買い急ぎ

またまた浅草のアジトに戻ってきて、備蓄米でも買ってみようかと吉原のビッグエーに行ったところ、イオンのカルローズ米しか売ってなかったので、仕方なくこれを買った。すでにまいばすけっとで買って食べたことがあるので、他の違うやつが食べたかったのだがしかたない。この「かろやか」だが、普通に旨い。冷えてもそんなにまずくはならない。この品質で、ブラインドテストで品種や銘柄を当てられる人がいたら見てみたいものである。

ただし米粒の色や形が微妙に違うので(左が国産ブレンド米。丸くて少し黄色くて大きい。左がカルローズ米。やや細長く、白く、小粒)。

江藤拓(前)農水相が

ご家庭を守ってらっしゃる主婦の皆様が不安に駆られ、買うコメの量を増やしている。そのためコメの価格が上昇し、品不足になっている

などと発言して更迭されてしまったのだが、これは私が以前、米不足近況などで書いたことと同じだ。江藤氏はさらに米の不作についても否定している。大臣ともあろう人が何も根拠が無くてそういう発言をするはずがない。彼自身は売られている米を買ったことがないという。それは親戚に米農家がいれば普通のことだ。私も、米が余っている年、つまり米の価格が安い時には、30kgの米袋をただでもらったりしたことがある。彼は個人的に親しく農家の実態を知っている上でああいう発言をしたのだ。それをマスコミに揚げ足を取られて、更迭に追い込まれてしまった。農家の実感とマスコミの思い込みは明らかに乖離している。

マスコミ向けの記者会見だったからマスコミ批判はしたくてもできなかっただろう。マスコミは真実はどうあれ大臣の発言は叩くのが社会正義だと信じ込んでしまっている。しかしながら、マスコミの煽りが米不足の一因になった、という反省がマスコミ側からまったく出て来ないのは不誠実というべきではないか。国家的な危機においてマスコミがまったく役に立たないどころか逆に危機を増大させていることが今回再び明らかになった。かつ、消費者は自分たちが一番の原因だという反省をすることもない。消費者が、一般大衆が聞く耳持たぬということはあるまい。一部識者による分析が語られていないわけでもない。知識の送り手と受け手が何者かによって壟断されている。これでどうやって今後の対策の検討につなげていくことができようか。マスコミはおそらく薄々わかっているに違いないのに消費者の無知につけ込んで消費者を煽りヒステリックにさせて政治家を陥れて世間の注目を集めようとしている。ジャーナリストが死んだ後に落ちる地獄というものがきっとあるに違いない。

木徳神糧「ステークホルダーのみなさまへ」では米高騰の原因を

記録的猛暑や豪⾬による収穫量の減少や、⽣産コストの上昇、インバウンドを含む消費の増加、ひっ迫感を受けた買い急ぎといった複数の要因が重なり、安定供給に対する不安が増⼤した現象があるものと考えられます。

などと分析している。要するに、主たる原因は、消費者による「逼迫感を受けた買い急ぎ」なのである。それをあからさまに言うと批判を受けるから、しかし事実を伝えようとしてこのような表現になっている。本来無知な(情報弱者、または一次ソースと無縁な生活をしている人たち、とでも言うべきか)庶民が勝手に逼迫感を抱くはずがない。逼迫感を煽った犯人がいるはずだ。「ご家庭を守ってらっしゃる主婦の皆様が不安に駆られ」るようにさせたのは誰か。自明ではなかろうか。

米卸が意図的に値をつり上げたことはなかったのに違いない。単に市場原理に米価を任せただけだというのも事実であろう。消費者が買い急いで買いだめして値段が上がっているのは市場原理によるもので、売り手はできるだけ安く仕入れて高く売りたいに決まってる。それ以外のことはできようがない。

トイレットペーパーだってコロナのときのマスクだって消費者がちょっとでも買い急ぎ、買い溜めすれば流通はあっという間に破綻するのだ。そんなことはこれまで何度も経験してきたことではないか。私の親戚にも一部屋まるごとティッシュペーパーやトイレットペーパーなどの備蓄に当てている人がいるのだが、それが消費者というものだろう。

備蓄米だが、おそらく国に備蓄米として買い取ってもらっているのは、米を作りすぎて、市場に出すと米価格が下がって儲からないからであろう。銘柄米として人気があって高値で売れるような米をわざわざ備蓄米として国に提供するなんてことはないはずだ。

米の品質が良くないので備蓄米に回しているのではないかとも思ったが、そういうこともあるかもしれないが、ごく普通の米を普通に作って余ってしまったから備蓄米にした、というケースが多いのではないか。そうした米は多少古くとも、保管状況が良ければ普通に食べられるのではないかと思う。本当に食べて旨くない備蓄米は最初から飼料用に回すのではなかろうか。そういう本音のところをちゃんと調べて報道してくれるマスコミはいないのだろうか?

日本の米農家はもう、高く売れる一部の銘柄米だけ作るしかないと思う。市場競争力の無い米を作っても仕方ない。私は普通の米の味に満足しているからわざわざ高い銘柄米を買う気はない。日本の農家が普通の米を作らなくなるとしたら外米を食うだけのことだ。国産米にこだわる気など無い。そんなことには何の根拠も必要性もない。

日本食はなるほど旨いとは思うけど、その中で銘柄米と和牛にこだわる気持ちは私にはない。どちらも高級志向だが、別に私は牛肉や米に一定水準以上の品質や高級感、ましてブランド力など求めてない。沢庵や梅干しだって高いから買うのではない。スーパーに売られている普通の梅干しや沢庵が安いから買わないのでもない。

私は、備蓄米を放出して強制的に米の価格を下げる、というのは決して良くないことだと思っている。外米を民間企業が輸入して、市場に流通する米の量を増やせば自然に米の価格は安定したはずだ。しかし日本人は国産米にこだわりが強すぎる。もはやそんなものにこだわる理由などないということは(ツイッターも含めて)何度も書いたつもりだ。結局消費者が、日本人が自分で自分の首を絞めていて、それをマスコミが煽っているというのが現実だ。だから多少高い米を黙って食えばいいのだ。

