百人一首は凡歌を好む。

いよいよ百人一首を書こうと思って、また調べ始めたのだが、古今集のときと違って気が重い。
古今集の気持ちのよさが百人一首にはない。
どんどん憂鬱になっていく。

百人一首は凡歌を好む。
凡人の好みをかなり忠実に反映していると言っても良い。
プロの歌人がいればそのパトロンがいる。
パトロンとは要するに摂関家である。
百人一首の時代で言えば、九条家と西園寺家。
パトロンは必ずしも歌がわかるわけではない。
というより俗物でなければパトロンなどにならんだろう。
パトロンたちは天智天皇の歌や陽成院の歌が好きなのである。
そして宇多天皇や醍醐天皇の歌のよさがわからない。
持統天皇とか光孝天皇の歌は、プロにもパトロンにも好まれるという意味で幸せな歌である。当然載せるべきである。
私ならば天智天皇と陽成院の歌をよけてでも、宇多天皇と醍醐天皇の歌を入れたい。
しかし、悲しいことに、玄人受けはしても、一般受けはしない。

一般人はリアリティよりはファンタジーを好む。
真実よりは雰囲気を好む。
実景や真情を写生した素朴な歌よりも、虚構で飾った派手な歌を好む。
これは私が小説を書いていても実感することだ。

醍醐天皇の歌をみよ。これぞまさしく古今調の神髄である。

> むらさきの色に心はあらねども深くぞ人を思ひそめつる

> うつつにぞとふべかりける夢とのみ迷ひしほどや遥けかりけむ

> あかでのみふればなりけり逢はぬ夜も逢ふ夜も人をあはれとぞ思ふ

醍醐天皇の歌は優美だが肉声である。
目の前で醍醐天皇自身が語りかけてくるようなそんな迫力がある。
醍醐天皇は歌という形をとって心を訴えている。
しかし、多くの人は、訴えるべき心もないのに歌を詠もうとする。

正岡子規は二十代の頃、その形をまねようとした。

> 物思ふ我身はつらし世の人はげにたのしげに笑ひつるかな

> いはずとも思ひの通ふものならば打すてなまし人の言の葉

> 我恋は秋葉の杜の下露と消ゆとも人のしるよしもなし

非常にまずい歌だ。こんな歌を詠むくらいなら、口語で都々逸でも詠んだほうがましだ。
いかにも、江戸か明治の人が詠みそうな、いくじのない女々しい恋の和歌になってしまっている。
陳腐な歌謡曲に過ぎぬ。
子規は自分の才能に絶望しただろう。だから、

> くれなゐの二尺のびたる薔薇の芽のはりやはらかに春雨の降る

のような、俳句を伸ばしたような和歌を詠むしかなかったのだ。
まあ子規には珍しい、唯一の秀歌と言ってよいのだが、これなんかも、

> 春雨に二尺のびたる薔薇の枝

でも十分よさそうなもので、やはり子規は俳句の人なのである。

古今集仮名序に、「やまとうたは人の心を種としてよろづの言の葉とぞなれりける」
と言うが、醍醐天皇の歌はまさにこの順序でできている。
定家の詠歌大概に「情以新為先詞以旧可用」も同じ意味である。
古い言葉を用いて新しい心を言い表す。
西行も為家もだいたい同じことを言っている。
俳句には実は心は不要だ。
少なくとも和歌で言う心と、俳句で言う心は違う。
俳句は目の前の情景を言葉で写し取る。
あるいは情景から興る感動を言葉で表す。
和歌はそうではない。
心の中にわき起こってきた形のないもやもやとした感情を、
客観的に自己観察して、
それを言葉に表す。
このとき「紫の色」などのような譬えを用いることはあるが、
もともとは何の色も形もないもの。それが和歌で言う心である。

百人一首を調べていると絶望しそうになる。
良い歌も混ざっているが俗な歌も多い。
ただの俗な歌に御製という箔付けをしたりするからよけいたちが悪い。
御製という箔付けがなくとも良い歌はよい。
悪い歌は悪いのだ。
歌とはそういう真剣勝負なのではないのか。
しかし百人一首はあきらかにそうではない。

万葉集では「将宿」を「寝む」と訓む。
人麻呂の「ひとりかもねむ」の「ねむ」が「将宿」と表記されている。

> 足日木乃 山鳥之尾乃 四垂尾乃 永長夜乎 一鴨将宿

なんでやねんと思う。
しかし万葉集の他の用例を見ると、
「将宿」は「宿らむ」とも訓まれ、
「将去」は「ゆかむ」、
「将隠」は「隠さむ」、
「将泊」は「泊てむ」、
「将示」は「示さむ」、
「将有」は「あらむ」、
「将見」は「見む」、
「将超」は「こえむ」、
「将吉」は「よけむ」、などと訓まれているのである。

