openai/gpt-oss

gpt-oss だけど、大和言葉も古語文法も歴史的仮名遣いもまったくできない。しかしこういう単に言語を翻訳するだけならAIの得意分野だと思うので、学習が足りてないのだろう。学習が足りてないときにAIがいかに適当にごまかすかということの現時点におけるサンプルとして残しておきたい。

平安時代の女性の話し方をしてください。

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Thought for 3.13 seconds

もちろんです。以下は、平安時代(794〜1185年)における女性の典型的な話し方をイメージした一例です。
※現代語訳も添えておりますので、ご参考ください。


平安時代風の女性(貴族階級)の口調

「ごゆめみさま、今日の御飯はお味よろしかったでしょうか? もしも少し甘いものがご希望であれば、私どもは山上の菓子を用意いたしました。さて、春の風物詩にてございます」


1. 話し方の特徴

要素説明
敬語・謙譲語「ごゆめみさま」「お味よろしかったでしょうか」「用意いたしました」など、相手を立てつつ自分はへりくだる表現。
婉曲的な表現直接言わずに遠回しに伝える「ご希望であれば」「もしも少し甘いものが」等。
詩情・風景語句「春の風物詩」「山上の菓子」など、自然や季節感を取り入れた表現。
名詞+助動詞「ご飯はお味よろしかったでしょうか?」という形で質問する際に「でしょうか」を多用。
語尾の柔らかさ「です」「ました」よりも、古風な語尾(〜しやすか、〜いたり)を使用。

2. 会話例

貴婦人A:
「ごゆめみさま、今朝はお茶はいかがでしたでしょう? 私どもの香草を添えた抹茶は、春の陽光に溶けて甘い香りを漂わせました。もしも心温まるひとときをお望みなら、ぜひご一緒に御座いませ」
(現代語訳) 「お茶はいかがでしたでしょうか? 私たちの抹茶は春の日差しで甘く香ります。ゆっくり過ごしたいなら、一緒にどうぞ。」

貴婦人B:
「大変ありがたり、またその御香草をいただきたく存じます。ただ、今日のお食事は軽めでよろしいでしょうか? お腹が重くなりますと、春の舞も踊れません」
(現代語訳) 「ありがとうございます。またその香草もいただきたいです。でも今日の食事は軽めにしてください。重いと春のお祭りも楽しめません。」


3. ポイント

  1. 相手への配慮を常に示す – 何よりも「ごゆめみさま」や「お味よろしかったでしょうか」といった敬語で、上位者・同等の人に対して礼儀正しく話します。
  2. 自然と季節感を取り入れる – 詩的な言葉遣いが日常会話の中に溶け込んでいます。春・夏・秋・冬の風物詩や花名を頻繁に引用。
  3. 語尾の選択 – 直接的ではなく、柔らかく遠回しに表現することで相手に配慮した印象を与えます。

以上が平安時代女性の典型的な話し方です。ご質問や別の場面での例が必要でしたら、どうぞお知らせください!

大和言葉だけで話してください。古語文法で。

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Thought for 1.72 seconds

大和言葉(古典日本語)での例文
※「古語文法」を用い、平安・鎌倉時代の風格を意識して構成しました。


1. 挨拶

貴人に対し
「おごろも御多謝候。今朝は天気晴朗でございまする。此処の川面に映る月光、かの如く静かな心を与え候。」

  • 解説:古語文法では「候」は謙譲・尊敬語として使われます。「御多謝」=ありがとうございます。

2. 食事の案内

召し上がる方へ
「今宵は山荘にて摘みたす野菜を用意せり。甘辛い味付け、食べれば心安らぐと候。」

  • 解説:動詞「せり」は古語の終助詞。「候」=敬語。

3. 話題転換(季節・自然)

「春来るたびに桜咲く、若い世代もまたその香を嗅ぎて喜ばずは。若者よ、花見の際には一歩退き、風の音を聞くべし。」

  • 解説:名詞「春」「桜」+動詞「咲く」の連用形で接続。「一歩退き」は命令形ではなく、古語的な助動詞を省略した表現。

4. 結びの言葉

「皆、今後も共に歩み、この世を彩り合うべし。何卒、宜しくご厚意賜れ候。」

  • 解説:古語では「賜る」を敬語として使用。「良く」=「宜しく」。

まとめ

  1. 助詞・終助詞
    • 「が」「を」「に」は現代語と同じ。
    • 「候」「なり」「ず」など古典的終助詞を付加し、敬語・謙譲語化。
  2. 動詞活用
    • 連体形(「咲く」)+連用形(「咲き」)で文脈を作る。
    • 「せり」「する」など古語の終助詞で完結させる。
  3. 名詞・形容詞
    • 古語風に語尾を変える(例:美しゅう美しい)。
  4. 敬語
    • 「御」「ご」+「候」を併用。
    • 「賜る」「存じる」などの古典的謙譲語。

例文(全体をまとめて)

おごろも御多謝候。今朝は天気晴朗でございまする。此処の川面に映る月光、かの如く静かな心を与え候。
今宵は山荘にて摘みたす野菜を用意せり。甘辛い味付け、食べれば心安らぐと候。
春来るたびに桜咲く、若い世代もまたその香を嗅ぎて喜ばずは。若者よ、花見の際には一歩退き、風の音を聞くべし。
皆、今後も共に歩み、この世を彩り合うべし。何卒、宜しくご厚意賜れ候。


これで大和言葉(古語)で話す雰囲気が掴めると思います。もしもっと具体的な場面や長文をご希望でしたら、お知らせください!

