雨の日は良い

浅草はふだんが混みすぎなので雨の日が良い感じにさびれていて、一八そばのある通りも、いつもより風情がある。君塚食堂もがらがらで店員のおばさんが三人、手持ち無沙汰にだべっているのもBGM代わりにちょうどよい。

浅草にはだるまという名前の店がいくつかあるが、一番有名なだるま(ホッピー通り角)には今まで行かずにいた(初音小路のだるまにはときどき行く)。ここのおばさんはもう50年間この店で働いているというから働き始めは昭和50年、当時はすごく若い娘だったのだろうと思いながら眺めていた。

普段は忙しくて話もできないのだろうが、客が私一人だったので、けっこう話しかけられてうれしかった。この店は来やすいと確信した(お店の人があまりしゃべらない店だと、こちらから話しかけて良いのかわからず馴染むまでかなり時間がかかる。ワンオペの店だと特に馴染む前に気まずくなってしまうこともある。私はここにいていいのだろうかと)。あまり気兼ねしなくて良い、何しろ外から空いてるか混んでるか丸見えだから、忙しそうな時にはこなきゃ良いだけだ。テレビで何度も放送されているそうで写真を撮ってもかまわないとも言われた(私はあまりブログやツイッターなどで店名をさらさないほうだがここはかまうまい。ほていちゃんなどのチェーン店はかまわず記載している)。古態を留めた浅草を代表する店の一つだと言って良い。

浅草は雨の日に散歩するのも楽しいので、散歩用に雨合羽を買った。合羽橋には売っていなかったのでヨドバシで3000円くらいのを買うことにした。

ちなみにこの日、ほていちゃんは割と混んでいた。

ドナルド・キーン再説

このブログはもうずいぶん昔(私が30才台の頃)から書き散らし書き殴っているもので、手直し・書き直しが必要なのだが(改編するというわけでなく書式などのメンテナンスが必要ということ)、ふと、25年も前(ということは35才の時)ドナルド・キーンついて批判している文をみつけた。

ドナルド・キーンドナルド・キーン2ドナルド・キーン3宣長の違和感原勝郎「山月記」はなぜ国民教材となったのか

どうであろうか。すでに書いたことはできるだけ繰り返さないが、司馬遼太郎がとんでもない歴史音痴なのは今更どうしようもないとして(そういえば合羽橋に行ったとき台東区立図書館の池波正太郎文庫に行ったら司馬遼太郎の本まで置いてあった。あれはけしからんことだ。ちゃんと分別してほしい。合羽橋には雨合羽は売ってなかった)、ドナルド・キーンはなぜよりにもよって、足利義政に興味を持ったのか。他に面白そうな人はいくらでもいるのになぜ義政の本をいくつも出したのか。

25年前の私は彼が先に、京都人か誰かに感化されて室町文化、東山文化に興味をもちそこから義政に興味をもったのではないか、と推測しているのであるが、それは原勝郎という人が

書畫、茶湯、活花、又は連歌、能樂等に關係した方面に興味を持つた場合であるので、一口に之を評すれば骨董的興味から觀察した足利時代であつたのである。

と言っているのと同じだ。しかしそれだけでなく、今思うに、彼は義政を彼のライフワークである明治天皇にぶつけて、日本という国の典型的な最高権力者(しかも権威的な、象徴的な意味での)の、特に際立った、特徴的な二人の例を挙げて比較してみたかったのではなかろうか。

この、ドナルド・キーンという人に取り上げられたことは義政にとって非常に迷惑なことであった。同時に、明治天皇にとってもまったくありがたくはないことだったと思う。ドナルド・キーンによって日本史研究は多少とも進歩したのだろうか?非常に疑問だ。司馬遼太郎を引っ張り出してきてこんな対談をして合いの手を打たせたりするようでは、たかが知れている。むしろ日本史に対する誤解を再生産し変な箇所をことさら膨らませて奇形にしただけだったのではないか。

