営業

酒を飲む習慣はなかなかやめられないが、だいぶ量と回数は減らしたと思う。

主に近所の飲食街を放浪するのだが、
行列が出来てたり満席だったりする店がある一方で、
がらがらに空いてる店もある。
空いている店は広告を出してないのだ。
混んでる店は何か広告を出している。
広告を出して客がくれば動く金は大きい。
広告を出さなきゃ金はかからないが客はあまりこない。
どっちもどっちな気がする。

この町に遊びにくる連中は、この町を知らないから、
本を買ってどの店にいくか決めてからくる。
だから特定の店に客が集中するのだ。
わざわざ並んで混んだ店で飲み食いして何が楽しいのか。
それだけの価値があるとでも思っているのか。
そういう遊び方しかできないのだろう。
空いててすぐに料理がでてきてそこそこおいしい店なら、
ちゃんと探せばある。
まあ、自分でちゃんと探す、ってのが素人(笑)には難しいんだろう。
飲み屋で楽しむにもそれなりに時間と投資が必要だからな。
いきなりはできないことだ。

極端な話、出版業界と個人出版の関係も似たようなものだ。
資本を投入してがんがん売ってなんとしても資本を回収するのが出版業界。
いろんな関係者がそれで飯を食っている。
給料をもらい、原稿料をもらい、印税をもらっている。

それはいいが、疲れないか。
したくもない仕事をし、書きたくもない本を書いて、
とにかくお金を回して、後に残るものはなんなのか。
10年後にはほとんど忘れ去られるようなものを書いてなんになるのか。
確かに一つか二つ、後の世に残るような作品が書けるかもしれないが、
別に無理に出版業界に属しなくてもいいんじゃないか。
後世に残る確率は大して違いないんじゃないのか。
KDPとか、或いはもっと他にも出てくるかもしれんが、
個人商店みたいにやってればいいんじゃないか。
イオンとかイトーヨーカドーみたいなのはスケールメリットあるかもしれんが、
本を書くというのは、結局は個人の仕事であり、
あんまりスケールメリットは効かない。
むろん営業とか編集の人がいた方がいい。
それを言ったら税理士とか法務部とかもあったほうがいい。
どんどん人手がかかってきりがない。
なんもなしでいいじゃないか、と思う。
本居宣長や滝沢馬琴だってそうだったんだから。
今の方が異常なだけではないか。

もともと私は営業には向いてない。
いまさら営業やる必要なんてないと思う。

天皇とは何かという問題

いろんな本を読んでいるのだが、なぜ武家政権は天皇家にとって代わらなかったのかとか、なぜ足利幕府は京都にあったかとか、肝心なところがわかってないと思うし、それゆえにやはり室町時代というのはぼんやりと訳がわからず、著書はあっても何がものすごくつまらないものになってしまっているようにおもう。

尊氏には二人の兄弟があった。直義、直冬である。二人とも尊氏に逆らって、別の天皇を立てようとした。尊氏自身が後醍醐天皇と代わる北朝の天皇を立てた。なぜわざわざ天皇を立てる必要があるのか。自分が日本国王になってしまえばいいじゃないか。中国や朝鮮などのようになぜ王朝交代が起きないのだろうか。なぜ信長の時代にも天皇はある程度主体的な役割を演じえたのか。さらに言えば、なぜ江戸時代ですら、天皇の権威は残ったのか。

誰も明確な答えを与えてくれないので、私は自分でこの問題をずっと考えてきた。

「治天の君」?馬鹿をいっちゃいけない。なんだそのおまじないは。

貴族社会や中世の社会では権威を求めたから?神話?「永遠の過去が持つ権威」?それも違う。そんな迷信深さによって天皇が残ったのではない。

およそ同じような政治形態を、神聖ローマ皇帝とローマ教皇、或いは東ローマ皇帝と正教会にみることができる。私が日本史と同時にヨーロッパ史の小説を書くのにはちゃんと理由がある。天皇とは何か?武士とは何か、ということを考えるのに便利だからだ。