レギュラーコーヒーの高いのはそれとはまったく違う別の理由だ。これも困ったもんだ。

三社祭のハッピイオン外米米の値段いつもの米ベトナム米

沢庵なのだが、真ん中辺りはうまいのだが端っこが歯ごたえがなくてうまくないというものがある。これは困る。どこの何とはいわないがこれからは買わない。

二宮金次郎の沢庵

内村鑑三は二宮金次郎について「後世への最大遺物」にも書いているし、「代表的日本人」にも書いている。その影響を受けて私も、二宮金次郎が菜種を植えた川の土手に架かっている菜種橋を見に行ったり(正確には油菜(アブラナ)橋かもしれん)、金次郎の生家やら尊徳記念館を見に行ったりもした。金次郎が柴狩りした山に登るツアーにも参加したりした。もちろん小田原城下にある二宮報徳神社にも行ったし、報徳博物館にも行ったのである。

ところで二宮金次郎と沢庵の話なのだが、ある若者がやっとのことで金次郎に弟子入りして、金次郎の下で修行を始めた矢先、金次郎が彼に沢庵を切らせたところ、ちゃんと切れてなくて一つながりになっていたので、金次郎はこの若者を無慈悲にも破門にした、というのである。

どうもこれはおかしい。苦労人の尊徳翁ともあろう人が、弟子入りしたばかりの若輩者で、まだ世の中のことを右も左も知らないうちに、いきなり問答無用に、沢庵ごときで破門にするというのは、ちょっと考えにくい。厳しく叱り、教え諭すということはあっても、たかが一度の失敗でおまえはダメ人間だと決めつけ、いきなり前途ある若者からチャンスを奪うなどということはあり得ないと思う。おそらく二宮金次郎に対して悪意あるものが話をねじ曲げているのではないか。金次郎は厳しい指導者ではあったかもしれないが、尊大で傲慢な権威主義者、専制君主ではなかったはずだ。

それでいろいろ調べていくと元ネタはおよそ二つに絞られてきた。一つは明治41年8月に出た「二宮翁逸話」、そして同年11月に出た「報徳之真髄」。いずれも留岡幸助 編で警醒社から出ている。なんとこの人、同志社を出たキリスト教徒である。二宮金次郎はキリスト教徒に人気が高かったのだろうか。

柴田順作(権左衛門。堅節とも)という人がいた。金次郎の27才年下である。順作は駿河国で製紙業を営む富豪の息子で取れ高八百石の田を持ち、五万両の金も貯めていたが米相場に手を出して破産した。それでも貸した金が八百両ばかりあったのでそれを取り立てようと親類が世話をしてくれたのだが、貸した相手が百八十人ばかりもいて、彼らから貸金を取り立てるとどうしてもその中から二人や三人は自殺者が出るだろうと思って、親類には猶予を願い出て、小林平兵衛という知人を訪ねたら、この人が熱心な報徳主義者で、二宮翁のところへ連れて行かれたのだそうだ。それで「二宮翁逸話」によれば

順作はつらつら思ふのに一旦国に帰らば決心が崩るるに相違ないといふので、二宮翁の台所に居る浦賀の宮原瀛洲といふ人の助手となって、翁には内緒で三年の間炊事をしつつ報徳の道を学んだ。さうして遂には翁の黙許を得て時々その給仕に出たことがある。で或る時、翁の言はれるのに「お前はかういふ人間だからいけない」と言ふて香の物の切れかかったのを箸で挟んで「この通り全く切れて居ない。切るならばシッカリ切るがよし、切らぬならば切らぬがよし、切ったでもなく切らないでもなく中ぶらりして居るから失敗するのである」と言はれたことがある。その後順作は当時のことを思ひ出しては「あの時くらいつらかったことはなかった」と一つ話にしたと言ふことである。

また「報徳之真髄」によれば

さて柴田氏は陣屋の炊夫となって居った事が四年、その間にひどく叱られた事が一つある。それは或る日食事の時、香の物の切り方が悪かったことで、翁がその香の物を食べやうとして箸で挟みあげると、切り方が充分でなかったので、一切れつながって釣り下がった。翁は大そう立腹して、「権左衛門、この切り方はなんだ、切ったのか切らないのか、こんなふうだから貴様は財産をなくしたのだらう。この切り方には心が入って居ない。こんな不親切な切り方をしては食べない」ときつく叱られた。氏は平身低頭詫びたけれども、到頭翁はこの時食事を中止してしまったさうである。

だからもともと若者をいきなり破門にした話ではなかったのだ。そして「沢庵」で検索してもなかなか出てこない。「香の物」でなくてはならなかったのだ。

最初から切って売られている沢庵はたいていうまくない。だから私は切れてない沢庵を買ってきて自分で切って食べている。沢庵を切るときは二宮金次郎の逸話を思い出し身の引き締まる思いがする。切れてない沢庵だからといってうまいとは限らない。沢庵はほんとうにむずかしい。

金次郎は、沢庵は三年ものの、すっぱい古漬けしか食べなかった、などとも言われる。しかしながら夏に茄子を食べて秋なすの味がするので冷夏が来ることを察したなどという逸話もあるから、沢庵だけでなくて茄子の漬物も食べたのに違いない。漬物はなんでも食べたに違いない。漬物は三年物の沢庵しか食べない、などというはずがあろうか。古漬けでも浅漬けでも食べたに違いない。

以下「後世への最大遺物」より。

二宮金次郎氏は十四のときに父を失い、十六のときに母を失い、家が貧乏にして何物もなく、ためにごく残酷な伯父に預けられた人であります。それで一文の銭もなし家産はことごとく傾き、弟一人、妹一人持っていた。身に一文もなくして孤児です。その人がドウして生涯を立てたか。伯父さんの家にあってその手伝いをしている間に本が読みたくなった。そうしたときに本を読んでおったら、伯父さんに叱られた。この高い油を使って本を読むなどということはまことに馬鹿馬鹿しいことだといって読ませぬ。そうすると、黙っていて伯父さんの油を使っては悪いということを聞きましたから、「それでは私は私の油のできるまでは本を読まぬ」という決心をした。それでどうしたかというと、川辺の誰も知らないところへ行きまして、菜種
なたね

