船渡御

江戸初期の歌人、戸田茂睡が書いた「紫のひともと」(天和2(1682)年)という仮名草子があってそこに浅草三社祭のことが書かれている。

観音寺門三社権現の祭り、三月十八日なり。是も隔年行はるる。此の三社権現の祭りは花園院の御宇、正和元(1312)年、神託によって始まるなり。

本堂の社の東に三社権現あり。是は観音を網にて引き上げし檜の熊の浜成・竹成と二人の漁夫の在家を改めて精舎となし、直中和といひし漁師と合はせ、三人を権現に祝ひ、三社の護法といふ是なり。本堂の外に出居る出家、専堂・斎堂・常音は、彼の三社の末孫なり。妻帯して子孫相続有る故、三月十八日の祭りは此の三社の神なり。東の随身門より、一の権現の前に出る。一の権現と云ふはあかん堂のことなり。昔、観音、海より上らせ給ふ時、野より雉子来て、羽にて御身体を隠し、雨露に塗らし申さざると云へり。此の故に此の観音、信心の者は雉子を食せず。所の者は雉子を家内にて、他の人にも食せず。

さて、此の三社権現は駒形堂より海に乗せ申し、浅草見付の船着より上らせ給ひ、本通りを本社へ帰らせ給ふ。

いやはや。これはすごい。

戸田茂睡の時代にすでに浅草神社は一応本堂、つまり浅草寺とは別の建物に分かれて、今の場所にあったらしい。また随身門とは現在、二天門と呼ばれている門を言うらしい。浅草神社を出たらすぐ東に折れて随身門を出て、おそらくこの辺りに「あかん堂(一の権現)」と呼ばれた建物があって、そこから今の馬道通りを南下して、駒形堂というところまでいく。これは今も駒形橋西詰の北側にある。ここから神輿を船に乗せて隅田川を下り、浅草見附(浅草御門)、つまりおそらく神田川が隅田川に合流する柳橋辺りの船着き場(蔵前あるいは浅草御蔵のことか)から上陸し、ここから本通りを経由して、鳥越(蔵前)を経て、再び駒形堂を経て、本社に帰っていたのだろう。

今の三社祭と全然違っている。

江戸初期、当時の浅草から吉原にかけてはまだ田んぼや沼が広がっていて人はほとんど住んではいなかったのだろう。吉原が今の場所、当時、竜泉寺村と呼ばれていた場所に移転したのは明暦三(1655)年のことであった。

しかしながら江戸城大手門から浅草まで通る道沿いには後北条氏の時代から既にかなりの人が住んでいたと思われ、また浅草の主たる産業は隅田川を使った水運や漁業であったから、それを生業とする町民らが三社権現の主役であって、また浅草観音は川の中から網にかかって引き上げられたということになっていたから、船渡御というものが、祭りのメインイベントだったのだ。それが三社祭の原型なのだ。

浅草寺に「あかん堂」「駒形堂」なる別館が存在する意味が今ではわからなくなっているが、昔、浅草寺は隅田川と密接に関係していたのだ。だから川と連絡するために、これらの施設が非常に重要だった、ということになる。浅草寺が今ある場所はもともと檜前さんちの在家だったとあるが、おそらくこのあたりで一番開けていて、しかも水害に遭いにくい高台だったのだろう。

関東は、昔未開拓な頃はどこも川と沼だらけだったから、船祭というものが一般的だったのかもしれない。

鹿島神宮では12年に1度、午の年に式年大祭 御船祭(みふねまつり)というものがあって勅使下向もある。

香取神宮にも経津主大神の東征を再現した、式年神幸祭というものがあって船が出る。

大宮の氷川神社もかつては沼自体をご神体とした船祭があった、と言われているそうだ。船に神輿を乗せていたかどうかはともかくとして、関東地方における遷幸、遷宮、東征というものは、もともとそうした、船に軍勢を乗せた大がかりなものだったに違いない。それがいつの間にか氏子のレジャーと化していき、観光目的化していったのだろう。

浅草三社祭に勅使が来るわけはないので、あの馬は勅使風のパレードの演出ということか。

三社祭り2

人混みにはほとほとまいっているのだが、なおさら、もう二度と見たくない、今回一度きりで済ませようと思うので、宮入りは浅草寺の境内に残り、正門から行列が入ってくるところまで見届けて帰った。宮入りは19:00から20:00くらい、となっていたのに、20:30まで待たされた。たぶん、三ノ宮から入って、次に二ノ宮、最後に表参道から一ノ宮が、少しずつ時間差を付けて入るというだんだりになっているようだが、三ノ宮が5656雷おこし屋の前で何度もいったりきたりを繰り返してたせいでめちゃめちゃ遅れた(youtubeのライブでいらいらしながら見てた)。さっさとやってくれよ。