ドナルド・キーンという人が義政を「ろくでなし」「気違い」などと考えたということは(それを後白河法皇に対して言うのであればまだわかる気もする)、彼にそう思わせ、そう言わせた日本人が彼の周りに相当数いたということだ。また北条泰時のような天才に対して「鎌倉時代の北条三代というのは、無学でしたけれども、一生懸命政治をします。」などと発言していることも、彼がちゃんと自分で調べなかったせいというよりは、当時の日本の歴史観というものがそうしたものであった、特に、京都人はことさらに応仁の乱を馬鹿にして義政をあざけって悦にいり、鎌倉北条氏をおとしめて溜飲を下げていたのだろうと思われるのだ(ドナルド・キーンとどこかの公家の子孫が茶室かなんかでそんな話をしているシーンが目に浮かぶ)。足利氏にしても京都人にとっては北関東からでてきた野蛮人程度の認識なのだろう。

司馬遼太郎のように、室町将軍のことも応仁の乱の意味もなんにもしらずに、「どうも後世から応仁の乱を考えると、無意味で、どうしようもなくて、ただ騒ぐだけの戦争ですが」と放言する輩が戦後日本には大勢いたのだろう(たぶん今もおおぜいいる)。

私は高校で日本史をとらず世界史を取った(とすでに書いているけれども)。どこかで日本史を小馬鹿にしていたのだと思う。当時の新聞が読むに値しなかったように、日本史などというものは学ぶに値しないものだと思っていたと思う。そしてのちに「日本外史」で日本史を一から独学した(これもすでに書いている)。江戸時代の人は室町時代を良く知っていた。今の私たちが明治時代を熟知しているように。

今の人たちはかつて関東で利根川を挟んで、西関東と東関東に分かれて戦争をしていた、なんて話をまったくしらない。は?それはいったいどんな歴史創作ものですか、何かちょっと面白そうですねなどと言われる。れっきとした事実である。そしてそれにそれを元ネタにした小説ももうある。江戸時代に滝沢馬琴が書いた南総里見八犬伝がそれだ。太田道灌や、北条早雲やその子孫らがどんな戦争を闘ったかなどということも、彼らの名前だけ知っているだけだ。江戸城も川越城も元はといえば、西関東を支配する関東管領上杉氏の家宰太田氏が、東関東の古河公方と対峙するために建てた城だ。

応仁の乱で京都が戦場になった、戦に焼かれてお寺もボー、などという話は良く知っているくせに。関東に生まれ育った人でもよっぽど郷土史に詳しい人しか南総里見八犬伝のベースとなった関東の歴史を知らない。自分が住んでいるところの郷土史としては知っていてもそれが日本史全体の中でどういう文脈にあるかを認識していない。

京都と関東は連動していた。京都しか見ていなくて応仁の乱がわかるはずがない。義教が関東をぶっ壊したせいで、関東は大乱となった。義政はそれをなんとか収めようとして余計火に油を注いだ。義政が何もしなかったのではない。無能だったのでもない。嫁の日野富子の尻に敷かれていたせいでもない。不可能だったのだ(もし義政が強権を発動すれば義教や義輝のように家臣に暗殺されるか義昭のように京都から追放されるおそれがあった。勢い合議制にならざるを得ず、細川、山名などの大族には遠慮せねばならぬ)。

京都の室町将軍と関東の鎌倉公方はもともと尊氏の息子たちだったがだんだんに血が遠くなり、足利本家の室町将軍と分家の鎌倉公方が対立するようになって(江戸時代に徳川氏が御三家、御三卿どうし対立しなかった(少なくとも戦争には発展しなかった)のは足利氏の前例を学んでいたからだ)、関東の方が先に幕府体制が崩壊していき、それが京都へ逆流してきて応仁の乱になった。足利将軍が守護を任命して日本全国を支配するという制度は東から西へと崩れていった。その全体的な流れを説明しなくては応仁の乱も戦国時代もわかるはずがない。日本外史を読めばその流れはわかる。南総里見八犬伝を読めばだいたいの雰囲気はわかる(あれを通読する人は滅多にいないとは思うが)。江戸時代の、京都の人はともかく、関東に住んでいた人たちはみんなわかっていたはずだ。ところが今の日本史では室町時代をほとんどまったく教えない。ただ京都室町御所で茶の湯がー、申楽がー、書院造りがー、連歌がーと芸能にうつつを抜かしていたら突然青天の霹靂のごとく応仁の乱が勃発し、義政は銀閣寺を建てて政治から逃避し、日野富子は義政を尻に敷き、ぐだぐだ戦争が続いて日本全体に波及して戦国時代になった、くらいのことしかいわない。で、司馬遼太郎の書いたものばかり読んでいる。室町時代がわかるはずがない。