皇帝は武力を背景に勝手に皇帝になることができる。その皇帝を皇帝Aとしよう。このとき教皇は、全然別の人間に戴冠してこちらこそ真の皇帝であると宣言することができる。
こちらの皇帝を皇帝Bとしよう。皇帝Aが皇帝Bより圧倒的に武力で勝っていたら、みんな皇帝Aの側につくだろう。しかし皇帝A以外のすべての武力を結集すれば皇帝Aを倒せる可能性がある場合には、多くの者が皇帝Bを擁立して皇帝Aと戦うだろう。今は弱いがそのうち強くなる、大化けするかもしれない。そんなばくち、いやいや先行投資が人は大好きなのだ。皇帝Aはそのとき対抗手段として教皇Aを立てて元の教皇Bを追放する。このようにしてあたかも二大政党制のように、複数の皇帝と教皇が対峙するのである。

キリスト教が普及したのは、キリスト教徒が政治的団結力を持っていたので、彼らを味方につけないと皇帝の地位を保てないからだ。キリスト教徒は迫害によって強固に団結するが、多神教徒はちりぢりばらばらになる。政治的に無力だ。故に、古き良き多神教はキリスト教に負けた。キリスト教徒は教会という強い政治組織を発明した。庶民が政治に介入するために考え出した最初の発明だ(産業革命によって無産階級が団結したのに似ている。一つの属性が与えられることによって圧倒的多数の弱者が一つのコミュニティを構成し、強者に勝つ)。今だって宗教団体に由来する政党はいくらでもある。ドイツなんか典型的だが、日本にもある。アメリカの政党も本質的には同じこと。イスラムなんてそのものずばり。一神教と政治は親和性が高い。信教の自由の意味が日本人にはわかってない。

皇帝はキリスト教を国教とすることによって地位を保った。キリスト教徒の首長たる教皇と妥協した。

日本でも同じだ。北条氏の時代。南北朝、室町、徳川時代ずっとそうだ。尊氏は少しだけ力が強かったが、反尊氏勢力が天皇を中心に結束したから、尊氏は負けかけた。しかし尊氏が別の天皇を立てたので結局武家勢力は尊氏一本で結束して、武家と相性の悪い後醍醐天皇を見捨てた。

直義、直冬もまた南朝の天皇を立てて尊氏に対抗しようとした。武家政権は一つにまとまっていないと意味がない。どこにまとまればよいかわからぬときには複数の天皇がたつ。義満が皇統を統一した。だがもし義満が自分が天皇だと言い張ると(そんなことを義満が言うはずもないが仮に)、反義満勢力がどこかから天皇を立てて対抗するだろう。細川や畠山ももとをたどれば足利氏だが、直義、直冬ですら反逆するのだから足利氏は決して一枚岩ではない。足利といえば鎌倉公方もいる。それらの反義満勢力が結束すれば義満はもたない。義満の子義教も赤松氏に暗殺されたではないか。室町将軍とはそのくらい脆弱だ。応仁の乱のときですら後南朝の天皇が立てられようとした。足利氏がばらばらというよりも、武士というのは、誰を担ごうかと日和見するのだ。室町将軍より鎌倉公方が都合が良いと思えば、そうする。つまり天皇がとか足利がとかいう以前の問題、人間本来の権力闘争がそういう状況を生み出すのである。

「義満は天皇を廃してみずから治天の君になろうとした」などという、金閣寺に目がくらんだ馬鹿もいる。理論的に突き詰めていけば100%あり得ない。馬鹿を簡単に見分けられてよい。便利な馬鹿発見器。

同様のことは北条氏の時代にも言えるし、徳川幕府でも言える。徳川幕府は結局天皇を取り込んだ薩長同盟によって倒されたではないか。というか、徳川幕府はうまく作られていた分もろかった。デザインがなまじうまかっただけに、そのデザインの不備を突かれたので、あっさり諦めた。旗本八万騎。うだうだ抵抗しなかった。そんなところか。