いた。一ヵ年かかって菜種を五、六升も取った。それからその菜種を持っていって、油屋へ行って油と取換えてきまして、それからその油で本を見た。そうしたところがまた叱られた。「油ばかりお前のものであれば本を読んでもよいと思っては違う、お前の時間も私のものだ。本を読むなどという馬鹿なことをするならよいからその時間に縄を
れ」といわれた。それからまた仕方がない、伯父さんのいうことであるから終日働いてあとで本を読んだ、……そういう苦学をした人であります。どうして自分の生涯を立てたかというに、村の人の遊ぶとき、ことにお祭り日などには、近所の畑のなかに洪水で沼になったところがあった、その沼地を伯父さんの時間でない、自分の時間に、その沼地よりことごとく水を引いてそこでもって小さい
くわ
で田地を
こしら
えて、そこへ持っていって稲を植えた。こうして初めて一俵の米を取った。その人の自伝によりますれば、「米を一俵取ったときの私の喜びは何ともいえなかった。これ天が初めて私に直接に授けたものにしてその一俵は私にとっては百万の価値があった」というてある。それからその方法をだんだん続けまして二十歳のときに伯父さんの家を辞した。そのときには三、四俵の米を持っておった。それから仕上げた人であります。それでこの人の生涯を初めから終りまで見ますと、「この宇宙というものは実に神様……神様とはいいませぬ……天の造ってくださったもので、天というものは実に恩恵の深いもので、人間を助けよう助けようとばかり思っている。それだからもしわれわれがこの身を天と地とに
ゆだ
ねて天の法則に従っていったならば、われわれは欲せずといえども天がわれわれを助けてくれる」というこういう考えであります。その考えを持ったばかりでなく、その考えを実行した。その話は長うございますけれども、ついには何万石という村々を改良して自分の身をことごとく人のために使った。旧幕の末路にあたって経済上、農業改良上について非常の功労のあった人であります。

この著書の中で

『少年文学』の中に『二宮尊徳翁』というのが出ておりますが、アレはつまらない本です。私のよく読みましたのは、農商務省で出版になりました、五百ページばかりの『報徳記』という本です。この本を諸君が読まれんことを切に希望します。

などと内村鑑三が言っているので、国会図書館デジタルコレクションで見てみると(初期のスキャンらしくて汚くて困る。国書データベースのものが綺麗)、なんと幸田露伴が書いていて、確かに内村鑑三が「つまらない」というのが良くわかる、子供を啓蒙しようとやたらと図版が入ってるが面白くもおかしくもない、やけに堅苦しい、幸田露伴らしい文章だ。「報徳記」の方は、内村鑑三が言っているのは、明治19年に出た「正七位富田高慶述 報徳記 全 農商務省版」のことであろう。しかるにこれは

茲に二宮金次郎尊徳先生の実績を尋るに、歳月久しくして其の詳細を知ることあたはず。且つ、先生は謙遜にして自己の功績を説かず。いささか邑人の口碑に残れりといへども、万が一に及ばす。

といったような文体で、味わいはあるが、今の人にはちと読みにくいのに違いない。しかし現代口語訳がいくらでも出ているのでそっちを読めばとりあえず用は足りるだろう。

大野晋が『日本語で一番大事なもの』で森鴎外を「あんな下手な擬古文はありゃしないですもの。」などと言っているのだけど、鴎外の「舞姫」など見ると、やはり幸田露伴と同じで実に面白くない。つまり、露伴も鴎外も漢文の素養はあるが、和文がからきしダメなのだと思う。大和言葉というものに対する感覚、感性が全然ダメだと思うのだ。文法は正確だけれども砂を噛むように味気ない。漢学ばかりやって和学をやらない武家などにありがちなのだろう。だからああいうとてつもなく退屈でつまらない文章になる。鴎外も「阿部一族」などは基本的に口語で書いているからまだ読みやすく面白い。「舞姫」みたいな文体でドイツ女に惚れられたなんて話を書いたって面白いわけがない。

幸田露伴はしかし大町桂月なんかと一緒に「日本外史」の現代語訳などを監修したりして、そういう仕事は実に立派で面白い。鴎外は東大の医学・文学博士で、露伴は東大の文学博士だからああいう文章になるのだろう。夏目漱石が死ぬまで博士の学位を嫌がったのも、ああいう連中と一緒にされたくないという気持ちがあったからかもしれん。

ところで二宮金次郎が描かれた絵を見ると素足にわらじを履いている。わらじというのは編み上げブーツのように藁の縄で足をぐるぐる巻きにするものだ。国定忠治なんかはみんな足袋と脚絆で足を固めてその上にわらじを履いている。

いや、昔の人は足の皮が厚かったから平気だったのだろうと思うかもしれないが、小田原辺りは山に入ると蛭が多かったはずだ。そんなところへ裸足で入ってはひとたまりもない。素足にわらじ履きというのはとても信じられない。渡世人なんかは多少金がかかっても足回りには万全の対策をしていたのではなかったか。

もしかすると田んぼで田植えというような場合は素足にわらじであったかもしれない。旅に出たり山登りをするようなときは足袋にわらじであったかもしれない。また里山などはよく整備されていて蛭が出ることもなかったのかもしれない。

梅干し

小田原駅前に「ちん里う本店」という店があって、そこに天保5年に漬けた梅干しが展示してあった。

少し調べてみると、日本最古(世界最古)の梅干しは天正5 (1576)年のものであるという。

ちん里うの梅干しはどれもちょっとお高め(とはいえ都内の百貨店の食品売り場よりはずっとリーズナブル)。5年干しのものを買ってみた。

だるまという料亭に行った。ここはたぶん2度目だと思う。おみやげに800円の梅干しを売っていたから買った。これはたぶん、店で食事をした人向けにかなりお得な値段設定になっていると思う。だるまは明治26年創業ちん里うは明治4年創業らしい。

家に帰り、だるまとちん里うの梅干しを食べ比べてみた。ちん里うは、古漬けだけあって味わいが濃く深い。だるまはたぶん去年漬けたものだろう。味わいは浅いがうまい。

単純でさっぱりした味が良いか、複雑でコクのある味が良いか。どちらが好きかとは言えないが、ふだん気軽に食べるには味わいが浅くてうまい梅干しのほうが食べやすいかもしれない。

ともあれ小田原に行ったら、金目鯛の干物やかまぼこよりは梅干しを買うべきだと思う。良い梅干しというものはそんなにどこでも手に入るものではない。曽我梅林は地元では別所梅林と呼ばれている。

