小椋山

秋雜歌 崗本天皇御製歌一首

08-1511 暮去者 小倉乃山尓 鳴鹿者 今夜波不鳴 寐宿家良思母

雜歌 泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首

09-1664 暮去者 小椋山尓 臥鹿之 今夜者不鳴 寐家良霜

この二つの歌は同じである。

ゆふされば をぐらのやまに なくしかの こよひはなかず いねにけらしも

と訓む。割と有名な歌。崗本天皇とは舒明天皇か斉明天皇であるという。泊瀬朝倉宮に天の下治しめしし大泊瀬幼武天皇は雄略天皇。どうもよくわからない。しかも小椋山、あるいは小倉乃山というのがどこかわからない。「小椋」「小倉」ともにそれぞれ一度きりしか万葉集には出ないからである。もしかすると固有名詞ではなく「小暗」の意味かもしれんね。たとえばもとは「小暗き山」だったのが「小倉山」という固有名詞と間違われたとか。

ダブって採られているくらいだからよく知られてはいたが万葉時代には誰の歌か何の歌かもうわかんなくなっていたのだろう。

も一個あった。

春三月諸卿大夫等下難波時歌二首 并短歌

09-1747 白雲之 龍田山之 瀧上之 小桉嶺尓 開乎為流 櫻花者 山高 風之不息者 春雨之 継而零者 最末枝者 落過去祁利 下枝尓 遺有花者 須臾者 落莫乱 草枕 客去君之 及還来

龍田山の滝の上の小桉の嶺に。

ますますわからん。龍田山の滝の上というからには竜田川の上流かと思うが、飛鳥や奈良の中心からはだいぶはずれる。詞書きにも難波に下るとあるから、やはり生駒山辺りでなくてはならない。謎は深まった。

いやそもそも龍田山というのが生駒山なのではなかろうか。

ははあ、なるほど、生駒は北過ぎる。奈良盆地から難波に至る道というのは大和川沿いであったに違いなく、従って信貴山もしくは高安山あたりが龍田山もしくは小桉の嶺か。「山高」というからにはこの辺りで一番高い目立つ山でなくてはならない。

上宮聖徳皇子出遊竹原井之時見龍田山死人悲傷御作歌一首 小墾田宮御宇天皇代墾田宮御宇者豊御食炊屋姫天皇也諱額田謚推古

03-0415 家有者 妹之手将纒 草枕 客尓臥有 此旅人憾怜

竹原井、つまり聖徳太子の行宮後というのは、大阪府柏原市青谷、ここらには聖徳太子関係の史跡が多い。

獨惜龍田山櫻花歌一首

20-4395 多都多夜麻 見都〃古要許之 佐久良波奈 知利加須疑奈牟 和我可敝流刀尓

たつたやま みつつこえこし さくらばな ちりかすぎなむ わがかへるとに

ふーむ。やはり、龍田山というのは、奈良と難波を往来する人が必ず通る、大和川沿いの地峡から眺める山であった。船旅であったかもしれぬ。竜田川とはあまり関係ない。ていうか竜田川をさかのぼって生駒まで行ってはならない。うーんと、たぶんだが、龍田山というのはこの大和川の地峡全体のことで、そのなかの最高峰が小椋の峰でこれがすなわち信貴山ではなかろうか。

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