つまりは天皇が偉いのではない。特定のどの天皇が偉いとかいうのではない。武家政権は天皇という権威をコントロールしなくてはならない。皇統をコントロールできない武家政権などあり得ない。徳川幕府はある意味理想的な形で天皇家をコントロールしたわけだが、もしコントロールできてなければ外様大名連合が天皇を擁して徳川を討っただろう。

一番わかりやすいのはやはり尊氏、直義、直冬の闘争だろうと思う。だれが武家の棟梁となるか。とりあえず足利を担ごう。足利以外は論外。特に後醍醐天皇はダメ。しかし、足利の誰を担ぐか。尊氏、直義、直冬。特に決め手はない。強いやつ?違う。みんなが味方する棟梁が強い棟梁だ。強い棟梁だからみんなが味方するのではない。みんなを味方に付けるには大義名分が必要だ。天皇の権威をコントロールできる者が結局味方をたくさん付けて強くなれる。国家レベルの軍事的独裁権を持てる。人望?徳?まあそういう言い方をすることもある。人と物と金を集める才能のことだわな。足利時代には武家は離合集散。徳川時代にはも少し統制とれてきた。というかみんなも少し慎重になり、その分世の中息苦しくなった。だがおかげで二百年以上平和が維持された。南北朝がわからなければ天皇はわからない。徳川氏に比べると足利氏の幕府はナイーブなのでわかりやすい。徳川幕府よりも足利幕府のほうがわかりやすい?まあある意味ではそうだ。徳川は宗家や御三家や御三卿、松平家どうしで争ったりしなかった。すごく仲良しだった(表向きは)。権力闘争とは何かということを、徳川幕府を観察して理解するのは割と難しいと思う。足利幕府が素手で殴り合っているのに対して、徳川幕府は目で殺している。

継体天皇の例に倣って後光厳天皇を立てとか、馬鹿も休み休み言えと思う。そんな些末なことにこだわるからますます天皇がわからなくなる。継体天皇とか三種の神器というのは武士が苦し紛れに掘り返してきた後付けの理屈に過ぎない。自前の天皇を擁立したいが適当な天皇がいない。仕方ないので上皇の権威だけで即位させたのが後鳥羽天皇。神器も今上帝(安徳天皇)も平氏が西海に連れ出して、ただ後白河法皇だけが逃げ遅れて京都にいた。このとき院宣の正統性が確立した。神器はあるけど上皇がいないので普通の皇族を上皇に仕立てあげてその院宣によって即位させたのが後堀河天皇。このとき神器にも正統性があることになった。つまり神器の権威が生まれたのは承久の乱以来ってこと。そんなに古い話ではない。たぶん桓武天皇も嵯峨天皇も、神器なんてどうでもよかったと思う。彼らに大事なものは律令制。きちんとした、立法・行政組織に基づく国家体制だよ。古い神話的権威や家父長制は葬り去りたかったはず。神器の呪術的権威を創作したのは、紛れもない、北条氏。迷信深かったからでも、時代錯誤だったからでもない。そうする必要があったからそうしただけ。

神器もないし天皇も上皇もみんな拉致されていない、何にもないのに後光厳天皇は即位した。このとき持ち出されたのが継体天皇の前例。もちろん継体天皇のことなんてみんなもうとっくに忘れかけていたが、そんなものまで持ち出さないといけない非常事態。天皇が実際に即位してしまうとそれが前例になってしまう。いやいやもう天皇になってしまったからにはそれが前例でなくてはみんなが困る。やっぱり間違ってましたじゃ済まされない。絶対正しいことにしなきゃなんない。何がなんでも。

普通に考えて継体天皇に特別な正統性などない。当時の天皇に皇統などという考え方があったはずがない。皇統という発想が定着したのは天武・天智天皇以来。それ以前の実力主義の時代の皇位継承ルールを持ち出すこと自体がナンセンスである。皇位継承なんて誰でも良い、強いやつがなればいいと言ってるのに過ぎないのだから。