神輿は雷門と宝蔵門をくぐらなくてはならないのでそんなに大きなものは作れない。門の下に吊ってあるでかい提灯は上の方へ縮めてあった。京都の山鉾やだんじり、或いはねぶたのように、神輿や山車が際限なく肥大化する、ということは浅草ではなかったようである。また、日光東照宮にも神輿はあって、江戸では将軍家にはばかって東照宮よりも大きく華美な神輿を作るということはできなかったに違いない。神田明神の神輿もネットに落ちている写真で見る限りそんな大きなものではない。浅草と同程度のもののようだ。

徳川宗家も江戸の町中を馬鹿でかい東照大権現様の神輿を引き回す、などという暴挙に出なかったのは賢明であったが、であればこそ、江戸の神輿はこぢんまりとして地味なものにならざるを得なかった。その代わり浅草では神輿の数が氏子の人数分、爆発的に増えたということだろう。

町会の神輿も浅草神社の神輿も造り自体は同じもののようである。しかしながら、本社神輿、つまり浅草神社の一ノ宮、二ノ宮、三ノ宮の神輿は白い布で覆われて四面それぞれに七つの鏡がついていて、ピンク色の紐で縛ってあるという一種独特のものである。江戸の宮大工が作る神輿は東照宮の建築に良く似ているように思われる。コテコテとして、装飾と彫刻が過多。しかしながらこの浅草神社の神輿は家康入府以前の質素な古態を残しているようにも思えるのである。

東照宮は神社建築と仏教建築を節操も無く混淆させた、家康とか天海とかあのへんの連中の宗教音痴というものがもろに現れた、下品と言って悪ければ悪趣味なものとしか私には思えないのだけど、浅草神社の本社神輿にはある種の神秘性というか、ゆかしさというか、浅草という町を開拓した祖先に対する畏敬の念のようなものを感じた。その原初的形態を想像してみるに、最初はああいう装飾のない、シンプルな、白い布で覆っただけの神輿に本尊(三体の権現)を収めて、神体の姿を象徴する鏡を四面に一枚ずつ貼り付けたようなものではなかったか。それをいつからか七枚に増やしたとか。

町会の神輿には馬に乗った勅使(?)は付かない。神社の神輿だけに馬が付く。1頭、または2頭だったりするようだ。

こういう馬が付くとか、なぜ鏡が七枚あんなふうに配置しているのかとか、ネットで検索してもまったく情報が出てこない。研究者はもう少しちゃんと調べて、マスコミも報道すべきなんじゃないの?

金曜日夜から町会ごとに神輿をくりだして、土曜もやって、日曜は本社神輿各町渡御、のはずではあるがやはり町会の神輿も相変わらず出ているので、とにかく三日間ずっと町会は大騒ぎしている。

いやしかし、都会には次から次へとおかしなやつ(挙動不審、独り言、多動)が現れてきて、祭りのようなものにはなおさらしゃしゃり出てきて、坐ってるとじりじり幅寄せしてくる。気持ち悪すぎる。こういう馬鹿な一般人にいちいち怒っても切りが無いから、絡んできたらシカトするのだがシカトするのが忙しすぎる。もう絶対祭りは見ない。

こういう祭りがもっと人の少ない田舎で、強制参加で村祭りのようなものであったとしたら、参加するのは苦痛であろうが、これだけ大勢人が集まるのだから、祭りが嫌いな人はわざわざ参加していないはずであり、祭りが好きな人だけ好き勝手やっている分には別に私としてはどうということもない。ただ関わり合いたくないだけだ。実際、隅田川の両岸では子供らが祭りと関係なしに野球をやったりしていた。野球は要するにユニフォームを着てみんなで騒ぐという意味では祭りと何も違わない。やたらと野球場を作ってテレビで野球中継するからみんなやっているだけのことで、私も子供の頃はみんながやっているからほかにやることもなくやっていたが、面白いものとは思えない。

田舎だと盆と正月くらいしか人が集まらないからだいたい祭りはお盆にやる。私の田舎もそうだったが、梅雨前のこの時期に祭りをやるのが暑くなくて良いのかもしれない。

マスコミがあまり熱心にニュースで流さないのは、取材がめんどくさいわりに視聴率が取れないというだけのことに違いない。

戦前まで本社には七つの神輿があり、三つは家光が下賜したというがつまり、祭りはやっても良いが幕府の統制下でやれという介入であろう(それによって作り直してそれよりかでかい神輿を作ることも封じられたであろう)。おせっかいなやつである。その三つをそれぞれレプリカを造り、六つ。さらによその町で持て余していた神輿を譲り受けて七つあった、ということらしい。