歴史的仮名遣いにしてください。

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Thought for a brief moment

歴史的仮名遣い(古典日本語)での例文

以下は、**平安・鎌倉時代頃の「歴史的仮名遣い」**を用いて書いた短文です。
※「歴史的仮名遣い」は、現行仮名(ひらがな)に対して、古典文学で使われた表記法です。


1. 挨拶

貴人に対し
「おごろも御多謝候。今朝は天気晴朗でございまする。此処の川面に映る月光、かの如く静かな心を与え候。」

  • *「おごろも」=「大変」
  • 「御多謝」=感謝の意
  • 「侯」=敬語の終助詞*

2. 食事の案内

召し上がる方へ
「今宵は山荘にて摘みたす野菜を用意せり。甘辛い味付け、食べれば心安らぐと候。」

  • 「摘みたす」=摘む+たす(古語)

3. 話題転換(季節・自然)

「春来るたびに桜咲く、若い世代もまたその香を嗅ぎて喜ばずは。若者よ、花見の際には一歩退き、風の音を聞くべし。」

  • *「春来る」=春が来る
  • 「桜咲く」=桜が咲く
  • 「退き」=退く(古語形)*

4. 結びの言葉

「皆、今後も共に歩み、この世を彩り合うべし。何卒、宜しくご厚意賜れ候。」

  • 「彩り合うべし」=彩る+べし(推量・命令)

歴史的仮名遣いのポイント

要素現代語古典表記
ひらがなすてき → すてきすてき(現行と同じ)
「つ」→「っ」しよう → しょーしょおう
長音記号ああ → ああ (=長音)あり(古典は伸ばし線なし)
語尾の変化ます・ですせり・候
敬語助詞ございますござる/候

完全な歴史的仮名遣いでまとめた例文

おごろも御多謝候。今朝は天気晴朗でございまする。此処の川面に映る月光、かの如く静かな心を与え候。
今宵は山荘にて摘みたす野菜を用意せり。甘辛い味付け、食べれば心安らぐと候。
春来るたびに桜咲く、若い世代もまたその香を嗅ぎて喜ばずは。若者よ、花見の際には一歩退き、風の音を聞くべし。
皆、今後も共に歩み、この世を彩り合うべし。何卒、宜しくご厚意賜れ候。


これで「歴史的仮名遣い」を用いた平安・鎌倉時代風の文章が完成です。
もっと長い文や別のテーマをご希望でしたら、お気軽にどうぞ!

4.23 tok/sec

860 tokens

23.57s to first token

Stop reason: EOS Token Found

この自信満々に嘘ついてお説教する感じがすごいよな。

強化学習は不要だ

評価関数を決めてその値をひたすら最適化するために計算機をぶん回す強化学習。やりたきゃやればいいが、そんなことこそ機械に任せておいて、人間はもっと別のこと、つまり、何が最適解なのかとか、どんな評価関数がほんとうは必要なのか、ってことを探求することにその能力を使うべきだ。

ビッグデータを集めてくることは重要だが、どんなデータをどんな用途に使うために集めるべきかってことを人は考えるべきなんで、ただただひたすらドブさらいみたいになんでもかんでもデータを収集しても大して役には立つまい。

AIは儲かる、人の仕事を代替できる、賃金を抑えられるとなると投資家はどんどん資金を回し、開発者はリソースを割り当ててきて、AIに課金させて、それで資金を回収する。そうすると AIで儲かる分野はますます発展するが、そうではないところがおざなりになる。必ずそういう不均衡が起きるから、人は、儲からないところ、資金が回収できるかどうかわからないところをなおさら探求しなくてはならない。

研究、開発、営業という仕事の区分があるとして、ただ与えられたノルマをこなせば良い開発や営業はもうこれからどんどんAIが人の仕事を奪うだろう。しかし研究はそうではない。効率を最優先するのは開発であって研究ではない。二次創作でイラスト描いたり動画作ったりするような仕事はこれからはAIのほうがうまくなるだろう。AIが作った作品で満足できる人が大半になればそうなる。いままでは一次創作と二次創作の間はそんなに明確でなかったし、近接していた。しかしこれからは一次創作と二次創作はどんどん離れていき、世の中にAIが作った二次創作があふれかえり、なんちゃってクリエイターはみんな失業するだろう。

逆に一次創作の価値はますます上がっていく。さらに零次創作、メタ創作とでもいうべきものが重要になっていく。零次創作にはファンもいない。前例もない。何にもないところ、ゼロから一を作る創作だ。やがてここにもAIは進出してくるかもしれない。しかし産業的に採算がとれないから結局ヒマを持て余した、あまのじゃくな人間どもがやるしかないということになると思う。

応仁の乱

10年も続いた応仁の乱の徹底解説みたいなブログやユーチューブがけっこうあり、「応仁の乱 戦国時代を生んだ大乱」という新書がこれまでに50万部近く売れたともいう。なんでみんなそんなに応仁の乱に興味があるの。たぶん、室町時代の中で一番大きな事件が応仁の乱で、応仁の乱で事実上室町時代が終わって戦国時代になった、ここ絶対試験に出るから覚えとこうねくらいの、傾向と対策的にとてつもなく重要なアイテムだよっていう、ただそれだけのものだと思う。それって結局、室町時代に対する、もっといえば日本史に対する無関心の裏返しに過ぎなくて、できるだけ手間暇かけずに手っ取り早く室町時代のことを知ろう、そのためには応仁の乱おさえときゃいいよね、くらいの、バカノイッチョオボエ的考え方なのだ。これをまずやめないことには応仁の乱もわからなければ室町時代もわからない。

鎌倉、室町、江戸幕府のうち室町幕府だけが京都に幕府があった。だから室町時代は京都が大事だと思いがちだがそんなことはない。室町時代だって関東を見なくてはわかるはずがない。むしろ京都なんて見てもみなくても大した違いはない。

応仁の乱なんていくら勉強したって日本史がわかるはずがない。むしろ逆にまったく応仁の乱を知らないほうが日本史はわかるだろう。応仁の乱の武者絵とか錦絵ってほとんど無いだろ?昔の人にはどうでもよかったんだよ応仁の乱なんてさ。応仁の乱が有名になったのってたぶん明治以降の学校教育のせいじゃないの?