でまあ尊氏が後醍醐天皇に対抗して北朝の光厳天皇を立てたのは、まだ正統性があった。
もともと持明院と大覚寺で皇統が割れてたから。しかし、後光厳天皇はいくらなんでもNGでしょ、ってことになる。だから義満は南北朝をどうしても統一しなきゃならなかった。
明治になって、北朝全体が否定されたのではなかったと思う。後光厳天皇以後の北朝がどうしようもなく正統性が脆弱だったから、南朝が正統ってことにしたのではなかったか。だから後光厳天皇は今ではノーカウントということになっている。やっぱり継体天皇までさかのぼっちゃいけないってことなんだよ。

それで実際には担ぎ出されようとして天皇になれなかった例もあった。そういう場合は正統性がなかったことにされた。どう考えても正統性はないんだけど実際に天皇に即位しちゃったときはそれが正統性に追加されていった。そうやってかなりアバウトに、前例主義的に積み重なっていったのが、天皇や神話の権威に他ならない。つまり天皇が自分で権威付けしたんじゃない。そんなことはあり得ない。天皇を利用する側がどんどん天皇に権威を追加していった。天皇に近い公家の方がむしろ控えめで、伝統主義的。藤原氏なんてせいぜい自分たちの権力が天智天皇までしかさかのぼれないことを知っている。天皇から遠い武家ほど革新的。藤原氏の権威に勝つには天智天皇より昔にさかのぼるしかないわな。
次から次におかしなアイディアが出てきて、ついに天照大神から連綿として権威が存在していたことになった。そんなわけない。明治維新の王政復古というのもようはその再生産の例にすぎない。ある意味今のおかしな学者もその拡大再生産を続けている。天皇が歴史的必然によって、結果論によって徐々に出来てきたってことが理解できないらしい。どうしても最初から完成されていたと思ってしまう。あり得ない。今の女系天皇是非論。やはり天武天皇以前の例を持ち出したって仕方ない。天武天皇以前にはそもそも皇統という概念はなかった。女性か男性か女系か男系かというはっきりした概念もなかったはず。皇統が確立した天武天皇以後の事例に基づいて議論すべきではないのか。そうでないと何でもありになってしまう。でないと足利幕府がやったことと何ら変わりない。その辺り、徳川幕府はじつにうまく裁いている。手抜かり無い。よく研究しているよね。ときどきあやういことはあったけど、ぎりぎり切り抜けてるからなあ。

日本史にも普遍性がある。天皇は日本固有で特殊だからで片付けるからわからなくなる。
世界史の中にヒントはいくらでもあるのに。

中国は面白い。革命のたびに秘密結社や新興宗教が現れ大衆を扇動する。ところが、太平天国の乱のときもそうだが、中国ではキリスト教のように一つの宗教に集束・定着することがない。なぜだかよくわからない。あと、モンゴル帝国のように、軍事力が一人の首長の元に簡単に集中してしまう。これでは王朝が交代せざるを得ない。これもなぜだかわからない。人種が多様だからだろうか。一つの権威が生まれるには、文化や言語や宗教がある程度均質でなくてはならないのではなかろうか。ペルシャもそうだったが、イスラムが出てきてまた様子が変わった。

「つる」と「りし」

荷田在満が「国歌八論」の中で、額田王の歌

> 秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治の宮処の 仮廬し思ほゆ

の「宿れりし」より「宿りつる」にしたほうがよい、等と言っていて、
田安宗武が「国歌八論余言」でいや「宿れりし」のほうがやはり良い、
などと反論している。
私も最近まったく同じことを疑問に思っていた([助動詞「り」の謎](/?p=15183))ので、面白かった。

古今や新古今ならば「宿りつる」とするのが普通だが、
額田王の時代ならば「宿れりし」のほうが自然だったと思う。
連用形接続の「あり」が音便によって生まれた助動詞が「り」であったが、
万葉時代母音がいくつか欠落したせいで「り」は活用がいびつになってしまった。
「り」は遅かれ早かれ淘汰される運命だった。
「つ」や「ぬ」や「たり」や「き」、「けり」のほうが便利なので、
源氏物語ではほとんど使われない。
ときどき古語として、或いは慣用句のなかで「り」が使われた。