水戸の偕楽園にも梅林があって、やはり梅干しを作っているらしい。一度食べてみたい。

浅草古地図

江戸時代と明治の地図はずいぶん違って見えるが、浅草寺の西側に日輪寺や誓願寺のあるのが確認できるので、もともと浅草寺と西隣の寺の間には広い荒れ地があったが、地図の上ではそれはごく小さく狭く、ただ門前と書かれていたのだろうと推察される。なぜ荒れ地だったかといえば浅草寺がその土地を積極的に活用するより早く、回りに町家が開発されたから、であろう。

こうしてみると初音小路などは比較的最近(戦後?)にできたものであり、いっぽうでいっぷく通りなどは明治初期にはすでにあったわけだ。あの一八そばやいっぷく通りがある謎の三角地帯だが、あれは昔はひょうたん池の南側に広がる荒れ地の一部であった。

しかるにこの荒れ地を抜けて西参道へ、また伝法院通りへふたまたに分かれる道というものが江戸時代頃からすでに自然にできていただろうということが察せられるのである。

なぜ浅草寺の辺りを浅草公園というのか不思議だったが、明治政府は浅草寺を接収してし公園として整備したらしいのだ。しかし戦後浅草公園の土地は浅草寺に返された。六区は浅草公園を整備するときに荒れ地を整備してできたものであるという。

ということは、六区、花屋敷を含む五区、また表参道(仲見世)を含む一区の辺りはいまもなお浅草寺の土地、ということなのではないか。第二次大戦で浅草寺本堂が焼け落ちてその再建費用を調達するために四区、つまりひょうたん池と初音小路あたりの土地が売りに出されたのだという。いや、初音小路辺りも実はいまだに浅草寺の土地(つまり寺が地主で大家)であって、ひょうたん池跡に建てられた場外馬券場辺りだけが売りに出されたのかもしれない。

ともかくも浅草寺の東側は割合と昔からああいうふうであったのだが、西側は池を埋め立てたりしてかなり劇的に変わったらしいことがわかる。明治の頃はまだ言問通りもなく言問橋も無い。関東大震災以後ここに道を通して、ここらにあった「銘酒屋」などが向島のほうへ移転して、小梅の里に遊郭ができたというのもおそらくはそれ以降のことなのではないか。白鬚橋が架かったのは大正3年だから、寺島や玉ノ井などはもう少し早く町が開け始めたのに違いない。

明治40年というと日露戦争が終わって好景気に沸いていた頃だ。ホッピー通りはかつて朝鮮部落と呼ばれていたからにはあまり人が住みたがらない低湿地であったはずだ。実際、明治40年の地図を見るとここに南北に水路のようなものが描かれている。ではこの水路は池から水を南の方へ抜くためのものであったろうかと思うが、どうも違うらしい。浅草の標高図を見ると意外なことに浅草寺本堂や伝法院、四区、花屋敷の辺りが窪地のようになっている。もともとの浅草寺の境内は、隅田川の自然堤防に遮られた広大な池のようなもので、その中の島に、弁天池の弁天堂がそうであるように、観音堂があったのではなかろうかと推測されるのである。従ってかつてホッピー通りにあったであろう水路は、南から北へ、池へと流れ込んでいたのではないかと思われるのだ。では池の水はいかにして排水されていたのだろう。よくわからない。

浅草寺の観音像は川から取れたものであるという。そして浅草寺自体が水の豊富なところであったから、神輿が船祭りという形で行われたのもわかるような気がする。

濹東綺譚2

日本堤を往復する乗合自動車に乗るつもりで、わたくしは暫く大門前の停留場に立っていたが、流しの円タクに声をかけられるのがうるさいので、もと来た裏通へ曲り、電車と円タクの通らない薄暗い横町をえらみ択み歩いて行くと、忽ち樹の間から言問橋のあかりが見えるあたりへ出た。川端の公園は物騒だと聞いていたので、川の岸までは行かず、電燈の明るい小径こみちに沿うて、鎖の引廻してある其上に腰をかけた。

いきなりうしろの木蔭から、「おい、何をしているんだ。」と云いさま、サアベルの音と共に、巡査が現れ、猿臂えんぴを伸してわたくしの肩を押えた。

公園の小径をすぐさま言問橋のきわに出ると、巡査は広い道路の向側に在る派出所へ連れて行き立番の巡査にわたくしを引渡したまま、いそがしそうにまた何処どこへか行ってしまった。
 派出所の巡査は入口に立ったまま、「今時分、何処から来たんだ。」と尋問に取りかかった。
むこうの方から来た。」
「向の方とは何方どっちの方だ。」
「堀の方からだ。」
「堀とはどこだ。」
真土山まつちやまふもとの山谷堀という川だ。」

山谷堀に沿って下っていけば自然と待乳山に出る。待乳山の語源は真土山であろう。この辺りは隅田川が作った自然堤防でなければ沼や湿地帯ばかりだった。盛り土ではなく天然の土で出来た山なので真土山というのに違いない。永井荷風はそこにこだわったか。

言問橋の灯りが見えるというからおそらく待乳山の脇へ出て、隅田川のほとりへ出ようとして、物騒だからやめにして、道を渡らずに、つまり今の山谷堀公園の南のどんづまり(今戸橋あたり)か、待乳山聖天公園あたりで、何かに引き回した鎖の上に腰掛けていたとき、巡査に声をかけられ、言問橋西詰の交差点にある聖天町交番というところへ連れて行かれたのに違いない。

道路は交番の前で斜に二筋に分れ、その一筋は南千住、一筋は白髯橋
しらひげばし
の方へ走り、それと交叉して浅草公園裏の大通が言問橋を渡るので、交通は夜になってもなかなか頻繁
ひんぱん
であるが、

これも今と同じである。南千住へ行く道というのは都道464号言問橋南千住線。白鬚橋へ行く道とは都道314号言問大谷田線のことである。普段ぶらぶら歩いている道なので実に具体的にイメージがわいてきて、以前読んだ時とはまったく違う気分で読めて面白い。