私も関東に住み、東京神奈川、埼玉や千葉などあちこち経巡ってきたせいで、関東のことがだいぶわかるようになってきた。東京は日本の首都であるはずだが、日本人は関東のことをわかってない。

ともあれ。私が最近書いた本でも(いつ出版されるかわからないが)ドナルド・キーン批判をしたのだった。彼はいろいろわかってない。それはやむを得ないことだ。しかしながらみんなドナルド・キーンの研究はすごく優れたものだと思い込んでいて、実際にはろくに読んでもいないし、ちゃんとした検証などまったくされていない。これは困ったことである。

根岸の里

よせば良いのに、山谷堀から墨田公園まで歩いてみたのだが、人が多くて騒々しいだけだった。待乳山もただ人が多いだけ。美しくもなければ気持ちよくもない。江戸の情緒なんてひとかけらもない。花見がしたければ浅草以外のどこかへ行ったほうが良い。

私のようなせっかちな人間が人混みを歩くことほど危険で、精神をすり減らすことはない。早朝や、平日の午後などに移動することにしよう。

下は、昨日雨の中、根岸の里という公園で撮った写真。人はおらず鳩が大量に群れていた。こっちのほうが美しくてなごむよね?

謎のコッペパン専門店にも行った。観光地でもないのに食べ歩きなどしてしまった。ほとんど人はいなかったので迷惑はかけてないと思う。

根岸の里と言っても、正岡子規の庵がある辺りはゴミゴミしてるし車も多いし、タバコ臭いし、「根岸の里のわび住まい」どころじゃないから、寄りつきたくないんだよな。

メンタルが急速に弱まっていくのを感じる。twitterもむやみにフォローするのはやめる。フォロワーを増やそうなんてことはもうやらん。自然に減っていってそのうちフェードアウトするのが良い。twitterには極力書かないようにするし、他人ともからまないようにする。精神衛生上ここのブログには適当に書くとして、その他のSNSにもできるだけかかわらないようにする。実生活でももうこれ以上人付き合いを増やすことなく、特に親しい人以外は会わないようにする。

そうやって社会とのつながりをどんどん断ち切っていったからといって、この世ではもうこれ以上やることもないのだからなんの問題もない。これまでは仕事してお金を稼がなくてはならないからむりやり社会に出て行った。それももう必要ない。やることがなくなりすぎて、退屈で死にそうになるのが困るかもしれないけど。

置き配

50GB以上使うと通信速度が月末まで128kbps制限になるっていうwifiルーター使っているんだが、twitterやgmailなどは割と非同期通信でもってなんとかなるものだ。youtube や youtube music はだましだましつかっているがバッファリングでなんとかなるところもあるんだが、やはりだめだなあ。ともかくいまどきこんなんじゃ使い物にならない。新年度の予算で通信制限がかからないwifiルーターを買いなおす。

上野の某漬物屋で沢庵を買ったのだけど失敗した。店構えが立派なのと、宮崎産で昔ながらの製法だと書いてあったので失敗した。甘味料を使いすぎているし、歯ごたえがしゃりしゃりがりがりしててあんま漬かってる感じがしない。梅干しと同じで、原材料名をちゃんとみなくちゃダメだ。塩と麹だけで作ったものにしなくては。なぜみんなこんなに甘くしてしまうんだろう。梅干しもはちみつ入りばかりだ。

梅干しに関しては、曽我梅林、熱海梅林、越生梅林のようになんとか梅林という名前のものは、外れが比較的無いように思える。梅の実と塩だけで作ったものが良い。紫蘇入りまではギリギリ可。そこ守ればだいたい外れない気がする。湯河原のように梅林があっても梅干しは作ってないところもある。