「りし」は「てありし」と解釈すべきで、「つる」とは若干違うが、
「宿りつる」でまったく問題ない。
その程度の言葉の置き換えは詠歌には普通にある。
「宿れりし」の方が良いというのはある種万葉かぶれなのであり、
荷田在満の方が普通の感覚なのだと思う。

「つ」「ぬ」「けり」「き」などを適宜使うとどうしても「国文学的」になる。
流麗な源氏物語的な匂いがつく。
それを嫌って文語訳聖書は「り」で押し通したのかもしれない。
「り」を多用するのはかなり違和感がある。
わざと古めかしい、ぎこちない言い方にしている感じである。
或いは漢文訓読調にも聞こえる。
漢文訓読作法は嵯峨天皇くらいまでで確立したからわりと万葉調である。
「すべからく」「おもへらく」「ほっす」など。
だから女の腐ったような(笑)湿った感じにはなりにくい。
おそらくそれを意図的に(無意識に?)狙ったのだと思う。

荷田在満は荷田春満の甥でかつ養子である。
春満は契沖に心酔し、宣長もその系統にある。

春満は徳川吉宗に国学の必要性を説き、
在満は吉宗の子宗武の家庭教師となったが、そりがあわず、
代わりに賀茂真淵を推挙した。
ずっと昔からこういう対立の構図があったのは面白い。

鉢木

[鉢木](http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-yokyoku-hachinoki.htm)という謡曲がある。

> のうのう旅人、お宿参らせうのう、あまりの大雪に申すことも聞こえぬげに侯、痛はしのおん有様やな、もと見し雪に道を忘れ、今降る雪に行きがたを失ひ、ただひと所に佇みて、袖なる雪をうち払ひうち払ひし給ふ気色、古歌の心に似たるぞや、駒留めて、袖うち払ふ蔭もなし、佐野のわたりの雪の夕暮れ、かやうに詠みしは大和路や、三輪が崎なる佐野のわたり

> これは東路の、佐野のわたりの雪の暮れに、迷ひ疲れ給はんより、見苦しく侯へど、ひと夜は泊まり給へや。

> げにこれも旅の宿、げにこれも旅の宿、假そめながら値遇の縁、一樹の蔭の宿りも、この世ならぬ契りなり。それは雨の木蔭、これは雪の軒古りて、憂き寝ながらの草枕、夢より霜や結ぶらん、夢より霜や結ぶらん。

観阿弥、もしくは世阿弥の作とされるが、不詳であるという。
世阿弥が「駒とめて」について言及しているので、それにもとづき、観阿弥もしくは世阿弥の作とされているだけなのではなかろうか。
このころはもう、「一樹の蔭の宿り」「それは雨の木蔭、これは雪の軒古りて」などのように風雪や雨をしのぐための「蔭」という使い方が定着していたと見える。

古今集、神あそびのうた、ひるめのうた
> ささのくま ひのくま河に こまとめて しぱし水かへ かげをだに見む

ひるめは天照大神であるという。おそらく万葉時代の古歌であろう。
夫を見送る女の歌であるという。
夫が馬に乗って出かけていく。急がず、川で馬に水を飲ませよ、姿をしばらく見ていたい。
という意味らしい。

河原にいでてはらへし侍りけるに、おほいまうちぎみもいであひて侍りけれぱ
あつただの朝臣の母

> ちかはれし かもの河原に 駒とめて しばし水かへ 影をだに見む

藤原敦忠の母ということは時平の妻、ということだろう。
おほいまうちぎみとは、時平のことか。
明らかにひるめの歌から派生している。
というより、古歌を手直しして藤原敦忠母の歌ということにしただけであろう。

