産業革命はやはりすごい

アメリカ建国とかフランス革命なんてのは、産業革命より前だから、
実は単発の事件で終わる可能性があった。
実際フランスではなんども王政復古したり帝政になったりしている。
アメリカも南北戦争でどうなるかわからんかった。

しかし、産業革命があり赤色革命があって、
市民兵というものが貴族よりもはるかに戦争が強いというのが実証され、
それで国民国家ができていった。

ただ単に、権力のバランスが動いたのよね。
昔は王侯貴族による支配のほうが実際的だったし、
産業革命で人口爆発した後は市民による支配のほうが実際的になった。
けんかになったときだれが一番腕力が強いか。
それだけなのではなかろうか。
善政が悪政を倒した的なのはたぶん間違っている。

もし人口が産業革命より前に戻れば、単に、王侯貴族的社会に戻るのではなかろうか。

予定調和

読者の期待した方向へストーリーをもっていかないほうが意外性があってお得、
予定調和は罪悪、
手あかのついてない新しいストーリー展開にあえて挑戦、
という観念があるせいか、
ネットで感想を探し出して読んでみると、期待を裏切られたとか、
思ってたのと違ったとか、そういう反応を目にすることが多い。

予定調和的でないストーリー展開はざっくり切り捨てられ、
予定調和的な部分だけが読まれ、
かつ、
予定調和になってない部分はなってると(他の自分の知ってる類似作品を持ち寄って)勝手に脳内補完して読まれている可能性が極めて高い。
それはかつて知合いに「[安藤レイ](/?p=10614)」や「濹西綺譚」を読んでもらって感じたことでもある。
だんだんその漠然とした不安は確信に変わりつつある。

読者に逆らいわが道を行くのは難しい。
それは既存の出版業界に逆らうよりも難しいかもしれない。
kdpの時代になっても読者は昔のままだ。
読者は案外強い立場にいる。
圧倒的多数の読者は作者より強いのだろう。
いろんな意味でいろいろ難しい。

そう、記号と予定調和が支配する世界。
二次創作にされやすい、素人にやさしい世界。
だが空虚だ。
記号は記号に過ぎない。

ガンダムもそのままでは二次創作されえなかった。
何度もシリーズ化され、
準備されたのちに、
二次創作されるようになった。
オリジナルから二次創作へ変容していく過程はだいたいいつもこのようなものだ。
わらわらとたかってくるファンやスタッフによって意図は変えられていく。
大乗仏教もそうやって成立したのに違いない。

私としてはこれから3DCGを量産できる態勢にもっていく。
一年もすればどんどんイラストが描けるようになると思う。
もちろんキャラクターをたくさん出したりすれば破綻するが、
小さくまとまった短編ものならどんどんいけると思う。
とりあえずしばらくはそちらのほうで戦おうと思う。

夢を見てて思う、人間にとって創作文芸のルーツは夢にあるのかもしれん。
脳の中で勝手に作られるイメージを固定しただけでは作品にならぬが、
そういう夢物語のようなストーリー性の乏しい作品を作る素人はたくさんいる
(これは夢の話なのでストーリーがなくてよい、これはPVだからオチはなくてよい、etc)。
しかし、素人とプロの境界はあいまいだから、
そこから本格的な文芸が生まれてもおかしくない。

人の絵を描くときに筋肉や骨の構造を知らねば描けぬように、
脳の中で情報がどのように処理され、どのように間違われ、
どのように解釈されるのかということがわからないと、文芸作品は書けぬのかもしれんし、
わかってしまうと、いろんな可能性とともに制約が知られるのかもしれない。
つまり、人間の脳というものはこういうインプットには必ずこういう反応をするものである。
それに沿わぬストーリーを提示するのは無謀だ、とか。

kdpレビュー

『スース』はあっという間にレビューが終わるから、ああ、kdpのアルゴリズムが少し賢くなったのかなと思うと、
今度は『エウメネス』のレビューが全然終わらない。
中で何が起きているのかさっぱりわからない。

思うに、レビューというのはコピペルナーみたいなものでWeb検索と照合しているのだろう。
『スース』は類似した文章や固有名詞がほとんどネットにない。
『エウメネス』は、たとえば「エウメネス」「アレクサンドロス」などについて書いた小説は無限にあるから、
それらと照合してるとなかなか終わらない、ということなのだろうか。

映像化

私は、脚本家やライターが書くような文章は絶対書くまいと決めている。
そういうプロの仕事はプロの方々にお任せすればよい。
自分は原作者だと思っているのだ(プロの原作者もいるわけだが、原作というのは古典やらなんやら含めて広く、という意味で)。