日本酒も私にとって甘すぎるものが多すぎる。よくまああんな甘いものを飲みながら食事ができるものだ。菊正宗や高清水くらいまでが私には限度。ワインにも甘いものが多いし、紹興酒なんかも甘いから、別に日本の酒だけが甘いわけじゃないのだろうが。

それはそうと浅草に部屋を借りて初めてアマゾンで買い物をした。配送業者がアマゾンの場合には原則として置き配になるという。まあそれでもいいかと思った。靴を買ったのだけど、同じものがヨドバシカメラでも売ってて、しかし、アマゾンのほうが安かったからアマゾンで買ったんだけど、私としては得体のしれない業者に置き配されるくらいならば、素性のしれた(ちゃんと制服を着た)業者が配達してくれるところから今後は買おうと思った。

靴というのはテクシーリュクスなんだが、ヨドバシで売ってるビジネスシューズはテクシーリュクスだけなんだな。昔よりも少し高くなったような気がするが、これからは多少高くてもちゃんとした業者からちゃんとしたものを買うようにしたい。

歌だけは残ってほしい

実際私は哲学とか思想というものにまったくなんの価値も認め得ない。ただのたわごとだと思っている。「寝ぼけた人が見間違えた」ものだと思っている。それゆえ当然哲学者というものになんら存在価値も認めないし敬意を払う気持ちもない。宗教に対しても同じだ。

宗教や思想などというものがすべて失せてホモ・サピエンスが登場した時代にさかのぼってもなんら惜しいとかもったいないとは思わない。むしろそのほうがずっとさっぱりしてすがすがしいと思う。私はコロナ騒ぎを見て、人類の進歩というものに対する一切の幻想を失った。人類(の精神)はまったく進歩していないし、今後も進歩することはない。人間社会を進化させようとするのはまったく無駄な努力だ。

人類が滅亡することにもなんら惜しいという気持ちはないしまして悲しいとか哀れを感じることもない。人類はこれまで当然滅びてしかるべきことばかりしてきた。報いをうけてしかるべきだとは思うが、それ以上何も人類に期待するものはない。人類は単に不完全な、偶然、自然発生的にうまれた種に過ぎず、それ以上の、なにか崇高で特別な存在ではないし、これから完全になることもなければ、完全に近づき得る存在でもない。

しかしながら私は、人類が滅びることによって私が詠んだ歌が失われることは、もったいないと感じている。人類があとかたもなく滅んでしまっても別になんとも思わない。そんなことは私にとって痛くもかゆくもない。もし人類に代わる何かの知的存在が私の歌を記憶していてくれればそれで十分だ、と思える。

私が書いた小説などみな消え失せてもかまわない。私が書いた論文など紙屑になってもかまわない。しかし私の歌は何とか残ってほしい。日本人とか日本とか人類とか芸術とか真理とか、そんなものにはまったく興味はない。

ただ私の歌だけは残ってほしいと思う。

私には昔からそうした傾向があったと思う。私はいつも、研究するときには、自分が人類であるからこの研究をしたのか、それとも私の研究は人類以外にも理解されるものであろうか、人類以外の存在にとっても価値があるだろうか。そういうことを考えていた。もし人類にしか価値の無い研究であればそんなものはもともとなんの価値もないと思っていた。自然科学の研究をしていても歌を詠んでいても、結局私は人類というものをまったく信用してはいなかった。人類ではなくもっと、なにかもっとアブストラクトな存在のために仕事がしたいのだと思う。

であればこそ、周りの人や、職場の同僚や、雇用主や、国や地方自治体や民間企業に認められようという気にはまったくならなかったのだ。それではいっこう、良い気持ちにはなれなかった。承認欲求も満たされなかったのだ。

ワンオペ個人店

浅草に越してきてだいぶ暖かくなってきた。そろそろ花見だうれしいなという浮かれた気持ちにはなれない。これから先暑くなって下水の匂いなどがけっこうきつくなってくるのではないかと今から恐怖している。