イオン外米

イオンが4kg税抜2680円でカリフォルニア米「かろやか」を売るそうだが、私が普段ビッグエーで買っているブレンド米やベトナム米よりも安い。発売開始が6月6日というのも、絶妙のタイミングだ。ほんとはもっと安く売れるのだろうけど、値下げ競争が始まるまではできるだけ高値を付けて売りたいというのが本音であろう。

イオンはかつて日本の小売業者を敵に回して懲りている。米の価格が高止まりしているのはイオンに錦の御旗を与えた。イオンの外米を食べて、なんだ普段食っている国産米と違わんじゃないかとなれば、消費者に長年かけられていた呪いがやっと解ける。みんな悪夢から覚めたように外米を食べるようになるだろう。

そうすると結局国産米は今の和牛と同じ運命をたどる。高級銘柄米だけが残って、一部の金持ち、一部の好き者だけが食べるようになり、海外にもばんばん輸出されるようになる。米の値段なんて原価全体からすればたかが知れてるから、旅館や料亭などが国産米を売りにしたからといって別段困ることもあるまい。価格に転嫁すれば済む話だ。今時その程度の金を使いたがるやつはいくらでもいる。

高級銘柄米を作れない農家、或いは補助金に依存する零細兼業農家は淘汰されて農地の整理統合が進み、稲作も多少は合理化されるかもしれん。あまり悪いところが見当たらない。

米は2kgの上はいきなり5kgでその上は10kgでしか売ってない。10kgを3ヶ月くらいで食べきるのであれば10kgを買えば良さそうに思える。イオンは2kgと5kgの間の空白を狙ってきたとも言える。ともかくいろいろと計算尽くで「かろやか」を投入してきている。

ましかしこんなことは私が今更指摘しなくても米業界ではとっくにわかっていたことだ。なるべくしてなるようになる。米は日本人の主食で安全保障上国産しなくてはならないなどという嘘八百はもう通用しない。

残置物

エアコンから雨漏りするので不動産屋に電話した。詳しくは書かないけど、もともと部屋に設置されていた「設備」ではなくて、前に住んでいた人が勝手に付けて残していった「残置物」なので故障しても大家さんは金を出してくれない。とんでもないところにとんでもないやり方で設置されていて、配管なんかももうボロボロになっていて手の付けようがない。修理も撤去も付け替えもできない。やろうとすると新品のエアコンの数倍の金がかかってしまう。もとはどうやって工事したのだろう。

とりあえず応急措置でなんとかなりそうだ。古くて安い物件には何があるかわからん。家賃をケチったのだから仕方ない。

三社祭り

浅草の三社祭りなんだけど初日金曜日の夜から町会ごとに提灯の櫓を建てたり、簡易寄り合い所を作ったり、神輿や、お囃子を載せる車(囃子屋台というらしい)などを繰り出して騒ぐ。土曜日もやはり町会ごとに騒ぐ。一つの町会に神輿1台ずつかというとそうではなく、大人神輿と子供神輿という具合に2台ずつくらいあるらしい。というわけで浅草氏子44町会、合計100基ほどの神輿が浅草で一斉に練り歩き始め、いたるところにテントやら仮設小屋が建てられて道にはみ出していろんなものが置かれ、ブルーシートを敷いて宴会をもよおし、子供はここぞとばかり路上で追いかけっこし、よそからも見物客が来るから交通に支障をきたさないはずがない。昨日も夜中に近所のスーパーに惣菜でも買いにいこうかと家を出たら神輿で道がふさがっていて2箇所ほど迂回せねばならなかった。あちこちから祭り囃子が聞こえてきて祭りの中に没入してしまうという実に面白い体験をした。

思うに、江戸の三大祭り、神田祭と山王祭は将軍家が見物したが、三社祭りはそうではなかったという。将軍だってヒマじゃないわけで何月何日の何時にどこそこに桟敷を作ってその時だけ見物する、ということになるだろう。だから、何日間もだらだら祭りをするとしても、将軍家にお目見えするための数時間だけは、特定の通りを整然と行列を組んで進んだりするのに違いない。そういう下地が江戸時代にできていれば、マスコミとしても、今秋葉原を神輿が通りました、などという絵を撮りやすい。撮れ高を稼ぎやすい。京都でも天皇が町人の祭りを見物するとなると町人も意識するだろう。祇園祭の山鉾なんかも、あれは町人が自分たちのために楽しんでいるというより、日本の首都を訪れる万人の客に見せることを意識してああいうふうになったのに違いない。