普通は、原作、脚本という書き分けをしてないのではなかろうか。
現代のライターは原作即脚本という書き方をするのではないか。
脚本にしにくい原作をわざと書く、などという意地の悪いことはしないと思う。

わざと商業化しにくいような文章を書いている、と言ってもいいかもしれん。

映像には映像文法というものがあるし、アニメや漫画は明らかに「記号」によってできている。
様式化されたアニメやマンガ作品の多くは記号の羅列だけでできていて、いらいらする。
まあ、大勢の人が分業体制で大量生産していればどうしてもそうなる。

そういうビジュアルな文法や記号というものに、翻訳しやすいように文章を書くことはできる。
映画や漫画から逆アセンブルしてそういう記号を文章の中に埋め込んでおけば、
いつか自分の作品が映画化・漫画家されるときに好都合だろうと考える。
ラノベなんかまさにそうだろう。

しかし小説を書くひとというのは、わざと映像化しにくい文章を書いたりするものだと思う。
この延々と心理描写が続く部分、映像化できないから捨てるしかないよ、とか。
人間の精神活動のほとんどすべては映像と音声でできている。
したがってたいていは映像化できる。
しかし、残りの数パーセントくらいは、どうしてもできない。
できないものは概念化、記号化することによって映像表現するしかないが、
それは文法なので、学ばないとわからない。

既存の概念も文法もないものは映像化できない。
詩を外国語に翻訳できないように、映像化できない文章というものもある。
小説家はときどきそういうものをわざと書きたくなる人種だと思う。

紫式部の時代にもそういう葛藤はあったと思う。
この話、絵物語にしてもぜんぜん面白くならんだろうなとか。
もっと昔々、現生人類が生まれたときからあったと思う。

たとえば「手に持った箸の先端まで神経が通るような」という描写は映像化できないだろう。
匂いや触覚も翻訳しにくい。
無理に翻訳しようとすると漫画的な表現になってしまうだろう。
目線とか身震いのようなゼスチャーで表現するかもしれない。
役者が下手だと陳腐だし、うまい役者だと芝居がかる。
「今まで体験したことのない、言葉にならない感情が沸き起こってくる」
みたいなのもそうだ。
それを文章ならばいろいろと説明できるが、映像では無理だ。
それが時間的には一瞬のできごとであればなおさらそうだ。

もひとつ言えば「ような」「ように」を使うのは負けだと思っている。
「石像のように立ち尽くした」というのは陳腐だ。
「石像のように」とかつい書いてしまうが、実際には必要ない。なくてもいい。
イメージが濁るだけだ。
なんか具体的な石像の描写があって必然的にそう書くならばともかく、
唐突に陳腐なたとえを持ち出すのはよろしくない。

かといって「手に持った箸の先端まで神経が通った。」
みたいな表現もいやらしくてやる気にならん。それよか普通に「通ったようだ。」とか書いたほうがまし。

とりとめのない追憶、のように時系列になってないものも、小説ならかけるが映像化するときはさくっと時系列にせざるを得ないだろう。

一日だけの出来事ならば映像化しやすいが何百年・何千年にわたる歴史なんかだと映像化しにくい。
いきなり百年前や二百年前の歴史上の人物が比較対象として取り上げられるとすると、いちいち説明しなくてはならない。
できるだけ説明しようとは思うが、話の流れを断ち切るからあまりやりたくない。
頼朝とかカエサルとか楠木正成なんかだと説明せずに流す。
小説ならそれでいいかもしれんが、映像作品でそれやるとわけわかんなくなると思う。

あと、登場人物が五十人超えるともう映像では表現できなくなると思う(群衆とかを除いてだが)。
主観視点なのにその人物がいちいち切り替わるとか。
主人公が途中で死んじゃうとか。
神の視点で描写されていてだれが主人公かわからんとか。

場面転換が多すぎて世界中あちこち移動しまくるとか。どうやってロケするのかとか。
じゃCGでやるかというとそれも難しいとか。

セリフがまったくない箇所とかね。
私はできるだけ話の筋はセリフ化してキャラクターにしゃべらせるようにしているが、
わざと会話をなくしてみたい箇所もあったりする。

映像化しやすい記号化された文章というものがわかってくると、逆にわざと映像化できない作品を作ってみたくなるよな。

私の作品は論文や論説を兼ねていることが多いのだが、これもまた映像化しにくいだろう。
そのまんま映像化すると放送大学の講義みたいになってしまう。
それはそれで、文芸作品ではない。