永井荷風は本所か深川、須崎遊郭の話を書こうとしたのだが結局、寺島玉の井を書くことにして、ここを濹上と言うには川から離れすぎているから、濹東と呼ぶことにしたのだ。本所、深川、須崎、或いは柳橋、向島小梅の里などいろんな地名が出てくるけれどもこれらは子細にみればどれも少しずつ違っている。

本所というのは蔵前の対岸あたりであり、浅草から見れば随分南だ。

深川というのは永代橋、門前仲町あたりのことでさらに南だ。

洲崎は深川の東隣で木場などと呼ばれるあたりだ。

向島小梅の里というのは言問橋東詰、牛嶋神社や三囲神社などのある辺りで、向島見番(向嶋墨堤組合)というのもこの辺りにあって、ほんらい向島の遊郭というのはこの辺りのことをいうのだろう。

鳩の街商店街の辺りは東京大空襲の後に(おそらく戦災を免れた建物を利用して)できたものだというから、濹東綺譚よりは後の時代のものだ。

この、押上、曳舟、寺島の辺りは昔は都電、つまり路面電車などが浅草から伸びていて、どこがどういうふうに繁華であったのか、今では予想が付きにくい。

昔は隅田川に架かる橋というものは今より少なくて、吾妻橋の上流には白鬚橋があるだけだった。白鬚橋を往来する京成バスというものがかつてはあり、白鬚橋の東に京成白鬚線というものがあって白鬚駅から向島駅というところを結んでいたらしいのだが(向島駅は京成押上線に連絡していた)、これらは今はほとんど痕跡もない。この白鬚線沿線辺りを昔は寺島村と呼んでいた、と濹東綺譚には書かれている。白鬚線と東武伊勢崎線が交叉するところが玉ノ井駅、今の東向島駅である。

昭和五年の春都市復興祭の執行せられた頃、吾妻橋から寺島町に至る一直線の道路が開かれ、市内電車は秋葉神社前まで、市営バスの往復は更に延長して寺島町七丁目のはずれに車庫を設けるようになった。それと共に東武鉄道会社が盛場の西南に玉の井駅を設け、夜も十二時まで雷門から六銭で人を載せて来るに及び、町の形勢は裏と表と、全く一変するようになった。今まで一番わかりにくかった路地が、一番入り易くなった代り、以前目貫といわれた処が、今では
はず
れになったのであるがそれでも銀行、郵便局、湯屋、寄席
よせ
、活動写真館、玉の井稲荷
いなり
の如きは、いずれも以前のまま大正道路に残っていて、俚俗
りぞく
広小路、又は改正道路と呼ばれる新しい道には、円タクの輻湊
ふくそう
と、夜店の賑いとを見るばかりで、巡査の派出所も共同便所もない。このような辺鄙
へんぴ
な新開町に在ってすら、時勢に伴う盛衰の変は免れないのであった。
いわん
や人の一生に於いてをや。

濹東綺譚は昭和11年、つまり二・二六事件のあった年に書かれたものだが、東武鉄道が玉ノ井の盛り場の西南に駅を設け、とあるからには、永井荷風が玉ノ井と呼んでいる場所は今の東向島駅の北東辺りのことを指しているわけである。本文から推察するに、東清寺(玉ノ井稲荷)のあたりだろう。つまりいろは通り界隈である。白鬚橋から大正通りを経ていろは通りへ。古い商店街らしいが遊郭の面影というのは私の見る限り無い。むしろ鳩の街や小梅の里のほうが向島らしい雰囲気や情緒があるだろう。吉行淳之介の小説とか、いわゆるカフェー風建築なんてものは鳩の街あたりだけにあるのであり、しかも赤線が廃止されるとともに急速に廃れたから、再開発もされずシャッター街となって比較的そのままの状態で残っている。

寺島町奇譚というマンガがあるがあれは東京大空襲で玉ノ井が焼け野原になるまでのものなのでちょうど濹東綺譚と同じ時代のもの、ということになる。

白鬚橋は大正3年に架かったそうだから、大正通りもそのときにできて、さらにその先が延長されていろは通りとなったものと思われる。日光街道と水戸街道が短絡されたから、寺島町はそれなり賑わいがあったのだろう。

濹東綺譚を昔読んだときは浅草や向島や戦前や戦後や遠くは江戸時代の風物がぼんやり漠然と、渾然一体と混じっていて、そういうものを読むからむしろファンタジー的な気分で読めたわけだけれども、実物を知ってしまった今読んでみるといちいちイメージが鮮明であって、逆に空想の入り込む余地がないとも言える。

以前にも東向島というものに書いたのだが、台東区には台東区で、墨田区には墨田区で巡回バスがあるのに、白鬚橋を往来して台東区と墨田区をつなぐバス路線が無い。言問橋ができて、浅草から押上、曳舟、東向島までいく交通が便利になると、この白鬚橋の重要性が非常に小さくなって、バス路線も採算が取れなくなり廃止されたものと思われる。吉原あたりに住んでいる私にとっては不便極まりない。吉原と玉ノ井を結ぶバス路線なり電鉄などあってくれれば、向島に遊びに行くのにどれほど好都合かしれない。都電荒川線が白鬚橋を渡って玉ノ井まで伸びていてくれたらよかったのに(白鬚線はもともと荒川線に接続する計画だったという)。

私の玉の井散策という記事が最も詳しいように思われる。

寺じまの記濹東綺譚向嶋向島浅草むかしばなし勲章水のながれ吾妻橋草紅葉里の今昔葡萄棚(青空文庫)。

国会図書館デジタルコレクションで断腸亭日乗など読むが、まあとりたててどうということはない。

濹東綺譚

濹東綺譚はもちろん読んだことがある(濹西綺譚なんてものを書いてみたこともある)のだが、小田原まで行く用事があって途中だいぶ間があるから小田急線の中で改めて濹東綺譚を読んでみた。浅草に半年も住んでみたものだから、地名がいちいちわかるのが面白い。

活動写真の看板を一度に
もっとも
多く一瞥する事のできるのは浅草公園である。ここへ来ればあらゆる種類のものを一ト目に眺めて、おのずから其巧拙をも比較することができる。わたくしは下谷
したや
浅草の方面へ出掛ける時には必ず思出して公園に入り
つえ
を池の
ふち