三社祭りはそういう公権力の介在がほとんどまったくない状態で、浅草の町人たちが好き勝手にやっていたもので、しかし浅草は当時大阪を抜いて日本一、いや、世界一人口稠密な都市であったはずだから、民間の祭りがとんでもない規模で寄り集まってああいうカオスな祭りが自然発生的にできてしまったのだろう。

最終日、三日目は浅草神社の一宮、二宮、三宮が、町会よりは多少大きな神輿を出すというのだが、これも浅草寺境内はひとごみでごった返していてどこをどう撮ればいいのかマスコミとしても撮りかねようし、まして一般人が見ても何をやっているのか、よその祭りとどこが違うのか、一部を切り取った映像だけではわからないのであんまり面白くない。ドキュメンタリーを作ることもできようが大して注目もされない。だから神輿どうしで喧嘩になった、というようなことくらいしかメディアでは報道されない。もともと人に見せようということを意識してできた祭りではない。純粋に町人が楽しむためにできたものだ。だからマスコミにとってあまりにもうまみがない。

普通の観光客は三日間だらだら三社祭りを見たりしない。せいぜい数時間浅草に滞在してその片鱗を見るだけだ。だから三社祭のすごさなどというものがわからないに違いない。

観音裏辺りの町会の名前は、象一、象二、象三などと呼ぶらしかった。今の町名と違うのでわからんかったがうちの近所でも普通に神輿を出していた。象とはこの辺りがかつて象潟と呼ばれていたことに由来するらしい。

ワークマン最強

ソラマチ、またの名を tokyo skytree、またの名を押上、というところに行った。

ソラマチ、大層な名だが、東武百貨店もしくは東武ショッピングモールと思えばなかなか使える施設である。ららぽーとやイオンモールなんかと比べても優秀だと思う。というのはやはり立地が良いから、立地が良ければ人も金も店も集まるわけだ。郊外型の(車でアクセスする)モールとはひと味違う。開発の余地がもうほとんどない浅草と違い、ほとんど一から開発したこのソラマチは、乗換駅としては最悪だが、買い物をする場所としてはかなり理想的、というか、浅草を補完する存在として非常に便利だと思う。

浅草自体が今日の東京の中では東に偏りすぎている。新宿より西に住む人にとって東京の西の果てはせいぜい銀座までであって、新幹線に乗るには品川か新横浜までいけば十分であり、羽田に行くには京急に乗れば良く、東京や上野、浅草なんかまでいこうとはしない。

しかしながら拠点を東側に移してみれば全然東京の見え方は違う。東武は浅草と日光を押さえているからどう考えても安泰である。そこにスカイツリーが建ってソラマチを開発して、浅草と緊密に連携させれば未来は明るいと思う。人口の稠密さ、商圏としては、新宿より西、世田谷辺りに勝るとも劣らないと言える。

ソラマチにはワークマン女子がある。靴2足とズボン1本(アスレシューズハイバウンスエヴォ27cmネイビー、トレックシューズエンリル27cmメサグレー、ワイドフィットパラシュートカーゴパンツグリーン)を買っても、某靴屋でスニーカー1足買うよりか安い。品質はユニクロや有名国産靴メーカーにも劣らない。これはもうユニクロ一択ではなかろうか。ワークマンは東京スカイツリー駅改札の真ん前の1Fにあり、浅草辺りから歩いてくる、もしくは東武浅草駅から来る人には至極便利である。しかしながらソラマチの中でははずれであって、ここにもまたワークマンのポリシーを感じる。

ソラマチには成城石井は無いが代わりに北野エースというよく似た店があって、ここで塩だけで漬けた梅干しや道本食品の沢庵など買えるのでとりあえず私としてはほぼ用が足りる。ある意味で上野よりも便利かもしれない(北野エースは松屋浅草にもあるようだ)。

例によってビッグエー吉原店にも行って、例によって神明 あかふじ「いつものお米」5kg 3480円を買った。今まで米が安すぎたとはいえ適正価格は 2000円くらいだと思うが、まあ仕方ない。この米アマゾンでは売り切れてるし、ヨドバシで買うと税込みで 4780円もする。何がいったいどうなっているのだろうか。