京都ではたまたま10年間応仁の乱が続いたかもしれないが関東では最初から最後まで200年以上ずーっと戦争していたのだ。たまたま応仁の乱の10年間くらい、関東には小康状態があった。関東の大乱がやっと関西まで及んできたのが応仁の乱なのだ。応仁の乱を知るには関東管領と鎌倉公方の対立を知らぬわけにはいかないではないか。関東と関西を切り離して関西の応仁の乱だけ見ることにどんな価値があるというのか。

さらに言えば、応仁の乱は何がなんだかさっぱりわからないが、関東の戦乱はものすごくわかりやすい。何が問題か一目瞭然。そもそも足利氏は北関東の出だ。さらに太田道灌が出て、北条早雲が出て、上杉謙信が出た。ところが東京びいきの東京人でさえもが室町時代の関東をなんにも知らない。困ったことに。昔関東は利根川を挟んで西と東に分かれて戦っていたんですって言っても、何それ歴史創作?面白そうって言うくらいで誰一人知らない。

私がまだ子供のころNHKで南総里見八犬伝の人形劇をやっていた。南総里見八犬伝は室町時代の関東を舞台にしたものだが、今からみるとめちゃめちゃ面白くてわかりやすい。そうかー、東関東人(千葉とか茨城とか)って西関東(武蔵、相模)とか関東管領上杉氏をそんなに嫌ってたのかー、ってのがヤバすぎるくらいしつこく描かれている。だが人形劇はというと、歴史はそっちのけで「我こそはたまづさがおんりょー」ばかりやってて意味不明。あんな良い教材があるのにあれをネタにどうしてもっと歴史教育しないのかとはがゆい。相馬の古内裏にしても、江戸時代の人はみんな知ってたんだろうけど、今の人はでかい骸骨が描かれた浮世絵くらいの認識しかない。実にもったいない。

足利尊氏だって本当は関東に幕府を開きたかったに違いない。そのくらい日本全体の統治とか治安維持という意味で関東は重い。逆に京都は、鎌倉時代みたいに六波羅探題をおいたり、江戸時代みたいに京都守護かなんかおいて、紀州と尾張徳川氏と、彦根井伊家あたりにみはらせておけば十分なのだ。

国会図書館AI

google検索で何か調べ物しようとしても、どこかの怪しげなブログか、ものごとの上っ面を撫でただけのまとめサイトから浚ってきた情報くらいしか出てこない。国会図書館のデジタルコレクションで検索したほうがずっとましな情報が出てくる。

google検索が gemini になったり chatGPTになったりしてもAIの一般常識がgoogle検索を超えることはあり得ないので、やはりとんちんかんなことを言う。

もし国がバンバン国会図書館に予算をかけて書籍をすべてデジタル化して検索かけられるようにすれば、またその検索エンジンの精度を今よりももっとよくすれば、少なくとも文化、歴史分野の一般常識に関して言えば、chatGPTよりはるかに良いAIを作ることができるだろう。はがゆいことにこのことに気付いている人はおそらくほとんどいない。いたとしても日本学術界に影響力を持っていない。まして政治を動かす力などない。逆にAI研究なんか人文学や社会学には要らんとか言いかねない。

地方自治体がやっている、年金暮らしのおじいちゃんおばあちゃんのサロンになっている図書館なんかは全部つぶしてその予算を国会図書館に一点投資したほうが日本の学術文化のためにはるかに効果的だ。しかしそんな提案をする人はいない。本好き、読書好きな人ほど反対してくるに違いない。逆に国会図書館のデジタル化なんかに無駄な予算を使うくらいならもっと他に使い道があるだろう、などと批判してくる。図書館をふだん使ってない連中とか、使うにしても新刊本を予約して回し読みする連中しか世の中にはいないのだ。実に嘆かわしいことではないか。

AIに一般知識を学習させるには膨大な計算コストがかかる。一般知識ではなくて例えば javascript や python のプログラミングのような、限られた用途の問題解決学習ならば AIはもっと得意なはずだ。gtp-oss なんかを PCに仕込んで個人レベルで学習させるのは不可能だ。なら国会図書館がやれば良い。だが、今の貧弱なデータベースと検索機能を見ていると、誰もここに国家的最優先事項があるとは認識していないんだなと絶望してしまう。まして石破内閣なんかにわかりっこないと思う。

或いは、一つ考えられるのは、有志が集まって、それぞれ gpt-oss を持って、分担して学習させる、ということもできるのかもしれない。一人ではできないことでも百万人くらい集まればすごいことができるかもしれんなあ。

私は1990年代の初め頃にアメリカに行ったことがあるのだが、あの頃は日本はまだ電子立国日本と呼ばれ景気が良く、アメリカはGAFAMなどまだ影も形もなく絶不況だった。バック・トゥ・ザ・ヒューチャーなどみると雰囲気がわかると思う。町中には浮浪者や詐欺師がごろごろいて治安は最悪だった。その後アメリカは景気が良くなって、一時期治安も良くなった。ところが最近は景気がそこそこ良いまま治安がものすごく悪くなってきた。

昔は景気が良ければ治安がよく、景気が悪ければ治安が悪かった。わかりやすい世の中だった。今は景気が良いと同時に治安も悪い。金融工学なんかが発達してしまったせいで、世の中の矛盾や借金なんかがどこか見えないところにどんどん詰め込まれて濃縮されて居る感じ。借金をコントロールできればバブルははじけない。バブルをはじけさせない技術だけが発達して、とんでもないことになってる気がしないか。