浅草でいろんな店を開拓してそれはそれで面白いんだけど、私は昔からワンオペでやってる個人の居酒屋なんかが好きなんだと思っていた。今でもそうなんだが、しかしワンオペの店というものは店が混んできたりするとみていて非常に気の毒というか痛々しいというか、こっちのメンタルまでやられてくる感じが最近するのである。たぶんこれは私が年をとってメンタルが弱くなったせいもあると思う。もちろん私一人が行こうがいくまいがそれで店が忙しくなったりヒマになったりするわけじゃないんだが、とにかく気をつかう。いつもガラガラの店ならそんな気にすることはないが、繁盛店だとすごく気をつかう。なので、鳥椿とかほていちゃんのようなチェーン店に行くのが吉な気がするのだ。

あと中国人のやってる中華とか。これもガラガラならば快適なのだが、どんどん客が入ってきて、しかも店員が延々と団体客にメニューの説明してたりすると、いらいらしてくる。

要するに私は混んでいる店が嫌いなわけだから、そういう影響を受けにくい店にそういう状況になりにくい時間帯に行くしかない。という結論になるわね。

中華生麺

生パスタ麺よりは中華の生麺のほうがコスパが良いと聞き、中華生麺を生パスタ代わりに使って食べているのだが、普通に食える。3玉か4玉まとめ買いすれば、1玉あたり70円くらいだろうか。米が高止まりしている昨今、麺を主食にするのもアリだ。

スーパーでは割と中華の生麺が売られているのだが、豚骨スープなんかは自分で作るのは無理だが、あっさりした塩ラーメンや醬油系のラーメンなら自宅で作るのもそんなに難しくはなく、需要があるのかもしれない。まさか私のようにパスタ代わりに使っている人がそんなにいるとは思えない。

年寄りのメディア離れしなさすぎ

私は高校生の頃から新聞を読まない人だった。というより、某新聞が大嫌いだった。大学生になるとテレビもほぼ見なくなった。最後まで見ていたのは俺たちひょうきん族くらいだった。

町で指のない男が某大手新聞を取れと脅してきたのでその新聞も二度と取るまいと思った。しかしながら、比較的嫌いではない新聞は取って読んでいたのだが、日経もまたいやになってやめ、最後はしばらく、消去法で残った産経新聞を取っていたが(主に折り込みチラシ目当てで)、それももういいかげん要らんだろと思ってだいぶ前にやめた。

今の若者は新聞もテレビもみないと、私の同世代の人たちは嘆く。ツイッターとかユーチューブばかりみていて「一次ソース」をみて確かめないと(笑)。

なるほど。新聞は一応一次ソースであろう。週刊文春も、時事通信も、共同通信も、テレビ番組も、一次ソースかと言われれば一応、マスメディアなので一次ソースなのであろう。その一次ソースが信用できないんだから、その信用できない一次ソースで確かめたって意味ないだろという問題なわけじゃないですか。

マスメディアだろうと個人配信だろうと一次メディアは一次メディアであって、個人配信でもきちんと自分で裏を取って配信している人はいる。マスメディアだっていわゆるこたつ記事というやつで、実際に取材しないで勝手に書いてる記事もある。現場に赴いて、もしくは現地の人と接触して、独自取材しているものが一次ソースであり、マスメディアか個人かということは関係ない、個人メディアもマスメディアもスポンサー、或いはSNSの運営会社の顔色をうかがって記事を書いているから大差ないってのが、今のメディアリテラシーであろう。それを判断するのはニュースを取捨選択する個人しかない。株を買って儲けるか損するかも自己責任だし、どのニュースを信用するかも自己責任。何を信用するか見誤れば陰謀論にはまってしまうかもしれないがそれも自己責任。誰も信用できない。AIも、自分自身さえも信用はできない。

そもそも「一次ソース」というのは生のデータのことだ。嘘も本当もゴミも宝石もまぜこぜになっている。一般人にはそのままではわからん。だから選別して加工する。マスメディアがいう一次ソースというのは一般人向けに調理加工されたものであってすでに一次でもなんでもない。報道する側の意図で方向づけされ味付けされてしまっている。