東武ストアで丸干しイワシを買って焼いて食う。最近は頭もまるごと食べる。そのほうが絶対旨い。

ほていちゃんと鳥椿

ほていちゃんは悲しいことに東京の東半分にしかない。あとは横浜。ほていちゃんが野毛や浅草や上野に、やさぐれた立ち飲み業界に禁煙のくさびを打ち込んでくれたことは非常にうれしい。非常に喜ばしい。禁煙立ち飲み屋の需要は東京の西側でもそれなりに需要はあるはずだ。

晩杯屋は好きだがタバコが臭すぎる。喫煙者の巣窟になっている。ところが町田にも新中野もある。だがほていちゃんは無い。それが悲しい。

私自身はもうすぐ定年でたぶん東京を離れるからどうなろうと知ったことではないのだが、ましかし、職場の近くにほていちゃんができてくれればしょっちゅう通うだろうなとは思う。是非中野新橋に進出してきてほしい。

あとは鳥椿。禁煙。素晴らしい。しかしやはり東京の西側にはない。ほていちゃんも鳥椿も、タバコの煙が充満する東京下町に咲いた可憐な花だ。是非進出してきてほしい。

もっと広報活動が必要なのではなかろうか。どうせ立ち飲み屋は喫煙可能だろうとみんな諦めているのではないか。禁煙の立ち飲み屋もあるんだ(鳥椿は立ち飲みではないが)ってことを世間に知らしめるエヴァンジェリストが必要だ。

JA会長が言う通り米価格は決して高くない。少なくともコンビニでおにぎり買って食ったりウーバーで食い物運んでもらっているような連中が文句を言う筋合いではない。5kg、10kgとまとめ買いするから高く感じるだけで、コンビニ飯のほうがずっと割高だ。2kgの米袋が割安感があるとか頭が悪すぎるがほんとうにそういう考えの人がけっこう多いのだろう。だからあんなにコンビニがはびこるのだ。

しかし私はたぶん今後もう国産米は食べないと思う(輸入米が無ければ仕方ないが)。和牛もずっと前に食べるのをやめた。国産を応援したいのはやまやまだが、すでに経営破綻している農家やJAを救うために何かをやっても無意味だ。

徒然草

「わたしは度たびこう言われている。―「つれづれ草などは定めしお好きでしょう?」しかし不幸にも「つれづれ草」などは未だ嘗て愛読したことはない。正直な所を白状すれば「つれづれ草」の名高いのもわたしには殆ど不可解である。中学程度の教科書に便利であることは認めるにもしろ。」と芥川龍之介は言い放ち、渡部昇一はこれについて「芥川龍之介にはずいぶんと嫌われたものですな。芥川の言葉は若い文学青年の心をとらえるけれども、古希も過ぎ、喜寿も過ぎた者が見ると、何と生意気なことを言っていることか(笑)。いま読んでみると、やはり芥川は若い。全然わかってません、」などと評している(谷沢永一、 渡部昇一『平成徒然談義』)。共著者の谷沢永一は、もう少し冷静に芥川龍之介を理解しようと試みている。『徒然草』には教訓的な話が多く、物語性が強いので芥川がカチンと来たのではないか、自分なら説話物を元にもっとうまく書いてみせる、せっかくの材料を兼好は生のまま放り出している、などと言っている。

徒然草が名高いのは芥川も認めている。中学(今日における高校の文系、もしくは大学の教養課程程度、と読み替えてもよかろう)の教科書に使われていてそれなりの効用があることも認めている。「名高い」のが「殆ど不可解」とは(世間の評判はともかく)文芸作品として高い評価を受けていることが理解できない、という意味合いで言っているのだと思う。

芥川はだから、一種のメジャー嗜好を嫌っているだけだと思う。メジャーなものだけを持ち上げてマイナーなものには価値がないというような考え方が嫌いなのだ。既に有名になったものをさらに褒めても仕方ない。むしろ無名だが価値あるものを掘り起こして世に知らしめる方が徳が高い、と考えているように思えるのだ(もちろん私もそう思う)。

試みに京都書房『新訂 国語図説 三訂版』という学習参考書を見てみると、『枕草子』に二ページ、『徒然草』に三ページを費やしているのに対して、近松門左衛門、井原西鶴、上田秋成、本居宣長らはそれぞれ一ページ、『折たく柴の記』新井白石や『花月草紙』を書いた松平定信はそれぞれ四百字程度、『西山公随筆』を書いた水戸光圀、『なるべし』を書いた荻生徂徠、『独語』を書いた太宰春台などは一字も言及されていない。ちなみに樋口一葉は二ページ、森鴎外は三ページ、夏目漱石には六ページを割いている。小中高および大学生にとって試験に出るか出ないかということは最重要な指標であり、試験に出ないことはイコール存在しないことに等しい。