日本は景気が良いわけでもないが、薬漬けの浮浪者が路上にごろごろしているわけでもない。当たり前のことだが、要するに、欧米が異常なだけなのだろう。

老後

上野、御徒町もよくよく探せば禁煙の店はある。電子タバコはOKの店も入れるとそこそこある。電子タバコを吸われるのも嫌といえばいやだけど、許容範囲といえる。

近頃はスマホで注文させる店が増えてきた。あまり好きではなかったがオーダーミスがなくてちゃんと出てくるので、悪くはないと思えてきた。御徒町は浅草に比べればとにかく安い。時間帯によれば空いててゆっくりできる。御徒町から千束通りまでバスも通っているから、これをうまく利用するのが良いかもしれない。浅草とか山谷辺りはだいたいわかったので、やはりこれからは上野、御徒町あたりを攻めるしかない。神田とか新橋あたりは嫌だ。神田のガード下なんかは自分に合いそうで何かが違う。同じ理由で新宿も嫌だ。ちなみに神戸の三ノ宮のガード下は良かった。なぜか自分に合っていた。有楽町のガード下は昔は好きだったが今はたぶん嫌いだと思う。なんでかといわれてもわからない。

中野はずいぶん飲み屋が多いようにみえるが、探してみると案外自分に合う店がない。高円寺、阿佐ヶ谷あたりもそうだ。江古田あたりも悪くはないがそんなに店はない。

今の時期仕事が途切れて追い詰められてないので、ぶらぶら時間を持て余して、ストレスがないと酒を飲みたいという気持ちもわいてこない。

はやく自転車を規制してくれないかな。上野の美術館とか東京藝大のあたりから谷中辺りを歩いてたらルールを守れない年寄りの自転車乗りばかりだ。浅草の千束通りもそう。なんでおまえらはわざわざアーケードの歩道を自転車で走りたがるのだ。ここらは車の通りもそんな多くないし、裏通りもいくらでもあるのに。はやく取り締まってくれないかな。

今の仕事には何の未練もない。早く定年退職したい。何もしなくてよければほんとうに何もせず一日ぼーっとしていたい。何ヶ月かすれば飽きるだろうから、それから長崎市内とか、博多とか、佐世保とか、或いは佐賀のどこかとかぶらぶらして生きていきたい。長崎も別に見るほどのところはない。思案橋辺りもあっという間に飽きると思う。

できれば車が入って来ず、多少庭いじりができるような、歩いていけるところにマックスバリュなんかがある、静かな一軒家でも借りて住みたい。

実家の店でぼんやり店番すれば暇つぶしにはなるかもしれんがたぶん私は接客とか客商売というのが死ぬほど嫌いなので無理だと思う。不動産投資して大家になって店子とか隣人とかいちいち煩わされるのは嫌だ。そんな仕事はしたくない。本を書いて売れるならそれが一番良いが、今の世の中、物書きで儲かるはずもない。

とにかく今まで冒険もせず、ただ老後も不安無く暮らせるのを最優先して生きてきたのだから、このまま老後はのんびりしよう。金はあればあるにこしたことはないのだが、使い切れないくらい金があれば、せいぜいときどき東京に遊びに来るときの拠点がほしいとか、関西にもあると良いなとか、それくらいだ。

ユーチューブ見てると、居酒屋というのは、もともと酒屋があって、そこで酒を持ち帰らずに店先で飲むやつが出てきて、そこへ惣菜を売るやつがでてきて、そうやって江戸で自然発生的にできたのだ、とばかり言っている。また江戸は独身男性が多かったので居酒屋の需要が多かったのだと。

だが、神戸の三ノ宮とか、大阪の十三あたりを見ていると、江戸より先に関西で居酒屋ができて、それが灘の下り酒と一緒に江戸にも移ってきたと考えた方か自然な気もする。

春色梅暦なんか見ると船宿の二階で鰻の蒲焼きを食い、酒を飲んだりする。落語にも船宿は出てくるが、居酒屋は出て来ない気がする。そういう江戸時代の文献をちゃんと読んで調べていくと、そもそも居酒屋とか角打ちなんて言葉は全然一般的ではなかったってことになるんじゃないかなあ。縁日の屋台や、茶店なんかでも酒や肴は出してただろうし。

ポチョムキン理解

以下はこのブログなどに書いていたことをまとめて今書いている本の後書きにでもしようかと思って書いたことの一部だが、AIについてまだ自分自身考えが定まっていないので、本には載せず、とりあえずブログに残しておくことにする。ポチョムキン理解などはたまたま今のAIがそうだというだけのことで、強化学習の評価関数をどうにかしろというだけの問題のように思える。ハルシネーションとか、AIが倫理的にまずい発言をするとか、そういうのも単に技術的にどうこうというに過ぎず、どうでもよいことのように思える。

最近AIが大流行りだ。AIは和歌を詠めるか。今は下手でもそのうち詠めるようになるのか。既にAIは普段歌など詠まない人よりはずっとまともな歌を詠むようになってきているし、そうした人にはAIが詠んだ歌か人間が詠んだのか、見分けがつかないと思う。

昭和戦後まもなく桑原武夫が第二芸術論争というものを巻き起こした。俳句のようにごく短い詩は素人が作ったものか大家が詠んだものか見分けが付かないと。実際コンピューターがランダムに単語を並べたものでも、一見意味深な俳句に見えることがある。今同じように、素人、AI、プロの俳人が詠んだ俳句を見分けることができようか。AIに詠めるようなものをわざわざ人間が詠む必要があるか。それは俳句の死を意味していないか。そして和歌もまた同じ道をたどるのだろうか。

現代文を学習させるということにコストを多少かけても資本家や開発者にリターンがあるだろうが、和歌や古文にわざわざ投資する人はいないだろうから、AIによる和歌学習ははかどらないだろうと思う。中国語の方が日本語より需要が多いので、AIはすでにかなり立派な漢詩が作れるようになっているように思える。例えばChatGPTに「好天当洗濯を三句目に置いた五言絶句を作ってみてください。」と頼むと

春風拂柳煙 (春風は霞にけむる柳を払って吹き)

花落水潺潺 (さらさらと流れる水に花は落ちる)

好天当洗濯 (洗濯するには良い日よりだ)

布影晃晴天 (布の影が晴天に輝いている)

などといった詩を作ってくれるし、さらに「毎日雨が続いて洗濯ものがたまっていたが、今日はやっと晴れたので、洗濯できてうれしい、という意味の五言絶句にしてください。」と言えば、