く。

とあるのは明らかに今は、東洋館、浅草ロック座なるストリップ小屋が建ち並ぶ通り(六区ブロードウェイ)のこと。

一軒々々入口の看板を見尽して公園のはずれから千束町
せんぞくまち
へ出たので。右の方は言問橋
ことといばし
左の方は入谷町
いりやまち
、いずれの方へ行こうかと思案しながら歩いて行くと、四十前後の古洋服を着た男がいきなり横合から現れ出て、

これはあきらかに、ひさご通りを通り抜けて、千束商店街の手前、言問通りまで来たところのことを言っている。

永井荷風は千束通り(千束商店街)のことを千束と言っている。実際今の浅草二丁目から五丁目の西側はかつて浅草区というものがあったときには千束町の一部であったらしい。戦後、下谷区と浅草区が合わさって台東区ができて、そのとき区割りも変わった、ということか。

さらに古くは、千束村は浅草区、下谷区、北豊島郡南千住町(大字千束)に編入されていたという。結構変遷があるものだ。もともとは千束池というものがあったあたりを全部千束と言っていたのだろう。

わたくしは口から出まかせに吉原へ行くと言ったのであるが、行先のさだまらない散歩の方向は、かえってこれがために決定せられた。歩いて行くうちわたくしは土手下の裏町に古本屋を一軒知っていることを思出した。
 古本屋の店は、山谷堀さんやぼりの流が地下の暗渠あんきょに接続するあたりから、大門前おおもんまえ日本堤橋にほんづつみばしのたもとへ出ようとする薄暗い裏通に在る。裏通は山谷堀の水に沿うた片側町で、対岸は石垣の上に立続く人家の背面に限られ、此方こなたは土管、地瓦ちがわら、川土、材木などの問屋が人家の間にやや広い店口を示しているが、堀の幅の狭くなるにつれて次第に貧気まずしげ小家こいえがちになって、夜は堀にかけられた正法寺橋しょうほうじばし山谷橋さんやばし地方橋じかたばし髪洗橋かみあらいばしなどいう橋のがわずかに道を照すばかり。堀もつき橋もなくなると、人通りも共に途絶えてしまう。この辺で夜も割合におそくまであかりをつけている家は、かの古本屋と煙草を売る荒物屋ぐらいのものであろう。

ここは少々難しい。千束商店街が尽きるまでいけば日本堤にぶつかる。土手通りを左に行けば吉原大門、見返り柳だ。山谷堀公園という遊歩道は戦後昭和になって暗渠になった、ということはそれまではまだ水が流れていたのだろう。つまり山谷堀公園が尽きるより上流が当時すでに暗渠になっていたと考えて良いだろう。

日本堤橋は吉原大門を出た真向かいにあったはずで、ここには今、桜鍋屋(創業明治三十八年、中江)や馬肉屋が残っている。その裏通りというのは土手通りに沿って、つまり、山谷堀の右岸が土手通りで、左岸が裏通りと言いたいのに違いない。

髪洗橋(紙洗橋)というのは東武ストアへ行くあたりにある。地方新橋はデニーズのあたりにある。地方橋はローソン100がある交差点、千束商店街のアーケードが尽きるあたりにある。いずれも橋の名前ではなくて、土手通りの交差点の名前として残っている。下流から順に言えば、正法寺橋、山谷堀橋、紙洗橋、地方橋、となるはずだ。

要するに、かの古本屋というのは吉原大門前の桜鍋屋の並びか、その裏通りあたりにあったと考えればよかろうと思う。

HP Wolf Security

HPのPCはHP Wolf Security というセキュリティソフトが勝手に入っていて、こいつが勝手にネットからダウンロードしたMicrosoft Wordファイルを保護モードか何かで開くようにしてしまい、まったく使い物にならないので、脅威からの保護というやつを無効にするのだけど、PCを再起動するたびに勝手に有効にしてしまい、アンインストールすることにしたのだが、以前のバージョンを先にアンインストールしないと現在のバージョンはアンインストールできないなどという。

しかしWindows のアプリ一覧には以前のバージョンなどというものはでてこない。

それで仕方ないんで、インストールとアンインストールのトラブルシューティングとかいうツールを落としてきてアンインストールしようとすると、アプリ一覧には出て来なかった wolf security の chrome 拡張だのなんだのというのがわらわら出てきたので、そいつらをひとつひとつアンインストールしていった。

途中突然再起動したりもしたが、最終的に全部アンインストールできた。

私は小説などの原稿は全部 google drive に置いている。それを落とすたびに HP君が余計なことをするのでもう我慢の限界だった。

沢庵

日曜日の浅草は観光客が多すぎてほんとうに苦痛だ。駅の改札を通れないで立ち往生する人、道の真ん中に固まってどっちへ行こうか思案している人、スマホを見ながらだらだら歩く人。こちらも観光気分で何かまだ見落としているものでもないかなと物色する気分の時は良いが(実際浅草というところはそんな簡単に見尽くせるところではない)、普段道を歩く時と同じ感覚で歩くととにかく精神衛生に悪いから近寄らないほかない。

上野のヨドバシで品物を取り置きしてもらい、散歩がてら上野まで歩く(40分くらいか)。私がここらをくまなく散歩して回れるのも浅草に部屋を借りている数年限りだから、せっせと見て回ろう、などと思う。途中下谷神社に寄る。正岡子規の碑が立っていた。

寄席はねて上野の鐘の長夜かな

下谷神社が寄席発祥の地であるという。上野の寄席とは鈴本演芸場のことだろうか。寛永寺の鐘であろうか。暮れ六つの鐘であったろう。長夜は秋の季語なので、早く日が暮れてしまい、これから長い夜が始まる、というような意味合いであったか。それとも当時すでに西洋式に18:00に暮れ六つを打っていただろうか。

上野の博物館は異様に混んでいる。特に西洋美術館がいつもとんでもなく混んでいて建物の外まで行列しているがあれはショップに並んでいるのかもしれない。今はミロ展の最中で、こないだはモネ展だったが、とにかくモネだかミロだかのグッズをどうしても買わねば気が済まない人がたくさんいるらしい。とりあえず上野の博物館群は人の多さにあきれて素通りした。