研究の世界だって同じで、論文がたくさん書けそうな新しい研究テーマがみつかるとイナゴのように群がり集まって、人の論文を適当に見繕って、先行研究をちょこっと手直ししただけの薄っぺらい論文を通して業績を稼ぐ。そんなの民間企業の営業や開発と同じだろ。何がしたくて研究者になったんだよ、研究がしたくて研究者になったんじゃないの、って思うことが多々ある。商売で取材しているメディアだってまったく同じことだ。ツイッターがインプレッションで、ユーチューブが再生回数や再生時間で(つまり広告収入で)コンテンツを最適化させるのと何も違わない。そんなソースが信用できるはずがないだろ。そんなことは当たり前じゃないか。そういう事実に目をつぶっているのか、それともほんとうにわからないのだろうか。

そういうことをおそらくまったくわからず、テレビ離れ、新聞離れしている若者もそりゃいるだろう。大半はそうかもしれない。が、十分わかったうえでテレビ離れ、新聞離れしている若者はけっこういるはずだ。テレビはしょせん洗脳装置だ。新聞はしょせんプロパガンダだ。今の若者は幸せなことに昔と違って選択肢の幅がある。選ぼうという意思があれば選ぶことができる。昔はそれすら容易ではなかった。

年寄りと話をしていると、メディアに対する考え方、信頼性が何十年も前からまったくアップデートされていないことを感じる。実に嘆かわしい。10年前のOSや言語やデータベースを未だに使い続けているようなものでセキュリティ上危なくて仕方ない。

そういう私だって昔からテレビや新聞が嫌いだったから、今も同じように嫌いなだけかもしれんが。人は変われない。年をとったら若者の感性からどんどん離れていく。年寄りたちが若者にあいそをつかされるのも無理はない。年寄りには若者が間違っているように見える。しかし歴史的にみれば間違っているのはどちらかと言えば年寄りのほうであった。もちろんナチスや学生運動、オウム、コロナ騒ぎ、ポリコレのように若者が過激思想にかぶれて暴走することもある。しかし年寄りもまた自分の価値観を更新できない。若者が間違っている、SNSが間違っていると決めつけてそれ以上疑わない。思考停止。老害。死による以外その弊害からまぬがれることはできない。だから私たち老人は若者の迷惑にならぬよう、後進に道を譲り、静かに世の中から退場するしかない。

これさあ。まず、アインシュタインを使って説得力を増そうとするところが姑息だよな。それにこれ見る限り、歴史はユーチューブ動画見ていれば小学生でもわかっちゃうわけだからわざわざ大学で学ぶまでもないって結論にならないか(笑)。

科学は哲学じゃないんだろ?じゃあ、科学者に哲学を語らせてはいけないんじゃないのかな?科学者はただ単に科学的真理を追究することに長けた人に過ぎないのに、どうして哲学的考察ができると考えるのかな?そこ、めちゃくちゃ安直すぎじゃね?戦争が得意な将軍においしいコーンポタージュの作り方を教わろうとするようなものじゃね?たまたま偶然軍人に料理人としての才能があるかもしれない。しかし、全然畑違いでそんな知識もスキルもないのが普通じゃないの。アインシュタインは別だって?それってあなたの感想ですよね?

少なくとも科学者がいうことが哲学になってるかどうか疑う必要があるんじゃないの?さらに言えば、何が哲学で誰が哲学者なんてことは誰にもわからないし決められないし、哲学を学ぶとは何かってことさえ哲学に決められないとしたらそもそも大学で哲学を学ぶ必要はないんじゃない?

科学は道具で、大学は道具の使い方を学ぶところ、生き方は人それぞれなんだから、それぞれが考えれば良くて、人生の目的はそれぞれがユーチューブ動画でも見て見つければ良い話で、大学の大講義室で一斉授業するのには適してないんじゃないの?

