東京スカイツリーに行く機会があったのだが、
私はあんなものに何時間も並んで登る趣味はないので、
近場の堀切菖蒲園というところの菖蒲祭りを見に行くことにした。
堀切というところに菖蒲があったのは浮世絵にも描かれているので事実らしい。
しかし、菖蒲園なるものが成立したのは江戸末期であり、
それが流行したのは明治に入ってからだという。
堀切菖蒲園自体は地図の上で確認して予想したとおりに、非常に狭苦しいところであった。
江戸時代から続いているというのでなければほとんど何の価値もないだろう。
町田の薬師池公園のほうがもっと広い。
近くには小岩菖蒲園とか水元公園などもっと広いところがいくらでもある。
新宿御苑でも明治神宮でもいいだろう。
とにかく堀切菖蒲園というところは古いだけが取り柄の場所だったのだが、
別に古い遺構があるというわけでもない。
向島百花園というところにも行ったのだが、ここも狭い。
新宿御苑とかあるいは六義園のようなものを期待していくのがいけない。
江戸時代から続く普通の庭園だから、とにかくこぢんまりしている。
悪く言えば、わざわざ遠方からでかける必要はない、と思う。
だいたい東京というところは、特に民間のものは、
古い古いと言っても嘉永とか慶応とか、よくて天保くらいのものばかりで、
古いものはたいてい焼けたか朽ちて残ってないのだろうと思う。
堀切菖蒲園は農民が、向島百花園は商人が作ったものらしいが、そういう江戸庶民の金持ちの庭園というのは、
たかだかこんなものだったのだろうと思って眺めると良いのだろうと思うよ。
ここらはとにかくアクセスが悪い。
堀切という駅があるがあんなひどい駅はあまりあるまい。
歩行者のための歩道というものがまるで整備されていない。
この駅周辺だけではない。
隅田川や荒川や柳瀬川ぞいの鐘ヶ淵とか、どこもかしこもだ。
こんなことは京都の鴨川なんかでは決してありえない。
私はもう墨田区というものに絶望した。
歩行者にはまったく優しくない地方自治体だと確信した。
葛飾区はものすごい田舎で、
部分的にむちゃくちゃな再開発をしてる墨田区とは対照的に再開発をほとんどしてない。
昔はこういう下町に情緒を感じたものだが、
小さな路地の中まで車が入ってきて、
こんなところでいい気に酔っ払ってて後ろからクラクション鳴らされたらどんだけ逆上するかもしれない、
何をしでかすもしれないと思うと、
もう恐ろしくて怖くてたまらない。
ま、しかし田舎というものはどこでもそんなものだ。
墨田区や葛飾区だからまだ文句の言いようがあるだけで、
名も無い地方自治体に文句をいってたらこっちが馬鹿だ。
鐘ヶ淵というのは調べてみると、
隅田川が差し金のように直角に曲がった淵であったという。
非常に興味深い地名である。
大宮台地の東側から来る川(隅田川、利根川)と西から来る川(入間川、荒川)が合流する地点が鐘ヶ淵であり、
その東岸、鐘ヶ淵から堀切、お花茶屋あたりまではひとつながりの台地であった。
ここを貫くように今は荒川が流れているが、
これがいわゆる大正から昭和初期に開削された荒川放水路。
つまり、堀切というのは昔は荒川で分離していたのではなかった。
地続きだったわけだ。
鐘ヶ淵はつまり荒川と利根川が合流して流れが直角に変わる淵だったのだから、
そりゃまあものすごい船の難所だったろうと思う。
墨田宿というのはその鐘ヶ淵の若干下流に位置していたらしい。
下総と武蔵の間の交通は主にここで行われた。つまり墨田の渡し。
水神の渡しともいう。
今の水神大橋と白鬚橋の中間くらい。
その宿の跡地には隅田川神社というものが建っているが、昔からこんな名前だったはずがない。
水神様、なんて呼ばれていた。
明治に入ってから隅田川神社なんて名になったという。
古地図では、浮島神社と言って、隅田川の中州に建っていたことになってるから、
今の東向島公園の一帯が昔は川底だったか。
浮島社は源頼朝の創建というがまあとってつけた話だろう。たぶんもっと古い。
いずれにせよ房総に逃れ再挙した頼朝もここを渡って鎌倉入りしたらしい。
台東区に石浜神社というのがあり、ここが西岸の渡し場だったと思われる。