私も少年ジャンプみたいな小説を書いてくれと言われたことがある。大河ドラマの原作になるような、そのまま映画化されるような、おもしろおかしい話を書いてくれと言われたことがある。それで書いてみようと思ったがどうしても書けない。そういうメジャーなものを書こうとするときには、自分が書きたいことを抑えて、自分が書きたくないところを膨らませて書かなくてはならない。それが精神的に苦しい。苦しくても仕事と割り切って書けば良いのだが、今まで何度も試してみたが一度もできたことがない。ある映画の批評をもっと褒めておもしろおかしく書いてくれと言われたことがある。やはり苦しい。苦しまずに書ける人は世の中にいくらでもいるのだろう。自分が書きたいものというよりは人が読みたいと思っているもの、書けば金になるものを、精神的苦痛を伴わず、むしろ職業的快感とする人がいくらでもいる。そうした人たちがライターをしているのだと思う。

そうでないライターは幸いにも世の中が読みたい知りたいと思っていることと自分が書きたいことが一致しているのである。

僕は時々かう考へてゐる。――僕の書いた文章はたとひ僕が生まれなかつたにしても、誰かきつと書いたに違ひない。従つて僕自身の作品よりも寧ろ一時代の土の上に
えた何本かの
くさ
の一本である。すると僕自身の自慢にはならない。(現に彼等は彼等を待たなければ、書かれなかつた作品を書いてゐる。勿論そこに一時代は影を落してゐるにしても。)僕はかう考へる度に必ず妙にがつかりしてしまふ。

これは「続文芸的な、余りに文芸的な」に出てくる文章だが、私もまったく同じことを考えたことがある。アインシュタインの相対性理論にせよ、彼が思いつかなくとも、彼よりか半年か一年、せいぜい十年以内に同じことを言う人は現れたに違いない。

渡部昇一は「平成徒然談義」という本を書くにあたり、徒然草を思い切り持ち上げなくてはならなかった。なぜかというに自分の書いた本が売れて評判になるほうが良いに決まっているからだ。そのために彼は芥川を批判し、徒然草以外の随筆(たとえば枕草子)を貶め、或いは徒然草以外の中世日本文芸史を無価値なものとみなそうとした(徒然草を褒めたきゃ勝手にやれば良いのにそれ以外のものを相対的に貶めなくては気が済まないとすればそれはサドだ)。そういうことに特別躊躇なくできる人だったのだろう。芥川龍之介の周りにいた人たちもそうした人たちだった。菊池寛とか中村武羅夫とか。出版業界には基本的にはそうした人たちしかいない(基本的には)。そういう状況ではメジャーなものはよりメジャーになり、マイナーなものはよりマイナーになるしかない。

世人は新らしいものに注目し易い。従つて新らしいものに手をつけさへすれば、兎に角作家にはなれるのである。しかしそれは必ずしも一爪痕さうこんを残すことではない、僕は未だに「死者生者」は「芋粥」などの比ではないと思つてゐる、のみならず又正宗氏自身も短篇作家としては、「死者生者」を書いた前後に最も芸術的ではなかつたかと思つてゐる。が、当時の正宗氏は必ずしも人気はなかつたらしい。

「新らしいものに手をつけさへすれば、兎に角作家にはなれる」とはつまり「芋粥」のことだ。「芋粥」であれば、自分で書かなくてもいつかは誰かが同じようなものを書くだろう、一方、正宗白鳥の「死者生者」という作品は彼を待たなくては書かれなかった。「死者生者」はいまだに不評判だが「芋粥」は幸いなことに人の記憶に残った。そのくらいのことを芥川は言いたいらしい。

芥川には出版業界に対する暗澹たる不満があった。世の中で評判なものをことさら愛読する、ということはしたくない、ということを芥川は言いたかったのではないか。

「死者生者」は国会図書館デジタルコレクションで読めるので読んでみたが、何が面白いのか良くわからん話であった。

そういえば私も「芋粥」のように中世の物語を現代文で脚色してカクヨムに載せていたことがあった。「偽検非違使判官、僧都を欺く事」というもので、せっかくなのでここに引用しておく。

