ者名義考に戻ると、シサムというのはアイヌ語で和人のことだ。
サンカにシサムという語があったのだろうか。
なんとも言えぬ。
クグツとは単に人形のことだから、
クグツシサムは単に人形使いという意味ではなかろうか。
散木奇歌集には割と詳しい詞書がついているようだから、是非読んでみたい。
どうやったら読めるのだろう。
できれば活字で読みたい。

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