皇室典範草庵談話要録

10月10日の産経新聞の記事に、
明治20年3月20日に開かれた高輪会議とその覚え書きらしきもの「皇室典範草庵談話要録」が出てくるのだが、
この「皇室典範草庵談話要録」というのはこれまでまったく知られてなくて謎である。
記事によれば、参加者は伊藤博文、井上毅、柳原前光、の三名しかいなかったらしい。
とすると、井上が皇室典範の原案を作り伊藤がダメだしをした。
柳原というのはこの覚え書きを残した公家であろう。

この記事を書いた奥原慎平という産経新聞の記者もよくわからないが、おそらく奥原が柳原家に伝えられたメモ書きを直接見たということだろう。おそらくそのメモ書きというのは断片的でささいなものであり、記事にはほぼその全文が引用されたのではなかろうかと推測される。
つまり、この奥原の記事がすなわち「皇室典範草庵談話要録」と考えてよかろうと思えるのである。

それでこの明治20年3月20日の高輪会議というものだけで皇室典範が決まったわけでもなく、
他にもいろんな会議が開かれ、いろんな議事録が残され、その多くは散逸したのに違いない。
ただ紛れもなく言えることは、天皇の譲位を禁じるこの皇室典範というものを定めたのは公家ではあり得ないということ。
例えば岩倉具視の意見とは思えない。
武家に違いなく、武家でも天皇の意志に反して意見を述べられる一部の元勲しか考えられない。
明治天皇に強く反対できるのは伊藤博文くらいしか考えられない。

傍証としては、伊藤博文が辞表を出そうとしても明治天皇が決して認めなかった、伊藤は辞表が出せても、朕には辞表というものがない、とかなり露骨に伊藤に嫌みを言ったという良く知られた事実がある。
つまりはこれが伊藤と明治天皇の生の対立関係であったということになる。
伊藤と天皇がただの仲良し仲間だったはずがないのである。

明治20年というのは日清日露戦争よりは前で、西南戦争の後であるから、
西郷隆盛みたいな「権臣」が皇族を擁立して南北朝が再現されるおそれというものはまだまだあったのである。
外征よりは内乱の危険性の方がまだ高い。
西郷隆盛は朝敵そのものであった。
実際、足利尊氏はいったん九州まで逃げ落ちて、そこから巻き返して、
京都を奪い返し、北朝を建てたのである。
この頃京都は東京に対して西京といったが、
東京にいた明治政府は西郷離反に慌てて、西京に大本営を移したのである。
伊藤博文には西郷隆盛が足利尊氏に見えていたに違いない。
明治天皇には兄弟や従兄弟などはいなかったが、もしいたら、「権臣」が現れて、
皇統が分裂していた可能性は高いのである。
その際、譲位ということがあって、天皇の他にも何人も上皇がいたら、
明治政府としてはたいへん困ることになる。
明治政府としては明治天皇はしっかりおさえてあるが他の皇族まで手が回らないかも知れない、
伊藤博文はそういう事態を危惧した。

日露戦争が過ぎた頃には明治天皇が譲位しても何の問題もなかった。
伊藤博文にも明治天皇の譲位に反対する理由はなかった。
しかし伊藤はすでにハルピンで安重根に暗殺されてこの世にはいなかった。

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