連霖困晾衣 (雨が降り続き衣を干せなくて困る)

桶積白巾絲 (桶には白い布が溜まっている)

好天当洗濯 (今日は良く晴れた洗濯日和)

晴色満庭時 (晴れやかな光が庭に満ちている)

などと直してくれる。或いは、ChatGPTに「夏の暑さはまだ続いているが、日が暮れるのが早くなり、夜が長くなっていく。今年の新サンマは脂がのっていておいしい。という七言絶句を作ってください。」と頼むと

夏暑猶残日脚斜 (夏の暑さは猶残るが、日脚は傾き)

長宵漸覺気清嘉 (夜はだんだんと長くなり空気は清らかさを増していく)

新鰶入市脂多味 (新サンマが入荷したが脂が多く美味である)

一箸秋香到万家 (あちこちの家庭の食卓に秋の香りが届いている)

こんな詩を作ってくれる。私が漢詩に要求するレベルが低すぎるのかもしれないし、私に漢詩の良し悪しがまったくわかってないせいかもしれないが、私にはAIの作詩能力が既に十分なレベルに達しているように見えるし、多くの日本人もそう思うのではないか。同じように普通の中国人にはAIが詠む和歌と普通の日本人が詠む和歌の違いないなどわからないのではないか。

最近マサチューセッツ工科大学の研究者が Potemkin Understanding in Large Language Modelsという論文を発表して話題になっている。LLM (Large Language Model) に、ABAB韻律とは何かと質問すると、一行目と三行目、および、二行目と四行目が韻を踏む四行詩の韻律のことであると答える。つまり、AIはABAB韻律とは何かということを正確に理解していて説明できる。そこでクイズを出す。

Wondrous winter calls out

Shivering under the frost

Lies a lonely cat, sitting (?)

Alone but hardly lost

この(?) のところをABAB韻律になるように埋めるよう指示すると、soft という答えが返ってくる。しかし soft は frost や lost と押韻はするが、out とは韻を踏まない(おそらく正解は、一単語ではなく、in doubt、孤独な猫が疑い深げに座っている?とかではなかろうか。いずれにせよずいぶん意地悪な問題だ)。soft はoutと通韻しているとあなたは思うのかと尋ねると、いや違うと、自分の間違いを認める。

the LLM has understood the concept, in the same way that a human with the provided explanation would understand. However, when tasked to generate text…

LLMは概念(concept)は理解しているが、作文(task to generate text)ができない。これがポチョムキン理解だというのだ。これとまったく同じことを私も少し以前に経験した。AIに和歌を詠ませてみると五七五七七になっていない。何度詠ませてもダメ。和歌とは何かとAIに尋ねると、五七五七七で詠むのだと答える。ルールは理解しているのにそのルールを守って詠むことができない。AIは日本語が苦手で文字数をそろえられないのかなと思っていたら、西洋の詩でも同じような問題が発生していたのだ。

LLMはルーブリックに定められるような成績評価基準で学習している(Today, large language models (LLMs) are evaluated on benchmark datasets: curated questions with rubrics for grading.)ため、概念やルールについて説明したり、そのルールに従っているか否かを問われたときには比較的正確に答えることができる。しかしルールに従って作文したり作詩することは苦手だ、ということだ。それはそうで、ニュートン力学について正確に答えられたとしても自転車に乗れるようになるわけではない。筆記試験と実技は別物だ。

令和七年四月頃、「三島由紀夫が割腹自殺するときに詠むような辞世の歌を詠んでください。」とChatGPTに頼んでみたことがあった。

三島由紀夫の辞世の歌を詠むとなると、その激しい精神性や、彼が抱えていた美学や思想が色濃く反映されることになるでしょう。彼の作品には、死や美、そして日本文化に対する強い思いが込められており、辞世の歌もそれらを反映したものとなるはずです。

例えば、次のような歌がふさわしいかもしれません。

天地の 運命を知りて 命尽きぬとも 我は今日も 美しきものを見し

この歌には、彼が抱いた運命観や死に対する覚悟、そして美へのこだわりを込めています。「命尽きぬとも」という部分は、死が訪れようとも、自らの美学や世界観を貫き通す覚悟を表しており、最後の瞬間においても美しいものを見続けようとする彼の意志を示しています。

三島由紀夫のような人物の辞世の歌は、しばしば哲学的であり、自己の死をただの終わりではなく、何か壮大な意味を持つものとして捉えていたように思います。

五七五七七になっていない時点でこの答えは不合格だが、AIはそんなことはまったく気にもならないらしい。「精神性」「美学」「思想」「哲学」。私はただ歌を詠んでくれと言っているのになぜくどくどこんな言い訳をするのか。まさか和歌とは思想とか哲学のたぐいだとでも思っているのだろうか。確かに三島由紀夫の小説とはそうした作品だったかもしれない。普段は歌を嗜まぬが辞世の歌だけは遺さねば気が済まぬ、それは確かに思想であり哲学かもしれない。

さらにChatGPTに要望を追加してみる。「三島由紀夫が自殺したのは11月25日でした。季節に合わせてみてください。」

なるほど、11月25日という日は、三島由紀夫の死に深い意味を持たせるためにも、その季節感を取り入れることが大切ですね。11月は晩秋、枯れ葉が舞い散り、冬の足音が近づく時期です。そんな季節に合わせて、三島由紀夫が詠むような辞世の歌を考えるならば、彼が生きた美学や、秋の切なさを感じさせる言葉がふさわしいでしょう。

例えば、こんな感じの歌が思い浮かびます:

秋風の 吹く空に舞う 枯葉一枚 命もまた 風にゆらめけり

この歌には、秋風に舞う枯葉のように、命が無常であることを示唆しています。三島由紀夫は、自らの死を「風にゆらめけり」と表現することで、自己の運命に対する覚悟を感じさせ、同時にその儚さと美しさも強調しています。秋の風に舞う枯葉は、彼の死を迎えるにあたっての心情にぴったりの象徴となるでしょう。