これもさほど遠くはない昔の話だが、奈良の興福寺に説法の上手と名高い、隆禅律師と号する僧都がいた。京都で按察大納言藤原|隆季《たかすえ》が催した法事に導師を勤めて、施主の隆季からたくさんのお布施をいただいて、庫裏《くり》に泊まっていると、外から門を叩く者がある。節穴からのぞいて見ると、そこには一人の尼が立っていた。
「お坊様。突然失礼いたします。私は大和の国から来ました。今日は亡き夫の命日で、墓参の帰りなのですが、途中気分が悪くなり、休んでおりましたら遅くなり、もう日が暮れてまいりました。とうてい家に帰りつくことができそうにありません。申し訳ありませんが、一晩こちらに泊めていただけませんでしょうか。」
ははあなるほど。亡くした夫の菩提を弔うために若くして仏門に入り、夫の命日に一人で墓参りに行った、その帰りであるか。
隆禅は尼をつくづくと眺めた。まだ若い。やっと三十路を過ぎたほどであろうか。夫を失ってまだ間もない、独り身の後家なのであろう。
隆禅は尼の顔が美しく、声がきれいなのにボーっとしてしまった。
「それは難儀なさいましたな。拙僧がそなたの夫の冥福を祈り、念仏を唱えてあげましょう。
おなかもさぞすいておろう。夕餉を召し上がるか。私たちと一緒に囲炉裏をお囲みなさい。夜着や布団もお貸ししましょう。」
そうして隆禅は親切に、尼に食事を与え、彼女を庫裏に泊めてやることにした。

暫くして、また門を叩く者があった。
「検非違使庁からの使いである。」と言う。
「先ほどここに尼が一人来たであろう。あの女は多くの盗みの容疑者として訴えられている者なのだ。決して逃がしてはならない。後ほどまた来る。」と言って帰った。
「尼よ、おまえは盗人なのか。私を騙して、物を取ろうとしたのか。いま検非違使庁から使いの者が来たぞ。申し開きしてみよ。」
隆禅は女を問いただしたが、しかし女は頑として、一言も口をきこうとしない。
そこで隆禅は尼を縄で縛りあげて、捕吏が到着するのを待った。

夜が更けて、また戸を叩く者がある。検非違使判官と名乗った。
「この尼を連行しようというのだろう」と思って、中に入れて、僧自ら対面した。
「この女に間違いありますまいか。」
ところがこの判官と名乗る者、いきなり僧の腕を捕らえて、刀を抜き僧の脇にさし当てて言う。
「動くな。いいか、ここにじっとしていろ。下手な真似をすれば即座にこの刀でおまえを刺し殺す。坊中の者どもも、決して声を上げたり、物音を立てるな。
おい坊さん、おまえ、今日たんまり檀家からお布施をもらっただろう。どこにある。」
「ここです。」
「蔵の鍵も寄越せ。」
「はい。」
男は尼を縛った縄を刀で断ち切り、塗籠《ぬりごめ》や蔵を引き開けて、資財・雑物などを運び取って、馬十頭に背負わせて、隆禅を馬に乗せて、東山の粟田口へ連れていった。
尼は僧に言った。
「お坊さん、命だけは助けてやるよ。でもこのことを検非違使庁に訴え出れば、三日のうちにおまえを殺しに戻って来るぞ。わかったか。今ここで神仏に誓え、決して訴えぬとな。」
「誓います。」
尼と偽判官は、隆禅を道に残したまま、馬を伴って悠々と逢坂の関を東へ越えていった。

研究人生

暗号理論というものは敵の暗号を解くために必要とされたので、緊急性、重要性が高かったから第二次世界大戦の時に飛躍的に進歩した。ロケットを飛ばす技術も軍事目的で開発されてそれがアポロ計画となり、ソ連の有人人工衛星となった。原爆や水爆の開発競争もしかり。いずれも短期間に国家予算を湯水のように注ぎ込んで無理矢理実現させたのだ。

一方人工知能の研究に関しては、ニューラルネットワークやマルコフ連鎖などの基礎理論は、やはり相当早い時期に提唱されていて研究も進んでいたのだが、暗号や原爆や宇宙開発からはずいぶんと遅れてやっと最近になって実用化されつつある。なぜなのか。

一つには、人工知能を開発したからといってそれがただちに戦争に利益をもたらさなかった(何に使えば良いか誰にもわからなかった)からだろう。もう一つは計算能力が圧倒的に不足していた。初期の電子計算機は大砲の弾道計算に用いられた。もちろん軍事目的だ。ただしそれは単にニュートン力学を用いたシミュレーション程度の計算に過ぎず、今なら電卓でも計算できる。そんなちゃちな計算力しか当時はなかった。さらにはビッグデータというものが当時はなかった。