俊成
> こまとめて なほみづかはむ やまぶきの 花のつゆそふ ゐでのたまがは

これもやはりひるめの歌を受けている。

東の方へ罷りける道にて詠み侍りける 民部卿成範
> 道の辺の 草の青葉に 駒とめて なほ故郷を かへりみるかな

これはごく普通の歌ではあるが、ひるめの歌を受けて、
自分が馬で旅立っていく立場で詠んだ返歌とも言える。

寄獣恋 為家
> 駒とめて 宇治より渡る 木幡川 思ひならずと 浮名流すな

成範の歌の続編と見えなくもない。
俺がいない間に浮気するなよ、と。
俊成、定家、為家と親子三代「駒とめて」の歌を詠んでいるからには、
為家には何か思い入れはあっただろう。

「こまとめて」「かげをだに見む」とあるのだから、

> 駒とめて 袖うち払ふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ

の本歌がひるめの歌であるとしてもおかしくはない。
「こまとめてしぱし水かへかげをだに見む」と古歌にはあるが、
そのかげさえ無い、という意味かもしれん。
いや、それが案外正解かもしれん。
「かげ」という単語がここで唐突に出てくる理由がそれで説明がつく。
新古今に採られているからには、俊成のお墨付きであるはず。
おそらくは俊成の歌を踏まえて、
佐野の渡し場で船を待つ間、しばし馬を駐めて水を飲ませ、自分は袖に積もった雪を打ち払う、
そんな景色すらない、
ということを言いたかったのではなかろうか。

かげ

> 駒とめて 袖うち払ふ かげもなし 佐野のわたりの 雪の夕暮れ

なのだが、久保田淳「藤原定家全歌集」によれば、
「かげ」を「ものかげ」と解釈したのは世阿弥であるという。
つまり、室町時代にはすでに、
馬を駐めて袖の雪を払って宿る物陰もない、
というように解釈されていた、ということなのである。

「かげ」を万葉集で検索してみると、一番多いのはどうも、おもかげ。
他には、あさかげ、ゆふかげ、つきかげ、くさかげ、みづかげ、いはかげ、やまかげ、まつかげ、しまかげ、
などなど。

> たちばなの 影ふむ道の

明らかに橘の木に日が差してその日の当たらない「像」、つまり影が道の上に映っていて、
その道の上を踏んでいる。
であるから、「かげ」というのは光が差してできる明るい「像」や暗い「影」を言うのである。
おもかげというのも、現実に目の前に見る人の顔や姿ではなく、
記憶の中に浮かぶ像を言う。
或いは鏡に映った像を言う。

雨や雪や風が当たらない、それらを避けることができる物陰、という意味である可能性は低いと思う。
「かげもなし」が「宿るべき家並みのすがたも見えない」の意味ならばなんとか通じるかもしれないのだが、
それだとかなり表現が遠回しな感じがする。

「かげもなし」の用例は定家が初めてであり、後に宗尊親王の

> つゆおかぬ 袖には月の かげもなし 涙や秋の 色を知るらむ

のように、定家の影響を受けたかなと思われる歌もあるのだが、明らかに「ものかげ」の意味には使ってない。
その後の用例も「おもかげもなし」「みるかげもなし」などであり、ものかげの意味には使われてない。
この時代例えば、「木陰」などという言葉も使われ始めるが、
これとても「木立の姿」と解釈できなくもない。

> 苦しくも 降り来る雨か みわの崎 狭野の渡りに 家もあらなくに

世阿弥は定家の「かげもなし」が、この万葉集の歌を本歌とした本歌取りの手本となる歌であるというのだ。
確かに、これは本歌取りの手本として詠まれた歌であって、
「雨」を「雪」に、
「家」を「かげ」に詠み替えたのだ、と解釈するのが一番しっくりくる。
気持ちが落ち着く。
だが、それで良いのだろうか。
おそらく世阿弥の時代には「かげ」を「ものかげ」と解釈するのが定着していただろう。
だから定説になっただけじゃないのか。

なるほど。「鉢木」という能があるのか。
そのストーリーにしっくりくるように古歌を解釈したという意味ではないのか。