芸術や芸能、文芸などはスキルを学ぶ側面があるし、その習得に4年間必要だというなら大学という機関で学べばよい、ただそれだけじゃないかな。哲学にも思考訓練が必要でまた一般知識を身につけるだけの時間が必要だから大学で学ぶ。それでいいんじゃないの。

科学は道具であり、使い方を間違えれば危険であり、科学はその危険性を教えてはくれない。科学は何物かによって制御されねばならない。その通り。では哲学はほんとうにその方法を教えてくれるのかな。哲学で科学を制御しようとするからフランス革命とか文化大革命みたいなことがおきるんじゃないの?科学にできないことを哲学ならできる、みたいな言い方をするのはよろしくないよね。どっちもどっちだろ。科学同様哲学も十分危険なんだよ。それを哲学自身が解決できると考えること自体単なる思い込みだろ。

通勤客の負のオーラ

朝の通勤ラッシュ時間帯に道を歩くと通勤客から発せられる負のオーラに自分の精神までさいなまれてしまいつらい。なぜ早く首都移転しろと民衆は暴動を起こさないのだろうか?なぜこんな境遇に耐え忍んでいられるのだろう。もしかして人類は自ら奴隷となること、家畜となることを望んでいるのではなかろうか。為政者は単にその性質を利用しているだけで、人類はそもそも他人から支配されることを喜ぶ種なのではなかろうか。

定年退職して早く田舎に引っ越したい。好きな時に起き好きな時に寝る生活。年を取って私のメンタルはもうそろそろ限界に近づいているのに違いない。

人が比較的外を出歩かない時間帯というものがある。早朝深夜、人はだいたい家にいる。昼間はだいたい仕事場にいる。だから道や電車が比較的空いている。そういう時間帯に私は移動しなくてはならない。今の仕事を辞めて東京を脱出したいのはやまやまだが収入が減るのは困る。また東京が便利なのも事実だ。だからなんとかして東京に適応しなくてはならない。あと数年の辛抱だ。

いろいろ試してみてわかったが結局職場に寝泊まりして職場近くのスーパーや飲み屋だけを利用して生きるのが一番楽だってことだ。最初からそんなことはわかりきっていたのだが改めて実感している。移動が最小限になるようにスケジュール管理をする必要がある。

wordpressのメニューは便利だが項目数を増やすと管理がめんどくさくなる。keep it simple studid! mediawikiのほうへ移した。

旬で面白い試み

書こうか書くまいか迷ったのだが、愚者空間から私のブログにリンクが張られているのを見て、やはり書くことにした。

牛野小雪氏が最近「うしP」名義で一気に何冊もkindleに「哲学入門シリーズ」を出している。ハイデッガー、フロイト、夏目漱石、ヴィトゲンシュタイン、etc。牛野氏は最近 chatGPTで小説を生成することに凝っているようだから、これらの入門書も同じように生成AIを使って書いているのだろうと思われる。間違っていたらすみませんが、あれだけたくさんの本を一度に出版するということはそういうことなのだろうと思う。というか、そう思われても仕方ないですよね。

「非人情」というキーワードは「草枕」に出てくるもので、それなりに正確に説明されていたようだ。

ただし全体的に見てまとめ記事的、総論的なものであって、これを読んで初心者が夏目漱石に興味を持つか、実際に読んでみようという気になるかどうか疑問だ。いかにも大学生がレポートや小論文を書くため生成AIを使ってうまくまとめた記事のように見えてしまう。

ともかく牛野氏にはこういう本を100冊200冊とどんどん出版してもらい、どの本が特に売れたかなどの分析もやってもらいたいものだと思った。旬で面白い試み、ある種の破壊的創造とでも言うものであるのには違いない。

いわゆる萌え絵というものや、或いはラノベや、整形美人の顔などは、売れ筋のテンプレというものがあって生成AIで粗製濫造しても、読者は喜んで消費する、というタイプのものではなかろうか。私はこれまでラノベっぽい小説を書こうとして何度も失敗してきた。いくらラノベにしようとしてもラノベにはならん。天女降臨なんかがそれだ。関白戦記も人に言われて、映画の原作になりそうな少年ジャンプみたいな話にしてくれといわれたが全然そうはならなかった。それで世間に受け入れられないのであればしかたない。