膨大な計算能力と膨大なデータの蓄積があってやっと人工知能はある程度人間に匹敵する程度の知能を備えるようになった、ということなのだろう。第二次世界大戦当時、原爆開発に匹敵するくらいの頭脳と資金を投じても、人工知能は実現しなかった。

昔、私がまだ30才かそこらだったからもう30年近く前だが、飲み屋で、月に人が行けるくらいの予算を使えば人工知能もいますぐ実現するはずだ、と言われて、返事に困ったことがあった。月旅行なんてだいたいニュートン力学くらいの簡単な数学で実現できるが、人工知能はまだどんな理論が必要かさえわかっていないからだ、ということを説明しようとして、なかなかわかってもらえなかった。

今思うに、当時私はマルコフ連鎖もニューラルネットワークも三層の深層学習も知ってはいたが、これらがものの役に立つなどとは到底思えなかったのだ。しかしながら今のプロンプト型の生成AIというのは当時すでに知られていた理論の発展形に過ぎない。基礎理論はもう30年前にはあらかたできあがっていたのだった。私の同僚にマルコフ連鎖の研究をしていたポーランド人がいた。彼は今は実業家になっているようだが、一生研究者でいたければ私もずっとマルコフ連鎖の研究をしていればよかったかもしれない。私の一年下の後輩はニューラルネットワークの研究をしていたが彼は今や相当な大物になっているようだ。私はずいぶん中途半端な人生を送ってしまった。まあしかしこれはこれで仕方ない。

米の値段

米の値段が下がらないのは、生産者、米農家や農協、農林水産省のせいばかりではないと思える。消費者が日本の米を食うことにこだわり続ける限り、行政も変わらないし、農家だって高く売れるほうが良いに決まっているんだから、米の値段は下がりようがない。

日本産の米にこだわる必然性はほとんどない。日本人の多くはしかし米は日本産に限ると思い込んでいる。または思い込まされている。非常に保守的だ。保守というがたまたま戦後はそうだったというだけで、江戸時代じゃあるまいし、米がまったく輸入されてこなかったわけではなく、国産米にこだわってきたわけじゃあるまい。そもそも日本人も今や米ばかり食っているわけではない。米よりも小麦が食えなくなるほうがずっと大きな打撃だろう。小麦はほとんど輸入に頼っているにもかかわらず。米が国産かどうかなどということは全体から見ると些細な、プライオリティの低い問題に過ぎない。そもそも石油が輸入できなくなった時点ですべてが終わる。米が輸入できるかどうかなんて言っている場合じゃない。

たいていの人は米というと頭に血が上って冷静な思考ができなくなる。玉子や生乳のように日持ちしないものは国産に頼るのが合理的だが、米などは世界中で栽培して世界中から輸入するのが良いに決まっている。中国インド、東南アジアなど稲作地帯は人口の稠密地帯であるが、北アメリカでもオーストラリアでも栽培できるんだから世界中どこでも育つに違いない。南米でもアフリカでもどこでもジャポニカ米を栽培すりゃいいだけのことだ。なぜそういうところに日本の外交努力を注ぎ込まないのか。農協や米農家の陰謀ではあるまい。消費者が馬鹿なのだ。消費者はいつも他人を攻撃し不満を言うだけで何も考えようとしない。大衆が馬鹿だから大衆を煽るしか能の無い馬鹿メディアがはびこるのだ(大衆が先かメディアが先か問題)。

私はあの和牛の霜降り肉が、やたら高くて脂がべちゃべちゃしてぶよぶよしてて大嫌いで、あんな病的で気色の悪いゲテモノがちゃんとした肉食文化のある国で受け入れられるわけないと思っていたが、今では世界中で一定の需要があるらしい(ちゃんとした海賊文化があるイギリスやスペインでもワンピースが流行るようなものなのだろう)。つまり国産の、比較的高価な牛肉が国際市場で通用しているということだ。日本酒にしても日本の米にしても、高級路線に特化して海外で売りまくれば良い。その代わり安くて普通の米は海外から買えばよい。米が不足しているのになぜ米を輸出しているのかなどと言ってる連中は経済がそもそもわかってないのだろうか。煽りたいだけなのだろうか。政府を攻撃したいのだろうか。

脂身と赤身が分離した固くて歯ごたえがある肉はアンガスとかオーストラリア産を輸入すりゃいい。だれでも格安で海外旅行できて、アフリカの海で採れたタコを輸入するような、極限まで流通が発達した現代で、国産だけでどうにかしようという理由がない。なぜそういう風潮にならないのか不思議でならん(天照大神の呪縛だろうか。ならば神道ごと稲作栽培を世界に普及させれば良い)。