それから歌物語。現代人が古語の和歌なんかわかるはずがない。
映像化しにくい。
ときどき書いていることだが、俳句は映像化しやすいが和歌は極めて難しい。
和歌は基本的に心理描写、俳句は情景描写だからだ。
その違いがわかってない人は多い。

あと漢詩。
漢詩を映像化できる人がいたら見てみたい。
解説はできるだろうが映像化はできない。
下手に描写すると漢詩が画賛みたいになってしまう。それじゃ駄目だ。
ちなみに私の場合漢詩の説明はほとんどしてない。しても無駄だと思うし。

漫画なんかで冒頭だけ場面の全景を描いてだんだんにキャラクターによっていくというコマの構成がある。
明らかに説明である。記号だ。
小説でもよく使う手口だ。
いちばん最初だけたいくつな自然描写が続いたりする。
文章によって逆に映像表現をしているわけだ。
しかしふつう小説というのはそんな親切じゃあないから、途中から映像表現は省略していく。
一種の読者サービスだったりもする。
絵コンテなんかだとそうはいかないわけで。
映画のシーンが連続するような手の込んだ小説もないわけではない。しかしそれでは脚本になってしまう。
小説でわざわざやる必要があるかと思ってしまう。

『スース』や『内親王遼子』なんかは逆に先に映像があってそれを膨らませて小説にしたもんなんで、
映像化は楽だろうと思う。

逆に映像制作するよっていってるのにどうやって映像化するつもりなんだろうという企画やシナリオを持ち込んでくるやつもいて、
絵コンテみてもそれじゃ意味伝わんないよみたいなので、
ようするにわかってないんだな、そういうやつは映像作品も作れないが小説も書けないだろうなと思う。
映像と非映像の間にある緊張関係が理解できてないわな。
それよか既存の陳腐な記号を並べたシナリオ書いてもらったほうがまし。
まずはそこからやればよくて、
そのうちだんだん記号に頼らない脚本かくようにしていけばいいんじゃないのか。

試供品としてのDRMフリー

これは完全に自分ルールなのだが、
短編(だいたい30分程度で読み終わるもの)はPDFで無料配布しようと思っている。
値段をつけてもよいくらいの分量のもので、しかし尺が少々短いもの(まあ、読む速度によるが、1時間程度で読めなくもないもの)は、
kdpでDRM適用せずに出版する。
いわゆるDRMフリーというもの。

Kindle本は、My Kindle から azw3 という形式でダウンロードできる。
DRMが適用してあると、購入者が登録した端末でしか読むことができないようにしてあるらしい。
要するに暗号化してある。

DRMフリーは暗号化してない。
暗号化してない azw3 を epub に変換するソフトというのはいくつかある。
calibre とか。
pdf にも変換できるといっているのだが、なんかうまくできない。

いずれにしても、PC や Mac だと Kindle Previewer で直接 azw3 を読むことができる。
ただ理由はよくわからんが、Kindle Paperwhite モードでしか読めないようだ。
わざとそうしているのかもしれん。
ともかくだれか一人が買えばそれを知合いに配って読ませることくらいはできる。

PDFで無料配布しているというのは今のところ『特務内親王遼子』だけで、
DRMフリーで出版しているのは『エウメネス』『スース』の二つ。
これらは私の中では試供品とでもいうべき位置づけであり、
どんどん私の小説を知ってもらおうというつもりで書いている。

これらはどれも短編なので、続編を書く可能性もある。

kdpではDRMフリーを選択できる権利が著者に留保されている、というわけだ。
アマゾンはDRMしばりじゃなく中立だよ、と言いたいのかもしれん。
いずれにしろDRMだからけしからんとアマゾンを批判することはできない、と思う。

DRMは必要だと思っている。
というのは、DRMがないと、悪意のある人が(いや確信犯的な善意かもしれんが)
勝手にダウンロードできるようにしてしまうかもしれず、
ファイル共有とかしちゃうかもしれんわな。
それでは結局無料で配るのと同じことになってしまう。
だからあくまでもDRMフリーは試供品。シェアウェア的な感覚。

『スース』は今まででは一番たくさん配布されたがそれでも『西行秘伝』の2倍にはならなかった。
『西行秘伝』は今自分で読んでみても非常に読みにくい話であり、
まして著者以外の人は、一度読んだだけではわからんと思う。
こういうのは、一応覚悟のできている読者の方だけに読んでもらえばよいと思っている。
それとは別にエンターテインメント主体な試供品的なものをも少し書かなくちゃいけないんだろうなというのが最近の立ち位置というか。
ビジネスモデルというか。