もっと削らなくてはならない

『関白戦記』辺りはまああれはあれで良いと思うのだが、『エウメネス』はもっと削らなくてはならない。kindleの悪いところは書こうと思えばいくらでも書けてしまうことで、そうすると私の場合なんでもかんでも書けるものは書いちゃおうとするから読みにくくなる。

まず読みやすさを優先して削るところは削るし、読みやすさを優先して冗長にすべきところはくどくど書くべきなのだ。削るところというのはつまり単なる説明をしているところだ。何とかという人の名前とか要するに単なるキャラクター設定の紹介なんかは削らなきゃ駄目だ。どういうキャラクターかということはストーリーを追っていくうちに自然とわかるようにしなきゃダメだ。街の説明、部族の説明。みんなそう。歴史小説ではとにかく固有名詞が多くなりすぎる。そこをなんとかしなきゃダメだ。

冗長に書くべきところというのは逆で、デタラメでも嘘でもいいから想像で街の雰囲気とか、ただ道を歩いているだけの場面とか、なにかの経験を使ってもいいから、だらだらと書く。こういうのをなんというのだろうか。埋め草とでもいおうか。違うな。空気感?雰囲気というか。筋に関係ない、日常のとりとめもないことを適当に挟むと物語っぽくなる。説明っぽさが薄まる。

たぶんだけど、村上春樹の小説は9割空気感でできている。だから読んでも読んでも話は進展しない。私なんかだと、話が長いわりに話が進まないから読んでてつらくなってやめてしまう。えっ。この調子であと何百ページも読まなきゃいけないの?ってなる。しかし多くの人にとって読書体験とは、読書することそのものであり、意味を理解することではないのではないか。たとえばコーヒーを飲む。パンを食べる。できるだけ時間をかけてゆっくりとコーヒーを飲んでパンを食べる。それが心の余裕というものだ。ゆとりというものだ。立ったまま1分間でパンをコーヒーで喉に流し込むこともできる。たぶん、多くの人が望んでいるのはそんなことじゃないのだ。

喫茶店かなにかでだらだらと本を読んでいる時間が心地よければそれでよいのではないか。逆に意味を理解しないと読書できないのであれば、気が散って(笑)、読書に集中できないのではなかろうか。

多くの人は映画館で映画を見るように本を読みたいのではないか。どっぷりと映像の中に浸って、ほかのことは考えないで。私もそうしたいときがごくたまにあるけど、普通は、ユーチューブかブルーレイで、止めたり戻したり、場合によっては早送りしたりして、せっかちに、こまぎれにして、意味を見ようとする。内容を理解すればそれで良いと思っている。そして場合によってはおなじシーンを繰り返し見て精査する。村上春樹の読者はそんなことはまったく望んでいないのではないか。

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