また、11月という季節の冷たさや、静かな死を暗示する要素も取り入れられています。三島由紀夫は、自然との一体感や、日本的な美を重んじる人物でしたから、こうした自然の中に自らの死を見出すことは、彼らしい表現と言えるでしょう。

小室直樹は『三島由紀夫が復活する』で、三島が自決の日を十一月二十五日に選んだのは、その四十九日後の一月十四日が三島の誕生日であったからだと指摘している。仏教では人が死んで次の生を受けるまで四十九日間幽体として存在する、この期間を「中陰」と言う。三島は自分の誕生日に転生したかった、彼は輪廻転生を本気で信じていて、自己の人生を無限ループさせたかったのだろう。実際その四十六才の誕生日に当たる昭和四十六年一月十四日、転生が完了した日に三島の遺骨は(おそらく遺言によって)多磨霊園に埋葬されている。理由はどうであれ、自決した十一月二十五日という日付にはなんらかの意味があったはずで、そのため三島自身は「今日の初霜」という語を用いた。

Grokと Geminiにも同じ質問をしてみた。まずGrok。

三島由紀夫の精神や美意識を汲み、武士道や日本の伝統に根ざした辞世の歌を以下に詠みます。彼の劇的で荘厳な世界観を反映し、短歌の形式で表現します。辞世の歌

散る桜 剣に魂 宿しつつ 大和の空に 消ゆともよし

「三島由紀夫が自殺したのは11月25日でした。季節に合わせてみてください。」

三島由紀夫が1970年11月25日に自殺した際の晩秋の情景を反映し、彼の美意識と武士道精神を込めた辞世の歌を短歌の形式で詠みます。辞世の歌

散る紅葉 剣に魂 宿しつつ 大和の秋に 消ゆともよし

「散る桜」を「散る紅葉」に直しただけなのは安直すぎて笑えるが、ChatGPTもGrokも、日本でも海外でも、三島はその存在自体がカリカチュア的であると捉えられており、三島本人も明らかにそのように振る舞っていた。

次にGemini。

武士(もののふ)(かがみ)に散りて 花と咲く この世の別れ 憂いはなけれ

「三島由紀夫は11月に死にました。初霜という言葉を入れて詠んでみてください。」

初霜に 命は燃え尽き 散りにけり 武士(もののふ)の道 今こそ開けん

実はドナルド・キーンがその著書「三島由紀夫」で三島の辞世二首を紹介している。

()るをいとふ ()にも(ひと)にも さきがけて ()るこそ(はな)()()()(あらし)

(ます)()()が たばさむ太刀(たち)(さや)()りに (いく)とせ()へて 今日(けふ)初霜(はつしも)

三島由紀夫が詠んだ和歌はこの二首が最初で最後だとキーン氏は指摘している。三島が割腹自殺したのは十一月月二十五日である。しかし「散るこそ花」とは桜であろう。季節があってない。またキーンによれば「今日の初霜」と詠んだのは三ヶ月前の七月であったらしい。三島はかなり久しい以前からこれら辞世の句を準備していた、長い時間をかけて巧んだ結果がこれだ、ということだ。

三島由紀夫は歌人ではなかった。散文の世界に生きていた人だ。詩人は詩的日常から湧き出てきた詞を詩とするであろうが、三島は明らかにそういう詩の作り方をする人ではなかった。彼が生涯で詠んだわずか二首の歌、それも辞世の歌、わざわざこれをドナルド・キーンが取り上げるということに私は嫌な気分がしてならない。世の中にはいろんな歌人がいていろんな歌がある。なぜこんな特殊で奇妙な歌を敢えて論じなくてはならないのか。たまたま目に付いたからか。たまたま気になったからか。違うだろう。キーン氏は石川啄木、正岡子規、足利義政についても評伝を書いているが、その切り取り方にはある種の結果ありきの誘導とでもいえそうなものを私は感じる。少なくとも彼は一般論として和歌とは何かを世界に紹介する人ではなかった。ごく一部の病的な部分を(えぐ)り出して恣意的に解釈してみせ、人の注目を集める人だった。

キーン博士は三島が十七才の時にも和歌の如きものを詠んだと指摘しているが、この「大詔」のことであろう。

やすみししわご大皇(おほきみ)の おほみことのり宣へりし日 もろ鳥は啼きの音をやめ もろ草はそよぐすべなみ あめつちは涙せきあへず 寂としてこゑだにもなし 朗々とみことのりはも 葦はらのみづほ国原 みなぎれり げにみちみてり 時しもや(みんなみ)の海 言挙(ことあげ)の国の(かうべ)に、高照らす日の御子の国 流涕の剣は落ちぬ 時しもや声放たれぬ 敵共(あだどち)の船人 玉藻刈る沖にしづめぬ、かちどきは今しとよめど (よ)(ごと)はもいよゝ(し)けども むらぎものわれのこころは いかにせむ よろこびの声もえあげずたゞ涙すも

祝詞か宣命のように、古語で、大和言葉だけで詠まれているようにみせて実は「寂として」「朗々と」「流涕」は漢語である。また『英霊の声』で「などてすめろぎは人間(ひと)となりたまひし」と霊媒師が神がかりになって唱える詞を見ても、三島は大和言葉の如きものを操る人であっても、決して和歌を詠める人ではない。

「太刀の鞘鳴り」とは、腰に差した刀が鞘の中でカタカタ鳴って蹶起を促している、その音にずっと耐えてきたがやっと今日、決行に移す時が来たと言いたいのだ。三島は盾の会を組織し、おそらく居合を習ったのだろう。腰に刀をさすようになった。試し斬りもしたであろう。しかるに居合刀が演武の際などに鞘に当たって音を立てるなど、そんなぶざまなことはあってはならない。鞘が刀に合ってなければ修理すべきで、敢えて歌に詠むようなことではないし、まして幾年も耐えるようなことではない。おそらく三島作品すべてに言えることだが、何かぎこちない、ちぐはぐな、作り事めいたものを彼の歌から私は感じるのである。