天海僧正毛髪塔というものがあった。この天海というやつが家康をたぶらかしておかしな宗教にはまらせたのだ。

上野松坂屋地下食品売り場で沢庵を買った。それから吉池でカマスの一夜干しとかメザシのようなものを買った。吉池は地上部分はユニクロ化してしまったが地下の食品売り場はすばらしい。浅草のいかなるスーパーよりも吉池のほうが良い。御徒町に来たら吉池に寄って晩御飯の支度をするべきだ(これからの季節、保冷剤は持参したほうが良いかも)。

沢庵は難しい。宮崎県産の沢庵は好きだ。野崎漬物、道本食品のは安心して買える。しかし九州の沢庵はどうも甘味が気になる。甘味料を入れないか、もっと減らすわけにはいかないのだろうか。と思って和歌山産や山形産の沢庵を買ってみたのだが、山形のやつ「田舎たくあん」は販売者が山形の晩菊本舗三奥屋だが、製造所はキムラ漬物宮崎工業株式会社で、キムラ漬物は愛知県の会社である。甘味は強くない。おいしい沢庵なのでこれは良しとする。和歌山の沢庵は甘くはないがすっぱい。漬物が乳酸発酵してすっぱいのはよくあることなんだが、私はすっぱい沢庵が食べたいわけではないのである。熱海の七尾たくあんも甘くはないが、かなりすっぱく、しかも固い。もしかするとそういう沢庵が本格派なのかもしれないのだが、私が食べたいのはそういう沢庵ではないのである。

なんというのかな。私が食べたい沢庵というのは、色も白っぽくて、塩分もそんな高くはなく、しゃりしゃりした浅漬けのような歯ごたえではなく、きちんと漬かっていて、しかしながらあまり筋っぽくもなく固くもなく、砂糖など甘味料はいっさい使ってないものが食べたい。食塩とぬかと大根だけで作られたものが(もし現代にそんなものがあるなら)食べてみたい。煮干しとか昆布だしとか鰹だしとかそんなものは入れてほしくない。どこかにそんな沢庵は無いものか。燻製にしたいぶりがっこは好きではない。壺漬けもべったら漬けも好きではない。

沢庵というのは沢庵和尚が発明したのだろうか。となると江戸初期、家光の時代だ。当時の沢庵とはどんな味だったのだろうか。沢庵に適した白首大根を大量に生産しているのは宮崎や鹿児島くらいらしい。つまり、消費者に近い関東などでは生食用の青首大根を、消費地から遠い九州南部などではあまり一般的ではない漬物用の品種をもっぱら栽培している(かつ南国なので育ちやすい、火山灰の砂地で育ちやすい?)、ということではないか。となるとその他の地域の漬物屋でも大根は宮崎産を使ったり、全国展開するような大きな漬物屋は宮崎に工場を作ったりするのかもしれない。

沢庵にこだわりのある人というのはごく一部で、老若男女、特に子どもが食べるのには柔らかくて甘い沢庵が好まれるのだろう。私も子どものころはそうした沢庵を食べていたのかもしれないが。スーパーに売られている量産品はみんなそんなやつだ。

伊勢沢庵は名高いけれども東京ではほとんど売られていないようだ。沢庵は結局、百貨店の食品売り場などをしらみつぶしに探してみるしかなさそうだ。

6月6日になってイオン(まいばすけっと?)が外米を売り始めたらさっそく買うつもりだ。実に待ち遠しい。

船渡御

江戸初期の歌人、戸田茂睡が書いた「紫のひともと」(天和2(1682)年)という仮名草子があってそこに浅草三社祭のことが書かれている。

観音寺門三社権現の祭り、三月十八日なり。是も隔年行はるる。此の三社権現の祭りは花園院の御宇、正和元(1312)年、神託によって始まるなり。

本堂の社の東に三社権現あり。是は観音を網にて引き上げし檜の熊の浜成・竹成と二人の漁夫の在家を改めて精舎となし、直中和といひし漁師と合はせ、三人を権現に祝ひ、三社の護法といふ是なり。本堂の外に出居る出家、専堂・斎堂・常音は、彼の三社の末孫なり。妻帯して子孫相続有る故、三月十八日の祭りは此の三社の神なり。東の随身門より、一の権現の前に出る。一の権現と云ふはあかん堂のことなり。昔、観音、海より上らせ給ふ時、野より雉子来て、羽にて御身体を隠し、雨露に塗らし申さざると云へり。此の故に此の観音、信心の者は雉子を食せず。所の者は雉子を家内にて、他の人にも食せず。

さて、此の三社権現は駒形堂より海に乗せ申し、浅草見付の船着より上らせ給ひ、本通りを本社へ帰らせ給ふ。

いやはや。これはすごい。

戸田茂睡の時代にすでに浅草神社は一応本堂、つまり浅草寺とは別の建物に分かれて、今の場所にあったらしい。また随身門とは現在、二天門と呼ばれている門を言うらしい。浅草神社を出たらすぐ東に折れて随身門を出て、おそらくこの辺りに「あかん堂(一の権現)」と呼ばれた建物があって、そこから今の馬道通りを南下して、駒形堂というところまでいく。これは今も駒形橋西詰の北側にある。ここから神輿を船に乗せて隅田川を下り、浅草見附(浅草御門)、つまりおそらく神田川が隅田川に合流する柳橋辺りの船着き場(蔵前あるいは浅草御蔵のことか)から上陸し、ここから本通りを経由して、鳥越(蔵前)を経て、再び駒形堂を経て、本社に帰っていたのだろう。

今の三社祭と全然違っている。

江戸初期、当時の浅草から吉原にかけてはまだ田んぼや沼が広がっていて人はほとんど住んではいなかったのだろう。吉原が今の場所、当時、竜泉寺村と呼ばれていた場所に移転したのは明暦三(1655)年のことであった。

しかしながら江戸城大手門から浅草まで通る道沿いには後北条氏の時代から既にかなりの人が住んでいたと思われ、また浅草の主たる産業は隅田川を使った水運や漁業であったから、それを生業とする町民らが三社権現の主役であって、また浅草観音は川の中から網にかかって引き上げられたということになっていたから、船渡御というものが、祭りのメインイベントだったのだ。それが三社祭の原型なのだ。

浅草寺に「あかん堂」「駒形堂」なる別館が存在する意味が今ではわからなくなっているが、昔、浅草寺は隅田川と密接に関係していたのだ。だから川と連絡するために、これらの施設が非常に重要だった、ということになる。浅草寺が今ある場所はもともと檜前さんちの在家だったとあるが、おそらくこのあたりで一番開けていて、しかも水害に遭いにくい高台だったのだろう。

