源清蔭についての考察も今度出す本から除外することにしたので、こちらに載せておく。
桓武天皇の生母は百済王家の血を引く高野新笠。西暦六六〇年百済滅亡、六六三年白村江の戦いにも敗れ、大陸から多くの百済王族が任那符の難民らとともに亡命してきた。人の移動とともに大陸由来の天然痘が流行し、聖武天皇は疫病を避けてあちこち遷都した。桓武によって新しく造られた平安朝廷では宮廷の公卿や女官にも移民が多く含まれ、和風より漢風の文芸が貴ばれた。「昔、聖武天皇は侍臣に詔し、万葉集を撰ばしめた。これ以来十代、百年を歴て、其間和歌は棄てられ採られず。野相公(小野篁。野宰相とも)のごとき風流、在納言(在原行平)のごとき雅情ある者はあれど、皆、和歌で世に知られることはなく、他才(すなわち漢詩)で知られるばかりであった(筆者意訳)」と『古今集』「真名序」でぼやいている状況が生まれたのである。これに反発した平城天皇は奈良に都を戻し、日本文化を復興させようとしたが、薬師の乱で敗れ、嵯峨天皇が勝利した。
嵯峨帝は唐詩を好み和歌はほとんど顧みられなかった。この傾向は人臣にして初めて摂政となった藤原良房と、その甥で天皇が成人しても関白に居座り続けた基経の頃まで続く。清和天皇は二十代半ばで退位、出家させられて、三十路に入ってまもなく嵯峨野の奥、水尾の里で寂しく死んだ(そのため清和天皇は水尾の帝とも呼ばれる)。清和の兄、惟喬親王もいきなり基経に比叡山の麓、小野の里に蟄居させられ、あちこち放浪したあげく、五十才過ぎに寂しく死んだ(『伊勢物語』に詳しい)。清和の皇子、陽成帝は長寿を保ったが、やはり若くして退位させられ、院御所に引き籠もった後、何をしていたか全くわからない。『小倉百人一首』に採られた「筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりける」、これ一首だけが陽成帝の御製として知られる。たった一つでは他の歌と比較することもできず、本人の歌かどうかすら疑わしい。調べは美しく、屏風歌としては良い出来かもしれないが、この時代の宮廷和歌がいかに形骸化して低調だったかを象徴するような歌ではある。
満十二才で即位して三年目、陽成帝には皇子(後の源清蔭)が誕生するが、その年、基経は突如陽成帝を廃位し、皇統を四代遡り文徳天皇の弟、時康親王を立てて光孝天皇とする。時康親王はすでに五十五才、基経の恣意的な皇位介入に腹を立てて自分の皇子らをみな臣籍降下させてしまう。
光孝天皇は皇太子を立てぬまま崩御。このとき陽成院はまだ十八才だったが、基経は源氏姓を賜って臣下となっていた光孝天皇の皇子、源定省を皇籍復帰させ、立てて宇多天皇とする。藤原基経、人臣の分際で、もうやりたい放題である。
源清蔭の母は紀氏、『伊勢物語』の主要人物の一人である紀有常の娘は在原業平の妻。業平とともに『伊勢物語』によく出てくる惟喬親王(文徳の皇子で、清和の兄)の母は有常の父名虎の娘。さらに陽成帝廃位の直接原因と関係があると思われる、宮中殺人事件で殺された陽成帝の乳母、源益(嵯峨源氏)もやはりその母が紀氏。
紀氏は名虎でさえ正四位下で、いわゆる受領階級、国司に任じられ地方に派遣される程度の家柄だった。その紀氏が天皇や皇族の妃となって徐々に宮中で勢力を拡大し、藤原氏を脅かす存在になりつつあった。もしかすると皇族は、摂政関白に居座り続ける藤原氏に対抗し得る氏族として紀氏に期するものがあったかもしれない。しかし有常は文徳朝末期に左遷。惟喬親王も清和朝に蟄居。
陽成朝に基経は出仕拒否。藤原氏から女御が入内する気配すらない。陽成帝が藤原氏を嫌っていたのは明らかだ。そうしたところで陽成帝に清蔭が誕生。帝が清蔭に譲位して院政を始めれば、藤原氏は皇統から切り離され、摂政になることもできない。誰の入れ知恵か、源融あたりか知らないが、そういう企てが進行していたかもしれない。源融は東宮傅として皇太子時代の陽成帝に仕えていたので、自分が摂政になると思っていたのに基経に摂政を取られて怒っていたという説もある。源融はおそらく藤原氏によって軟禁状態にあったと思う。紀氏を巻き込んだ皇族対藤原氏の対立。薬師の乱以来の大乱になる可能性があった。それで基経は藤原氏を母に持つ時康親王まで皇統を強制的に巻き戻した。陽成帝の生母藤原高子と兄基経の仲が悪かったとか、陽成帝に乱行があった、などというのはすべて作り話か、事実としても本質的な問題ではない。
陽成天皇暴君説。藤原氏に同情的に書いているのが自分ながら意外だ。
栗山潜鋒と三島由紀夫と小室直樹。ここにもちょこっと陽成天皇の話が出てくる。小室直樹の書いたものも今読むといたるところに間違いがあることに気付く。
水尾の里と小野の里。
ほかにもいろいろ書いているがめんどくさくなってきたのでとりあえずこのへんで。