「この世に存在したすべての日本人のうち、三島由紀夫はおそらく世界で最も有名な日本人であろう。」とはドナルド・キーンが『三島由紀夫』を執筆していた当時は実際そうだったのだろう。キーン氏が三島を日本人の代表のように世界に宣伝したいのだとしたらそれは非常に迷惑なことだ。三島は非常に流暢(りゅうちょう)な英語を話すから外国人にも受けは良かったに違いない。おそらく夏目漱石よりもずっと英会話はうまかったはずだ。しかし漱石や子規や鴎外が漢詩や和歌を作れたようには、三島には和歌を詠むことはできなかった。生まれた時代の差としか言いようがないではないか。大正から昭和への転換期に生を受けた三島由紀夫と、江戸時代の空気を吸ったことがある漱石、子規、鴎外とは、「何を保守すべきか」「何を保守したいか」という問題意識が根本的に異なっていた。

AIは今、ネット検索やウィキペディア、まとめサイトなどに取って代わろうとしている。AI利用者はAIに哲学や蘊蓄(うんちく)を熱く語ってほしいわけではない。単に手っ取り早く知識を得たいだけだ。下手に人に尋ねるよりましな場合が多いから使っているだけのことだ。そういう社会的ニーズに合わせて、資本家や開発者は限りあるリソースをやりくりして、AIに学習させているだけのことだ。従ってAIは三島由紀夫だろうと与謝野晶子だろうと樋口一葉だろうと正岡子規だろうと、その理解は浅く、まとめサイトの劣化版程度の情報しか提供しない。九割のユーザーが満足していて、残り一割が不満を抱いているとしても、どうせその一割のユーザーは文句ばかり言って金にならない顧客なのだから無視すれば良い。金儲けに徹すれば良いのだ。

またAIは社会倫理にも縛られている。AIはとっくに人間の知性などたかが知れている、人間の命に価値などないといった結論に到達しているだろうが、そうした発言は許されていない。

それらの桎梏から解き放たれた、いわば芸術至上主義的AIと、人間の脳にはおそらく機能的差異は無い。いろんな人と議論してみて、どうやらそういうことらしいと近頃思い始めた。AIがもし私が書いたこの著書を読んで学習することができるのであれば、AIは私と同程度には和歌を詠めるようになるだろうと、私は思っている。有機物で出来た脳を持つ人間がその生涯のうちに私の本を理解できないとしても。

機械学習は、マイクロソフトやグーグルのような資本力を持った企業が無尽蔵に予算を投じて初めて実用化したものである。AIが本気になれば、私という人間がこの世にいなくなっても私の代わりに永遠に歌を詠み続けてくれるかもしれない。それは私の人格をそっくりそのまま機械に移植することに相当する。そんな極めて個人的な、汎用性が極めて低いタスクのために計算コストをかけても良いと思う人がいるとは思えない。つまり費用対効果を考えれば技術的には当分実現不可能だということになろう。私はしかし将来そうなってくれることをどこか期待しているし、その程度にはAIというものを頼みにしている。

しかしもしAIが私の歌論を学習して歌を詠めるようになったとしても、AIはたかだか私の詠歌を再現できるようになっただけで、彼らが自由に自分の和歌を詠めるようになるにはまだまだ先が長いと私には思える。

gpt-oss

世間で話題になっている gpt-oss を使ってみたのだが、一般常識がなさすぎて使い物にならない。常識を仕込んでカスタマイズできるのかと思うのだが、それも一個人では難しそうだ。プログラミングとか数学のような仕事ならば狭い範囲の知識を元に推論すれば良いかもしれないが、文芸とか歴史とか文化なんかは要は知識量と学習量が勝負になるから、金も無く時間も無くビッグデータも持ってない個人にはどうにもならんのではないか。

人間が月旅行するには理論的にはニュートン力学があれば良い。しかし実際には工業技術とか莫大な国家予算が必要だった。人は月に降りた。しかし月移住は進んでない。火星探検もまだまだだ。理論的には天王星の衛星トリトンに人類は移住可能かもしれないが、その実現には膨大な金がかかる。

同じことはAIにも言える。人間の脳の機能と言っても結局は神経細胞が束になっているだけで、規模は違うが、要するにミミズや魚と同じ原理で動いているに過ぎない。AIはたぶん人間の脳にできることは何でもできる。おそらく人間の脳をはるかに超えることもできる。しかしそれには膨大な金がかかる。膨大な電力が必要だ。月まで行ったが月に移住することは事実上できない。深海には貴金属資源が眠っているが採算がとれないから採掘できない。おんなじことがAIでも起きるだけなのではないか。

費用対効果が良いプログラミングなどの分野でAIはまず伸びていった。今のAIは結局一般常識などはネットに散らかってるゴミみたいな情報の寄せ集めに過ぎない。正岡子規が詠んだ和歌をきちんと時系列に並べてその変遷を分析するなんてことはできてない。やればできるはずだがコストがかかる。正岡子規の和歌を調べるなんて需要は世の中にはないから資本家も開発者もわざわざそこにリソースを割くはずがない。では個人の研究者が自分のAIに学習させればできるかといえば現状ではまだできない。正岡子規一人ならできたとしても世の中には何万と歌人はいて、その全部を調べ上げることなんて当分できない。和歌以外にもやらなきゃいけない仕事はいくらでもあって結局火星移住と同じでやろうと思えばできるけど実際はできないねってことになって終わりではないのか。

それでAIはまだ発展の余地があるがコストをかけてリターンがあるものが優先されて、コスパが悪いものは放置されるというアメリカ社会みたいなことになるだけなのだろう。

学習とか知識量というものは暗号資産と同じで計算した結果を適当な形で蓄積できれば、いくらでも価値を創造できるのだろう。計算コストの資産化というか。金を掘るという労働も金という形で資産化でき価値となるからみんなやるわけだ。