関東は、昔未開拓な頃はどこも川と沼だらけだったから、船祭というものが一般的だったのかもしれない。

鹿島神宮では12年に1度、午の年に式年大祭 御船祭(みふねまつり)というものがあって勅使下向もある。

香取神宮にも経津主大神の東征を再現した、式年神幸祭というものがあって船が出る。

大宮の氷川神社もかつては沼自体をご神体とした船祭があった、と言われているそうだ。船に神輿を乗せていたかどうかはともかくとして、関東地方における遷幸、遷宮、東征というものは、もともとそうした、船に軍勢を乗せた大がかりなものだったに違いない。それがいつの間にか氏子のレジャーと化していき、観光目的化していったのだろう。

浅草三社祭に勅使が来るわけはないので、あの馬は勅使風のパレードの演出ということか。

三社祭り2

人混みにはほとほとまいっているのだが、なおさら、もう二度と見たくない、今回一度きりで済ませようと思うので、宮入りは浅草寺の境内に残り、正門から行列が入ってくるところまで見届けて帰った。宮入りは19:00から20:00くらい、となっていたのに、20:30まで待たされた。たぶん、三ノ宮から入って、次に二ノ宮、最後に表参道から一ノ宮が、少しずつ時間差を付けて入るというだんだりになっているようだが、三ノ宮が5656雷おこし屋の前で何度もいったりきたりを繰り返してたせいでめちゃめちゃ遅れた(youtubeのライブでいらいらしながら見てた)。さっさとやってくれよ。

神輿は雷門と宝蔵門をくぐらなくてはならないのでそんなに大きなものは作れない。門の下に吊ってあるでかい提灯は上の方へ縮めてあった。京都の山鉾やだんじり、或いはねぶたのように、神輿や山車が際限なく肥大化する、ということは浅草ではなかったようである。また、日光東照宮にも神輿はあって、江戸では将軍家にはばかって東照宮よりも大きく華美な神輿を作るということはできなかったに違いない。神田明神の神輿もネットに落ちている写真で見る限りそんな大きなものではない。浅草と同程度のもののようだ。

徳川宗家も江戸の町中を馬鹿でかい東照大権現様の神輿を引き回す、などという暴挙に出なかったのは賢明であったが、であればこそ、江戸の神輿はこぢんまりとして地味なものにならざるを得なかった。その代わり浅草では神輿の数が氏子の人数分、爆発的に増えたということだろう。

町会の神輿も浅草神社の神輿も造り自体は同じもののようである。しかしながら、本社神輿、つまり浅草神社の一ノ宮、二ノ宮、三ノ宮の神輿は白い布で覆われて四面それぞれに七つの鏡がついていて、ピンク色の紐で縛ってあるという一種独特のものである。江戸の宮大工が作る神輿は東照宮の建築に良く似ているように思われる。コテコテとして、装飾と彫刻が過多。しかしながらこの浅草神社の神輿は家康入府以前の質素な古態を残しているようにも思えるのである。

東照宮は神社建築と仏教建築を節操も無く混淆させた、家康とか天海とかあのへんの連中の宗教音痴というものがもろに現れた、下品と言って悪ければ悪趣味なものとしか私には思えないのだけど、浅草神社の本社神輿にはある種の神秘性というか、ゆかしさというか、浅草という町を開拓した祖先に対する畏敬の念のようなものを感じた。その原初的形態を想像してみるに、最初はああいう装飾のない、シンプルな、白い布で覆っただけの神輿に本尊(三体の権現)を収めて、神体の姿を象徴する鏡を四面に一枚ずつ貼り付けたようなものではなかったか。それをいつからか七枚に増やしたとか。

町会の神輿には馬に乗った勅使(?)は付かない。神社の神輿だけに馬が付く。1頭、または2頭だったりするようだ。

こういう馬が付くとか、なぜ鏡が七枚あんなふうに配置しているのかとか、ネットで検索してもまったく情報が出てこない。研究者はもう少しちゃんと調べて、マスコミも報道すべきなんじゃないの?

金曜日夜から町会ごとに神輿をくりだして、土曜もやって、日曜は本社神輿各町渡御、のはずではあるがやはり町会の神輿も相変わらず出ているので、とにかく三日間ずっと町会は大騒ぎしている。

いやしかし、都会には次から次へとおかしなやつ(挙動不審、独り言、多動)が現れてきて、祭りのようなものにはなおさらしゃしゃり出てきて、坐ってるとじりじり幅寄せしてくる。気持ち悪すぎる。こういう馬鹿な一般人にいちいち怒っても切りが無いから、絡んできたらシカトするのだがシカトするのが忙しすぎる。もう絶対祭りは見ない。

こういう祭りがもっと人の少ない田舎で、強制参加で村祭りのようなものであったとしたら、参加するのは苦痛であろうが、これだけ大勢人が集まるのだから、祭りが嫌いな人はわざわざ参加していないはずであり、祭りが好きな人だけ好き勝手やっている分には別に私としてはどうということもない。ただ関わり合いたくないだけだ。実際、隅田川の両岸では子供らが祭りと関係なしに野球をやったりしていた。野球は要するにユニフォームを着てみんなで騒ぐという意味では祭りと何も違わない。やたらと野球場を作ってテレビで野球中継するからみんなやっているだけのことで、私も子供の頃はみんながやっているからほかにやることもなくやっていたが、面白いものとは思えない。

田舎だと盆と正月くらいしか人が集まらないからだいたい祭りはお盆にやる。私の田舎もそうだったが、梅雨前のこの時期に祭りをやるのが暑くなくて良いのかもしれない。

マスコミがあまり熱心にニュースで流さないのは、取材がめんどくさいわりに視聴率が取れないというだけのことに違いない。

戦前まで本社には七つの神輿があり、三つは家光が下賜したというがつまり、祭りはやっても良いが幕府の統制下でやれという介入であろう(それによって作り直してそれよりかでかい神輿を作ることも封じられたであろう)。おせっかいなやつである。その三つをそれぞれレプリカを造り、六つ。さらによその町で持て余していた神輿を譲り受けて七つあった、ということらしい。