映像化

投稿者: | 2013年8月9日

私は、脚本家やライターが書くような文章は絶対書くまいと決めている。
そういうプロの仕事はプロの方々にお任せすればよい。
自分は原作者だと思っているのだ(プロの原作者もいるわけだが、原作というのは古典やらなんやら含めて広く、という意味で)。

普通は、原作、脚本という書き分けをしてないのではなかろうか。
現代のライターは原作即脚本という書き方をするのではないか。
脚本にしにくい原作をわざと書く、などという意地の悪いことはしないと思う。

わざと商業化しにくいような文章を書いている、と言ってもいいかもしれん。

映像には映像文法というものがあるし、アニメや漫画は明らかに「記号」によってできている。
様式化されたアニメやマンガ作品の多くは記号の羅列だけでできていて、いらいらする。
まあ、大勢の人が分業体制で大量生産していればどうしてもそうなる。

そういうビジュアルな文法や記号というものに、翻訳しやすいように文章を書くことはできる。
映画や漫画から逆アセンブルしてそういう記号を文章の中に埋め込んでおけば、
いつか自分の作品が映画化・漫画家されるときに好都合だろうと考える。
ラノベなんかまさにそうだろう。

しかし小説を書くひとというのは、わざと映像化しにくい文章を書いたりするものだと思う。
この延々と心理描写が続く部分、映像化できないから捨てるしかないよ、とか。
人間の精神活動のほとんどすべては映像と音声でできている。
したがってたいていは映像化できる。
しかし、残りの数パーセントくらいは、どうしてもできない。
できないものは概念化、記号化することによって映像表現するしかないが、
それは文法なので、学ばないとわからない。

既存の概念も文法もないものは映像化できない。
詩を外国語に翻訳できないように、映像化できない文章というものもある。
小説家はときどきそういうものをわざと書きたくなる人種だと思う。

紫式部の時代にもそういう葛藤はあったと思う。
この話、絵物語にしてもぜんぜん面白くならんだろうなとか。
もっと昔々、現生人類が生まれたときからあったと思う。

たとえば「手に持った箸の先端まで神経が通るような」という描写は映像化できないだろう。
匂いや触覚も翻訳しにくい。
無理に翻訳しようとすると漫画的な表現になってしまうだろう。
目線とか身震いのようなゼスチャーで表現するかもしれない。
役者が下手だと陳腐だし、うまい役者だと芝居がかる。
「今まで体験したことのない、言葉にならない感情が沸き起こってくる」
みたいなのもそうだ。
それを文章ならばいろいろと説明できるが、映像では無理だ。
それが時間的には一瞬のできごとであればなおさらそうだ。

もひとつ言えば「ような」「ように」を使うのは負けだと思っている。
「石像のように立ち尽くした」というのは陳腐だ。
「石像のように」とかつい書いてしまうが、実際には必要ない。なくてもいい。
イメージが濁るだけだ。
なんか具体的な石像の描写があって必然的にそう書くならばともかく、
唐突に陳腐なたとえを持ち出すのはよろしくない。

かといって「手に持った箸の先端まで神経が通った。」
みたいな表現もいやらしくてやる気にならん。それよか普通に「通ったようだ。」とか書いたほうがまし。

とりとめのない追憶、のように時系列になってないものも、小説ならかけるが映像化するときはさくっと時系列にせざるを得ないだろう。

一日だけの出来事ならば映像化しやすいが何百年・何千年にわたる歴史なんかだと映像化しにくい。
いきなり百年前や二百年前の歴史上の人物が比較対象として取り上げられるとすると、いちいち説明しなくてはならない。
できるだけ説明しようとは思うが、話の流れを断ち切るからあまりやりたくない。
頼朝とかカエサルとか楠木正成なんかだと説明せずに流す。
小説ならそれでいいかもしれんが、映像作品でそれやるとわけわかんなくなると思う。

あと、登場人物が五十人超えるともう映像では表現できなくなると思う(群衆とかを除いてだが)。
主観視点なのにその人物がいちいち切り替わるとか。
主人公が途中で死んじゃうとか。
神の視点で描写されていてだれが主人公かわからんとか。

場面転換が多すぎて世界中あちこち移動しまくるとか。どうやってロケするのかとか。
じゃCGでやるかというとそれも難しいとか。

セリフがまったくない箇所とかね。
私はできるだけ話の筋はセリフ化してキャラクターにしゃべらせるようにしているが、
わざと会話をなくしてみたい箇所もあったりする。

映像化しやすい記号化された文章というものがわかってくると、逆にわざと映像化できない作品を作ってみたくなるよな。

私の作品は論文や論説を兼ねていることが多いのだが、これもまた映像化しにくいだろう。
そのまんま映像化すると放送大学の講義みたいになってしまう。
それはそれで、文芸作品ではない。

それから歌物語。現代人が古語の和歌なんかわかるはずがない。
映像化しにくい。
ときどき書いていることだが、俳句は映像化しやすいが和歌は極めて難しい。
和歌は基本的に心理描写、俳句は情景描写だからだ。
その違いがわかってない人は多い。

あと漢詩。
漢詩を映像化できる人がいたら見てみたい。
解説はできるだろうが映像化はできない。
下手に描写すると漢詩が画賛みたいになってしまう。それじゃ駄目だ。
ちなみに私の場合漢詩の説明はほとんどしてない。しても無駄だと思うし。

漫画なんかで冒頭だけ場面の全景を描いてだんだんにキャラクターによっていくというコマの構成がある。
明らかに説明である。記号だ。
小説でもよく使う手口だ。
いちばん最初だけたいくつな自然描写が続いたりする。
文章によって逆に映像表現をしているわけだ。
しかしふつう小説というのはそんな親切じゃあないから、途中から映像表現は省略していく。
一種の読者サービスだったりもする。
絵コンテなんかだとそうはいかないわけで。
映画のシーンが連続するような手の込んだ小説もないわけではない。しかしそれでは脚本になってしまう。
小説でわざわざやる必要があるかと思ってしまう。

『スース』や『内親王遼子』なんかは逆に先に映像があってそれを膨らませて小説にしたもんなんで、
映像化は楽だろうと思う。

逆に映像制作するよっていってるのにどうやって映像化するつもりなんだろうという企画やシナリオを持ち込んでくるやつもいて、
絵コンテみてもそれじゃ意味伝わんないよみたいなので、
ようするにわかってないんだな、そういうやつは映像作品も作れないが小説も書けないだろうなと思う。
映像と非映像の間にある緊張関係が理解できてないわな。
それよか既存の陳腐な記号を並べたシナリオ書いてもらったほうがまし。
まずはそこからやればよくて、
そのうちだんだん記号に頼らない脚本かくようにしていけばいいんじゃないのか。

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