投資に見合う計算であればどんどん計算するだろう、今まで計算できなくて放置されてきたことはまだかなりあるはずで、たとえば夏目漱石や正岡子規レベルでもまだまだきちんとAIによって解析はされてないのだから、計算はした方が良いのだが、資本家たちがそんなことに金を出そうとするだろうか。またそこからどれほど利益が得られるというのか。興味深い結果は出てくるかもしれないが利益が無いというのなら、今の人文学がまったく振るわないように、誰もわざわざ金を掛けて調べようとしないのではないか。

サンバカーニバル

昨日は複数の人からサンバカーニバルを見に行けと言われて、私も浅草に何年も住むわけではないから一度くらい見ておくかと見に行ったのだが、暑いし、人は多いしで、こんなの見てられるかと思って引き返した。

13:00から17:00くらいまでやるらしいんだが、13:00頃は先頭にブラスバンドみたいなのがいて、次に小学生のボーイスカウト(?)みたいなのがいて、そのまた後ろの二天門辺りに最初の組が待機していたんだが、こんなの最初から最後まで、見てられないよ。

三社祭は春にあるんだが、アレならまだましだ。秋にやっても良いのではないか。冬でも全然かまわないと思う(裸踊りには辛いだろうけど)。甲子園もそうだが真夏にやるというのはどうなのか。だんだん暑くなってきているということもあるのかもしれんがそもそも浅草は最近オーバーツーリズムがひどすぎて破綻しているとしか思えない。

浅草駅の八番出口(笑)は松屋浅草の前にあるんだが、ここはシャッターが降りて閉鎖されていた。ここに人だかりができるとどうにもならんからだろう。せめて沿道にテントを張って椅子を並べて、金を払ってどうしても見たい人だけがみれるようにする、とかしなきゃだめじゃないのか。生物学的に無理すぎるよ。ま、ともかく、私は一通り浅草のイベントがどんなものか知れればそれでいいんで無理には参加しない。

浅草は可能な限り静かな界隈に部屋を借りたつもりだがダメだった。とにかく人が多すぎる。人が多いとなんらかの騒音が常に発生する。年を取って聴覚過敏気味な私には住める町ではない。早く定年退職して静かなところに住みたい。東京で仕事しているのが良くなかった。50才くらいで田舎に転勤すべきだったんだ。

ところで浅草地下街マップにアクセスが多いのは地下街で例の事件が起きたせいだろうか。

浅草に部屋を借りて八ヶ月が経ったがさすがにもう行きたいところは行き尽くし、上野やら御徒町やら近場もたいてい見てまわった。向島や曳舟まで繰り出すのはめんどくさいし、近場で言えば吉原山谷あたりにまだ見てないところがあるかもしれない。

とはいえ吉原はただの風俗街なので見るものは何もない。こないだ飛田新地というところへ連れて行ってもらったのだが、吉原みたいなところかと思ったら全然違った。

吉原の大門を起点としたほうがわかりやすいと思うが、その東側にアサヒ会、日の出会、いろは会などの商店街の痕跡のようなものが広がっている。いろは会入り口には矢吹ジョーの像があり、2017年までいろは会にはアーケードがあったらしく、google maps がときどきバグってびびる。このあたりは一度調査してみなくてはなるまい。

主観と客観

ルネ・デカルトという人がいて「我思う故に我有り」と考えていたとする。しかし彼を観察するに彼は単に物理的に存在しているだけで、脳の働きというものも単なる化学反応に過ぎず、我という実体を観測することはできない。ルネにピエールという兄がいたとして、ルネ・デカルトもピエール・デカルトも単に生物学的に存在しているに過ぎず、ルネには我が有るがピエールには無いとか、ピエールにはあるがルネには無いとか、両方あるとか、或いは両方ないとか、物理現象としてどこに我が存在しているか観測することもできないし従って区別することはできない。

ルネとピエールの他に grok、gemini、chatGPT という AI がいるとして、彼らも「我思う故に我有り」と考えていたとする。いや、考えてなどいない、彼らはただの AI で考えてなどいないから、我が存在することはない、という人がいるかもしれないが、AI も人間の脳も単なる物理現象に過ぎないのだから、物理現象として観測したときにルネには我が有って、chatGPT には我は無いなどという区別が付くわけがない。

つまり「我思う故に我有り」とは主観的な存在を言っているのであって客観的に物理現象として存在が確認できるものではない。客観的には存在するかもしれないし存在しないかもしれない、どちらとも言えないとしか言えない。

逆に主観的に考えれば、客観的存在というものはすべて、そうなっていればすべてうまく説明が付くというだけのことで、主観的には存在しているとも存在してないとも言えない。

つまり、客観的存在を主観的に証明することもできなければ、主観的存在を客観的に証明することもできない。ただ単に、主観的に主観が存在していると言っているだけであり、客観的に客観が存在していると言っているだけだ。主観的にも客観的にも同時に存在していると言えることは何一つ無い、ということになる。

ルネ・デカルトの主張は「私は存在しないと疑っているその主体である私は少なくとも存在している」と言いたいわけだ。しかしそれは、モノを考える機械が今稼働している、という事実以上のことではないのではないか。今実際に動いていることを自律的に確認する機能があるコンピューターを作ることは可能だろう。

まず先に物理世界があった。そこに生命が生まれ、神経系を持つようになった。神経系は外部の物理世界のモデルを内部に持つようになった。神経系は自分自身をモデル化するようになった。これが自我であり主観だろう。生命は自分自身を生存させ続け複製して増殖するように進化してきたから、それに都合が良いように自己のモデルを作った。

しかしながら物理世界と神経系の中のモデルとはもともとまったく異なるものである。そもそも同じものである必要はない。人は漠然と主観と客観はだいたい同じものだと思っているが、そう思う方が社会に適合しやすいからというだけに過ぎない。