つまり、意志の助動詞「む」を意訳して「将」とした。
まさに~しよう、という意味があるからだ。

「ひとりかもねむ」は
「獨可毛将宿」と書かれたり、
「獨鴨念」と書かれたり、
「一香聞将宿」「一鴨将寐」「孤可母寐」「一鴨将宿」「獨鴨寐」などと書かれたりもするが、
「比登里可母祢牟」と書かれたものもあり、これは「ひとりかもねむ」と訓まざるを得ない。
万葉時代には良く使われた言い回しだったのだろう。

「ながながしよを」は「永長夜乎」と書かれているが、
これでは「ながながよるを」と訓んでもよい。
「ながながきよを」「ながきながよを」かもしれない。
なぜ「ながながしよ」となったのか。

私なら

> あしひきの 山どりの尾の しだり尾の 長き長夜を ひとりかも寝む

と訓みたい。

平安時代すでに「ながながし」はシク活用なので「ながながしき夜」となって余計変だ。

こひぢ

こひぢは恋路とも泥とも書く。
恋路は濡れる、涙、蓮、あやめ草、五月などとかけて使われる。

更級日記に、今の隅田川当たりの情景を

> 浜も砂子白くなどもなく、こひぢのやうにて

などと言っているのが割と有名ではなかろうか。
単に「ひぢ」とも言う。
「ひち」は濡れるという意味。
音が近いがもともとは別の単語であろうか。
いずれにせよ泥で濡れるというイメージ。

後撰集

をとこのはじめて女のもとにまかりてあしたに、雨のふるにかへりてつかはしける
読人不知

> 今ぞしるあかぬ別れの暁は君をこひぢにぬるる物とは

返し
読人不知

> よそにふる雨とこそきけおぼつかな何をか人のこひぢといふらむ

はちすのはひをとりて
読人不知

> はちすばのはひにぞ人は思ふらむ世にはこひぢの中におひつつ

金葉集

小一条院

> 知らざりつ袖のみぬれてあやめ草かかる恋路におひんものとは

千載集

百首歌よみ侍りける時、恋の心をよみ侍りける
実定 右大臣

> さきにたつ涙とならば人しれず恋ぢにまどふ道しるべせよ

例を挙げるのはもうこのくらいでよいと思うが、
要するに、恋路、涙、濡れるというイメージが便利なので、頻繁に使われた。
後撰集に見える陽成院の歌

つりどのの皇女につかはしける

> つくばねの峰よりおつるみなの川こひぞつもりて淵となりける

みなは蜷という貝であるという。
タニシのことだろう。
タニシだから泥に住む。
みなの川、こひ、淵というイメージがつながる。
淵に泥がたまってそこにタニシが住んでいる。
その川の水は筑波山から流れ落ちてきたのであると。

そこまで説明されてやっとこの歌の意味がわかる。
誰もこれを秀歌だとは思っていない。
しかし絵に描いたようなイメージを伴った便利な歌である。
そして比較的古い。
広く知れた歌だったのだろう。
だから本歌取りが多い。
良い歌だから本歌取りされやすいとは言えない。
平凡で、使い回しやすいから本歌取りされるとも言える。
陽成院が自分で詠んだ歌ではあり得ない。
おそらくは宇多天皇時代の無名の職業歌人が代わりに詠んだ歌だろう。

みなの川は男女ノ川と書くという。
筑波山の男体山と女体山を表すという。
なぜミナが男女なのか。根拠ははっきりしない。
京都の貴族らは誰も筑波山を見たこともないし、男女ノ川を見たこともない。
男女ノ川の淵の泥の中に住んでいるタニシなどみたことない。
ファンタジーの歌だ。
しかしファンタジーは往々にして、人を楽しくもさせる。

ある意味、百人一首にはもっともふさわしい歌かもしれない。
口調がなめらかで、平安朝的で、しかも天皇の御製であるからだ。

釣殿の皇女とは光孝天皇の皇女である。
つまり、陽成天皇が光孝天皇に譲位したあと、
光孝天皇の皇女に陽成上皇が恋歌を贈ったということにしたいのである。
もし事実だとしても代詠であっただろう。
この微妙な人間関係もまた、この歌を有名にするのを助けたかもしれない。
ああ、誰が詠んだか知らないが、うまく無難に詠んだものだなと。

陽成天皇は実体がよく見えないぼやっとした人である。
積極的に何かをしたというものがまるでないが非常に長寿だった。
歌のぼんやりしたイメージとも合ってると言える。

ミナはカワニナの古名であるともいう。
ニナ貝は普通は磯で捕れる貝である。
カワニナは川蜷であって、
まあ要するに小型のタニシである。

ペルセポリス

ペルセポリスはダレイオス一世によって作られ、アレクサンドロス大王によって破壊された。
すなわち、わずか200年足らずしか存在しなかった、人工都市だったということだ。

スーサとかバビロンとかエクバタナなどの都市と同じように考えることはできない。

アケメネス朝でもっとも栄えた町はバビロンかスーサであろう。
アレクサンドロスはスーサで大結婚式を行った。
またバビロンで戴冠式を行った。
つまりスーサもバビロンも破壊されなかったということだろう。
エクバタナはペルシャ人発祥の古都である。
ここも略奪されたとか破壊されたとは書かれてない。

ペルセポリスには確かに王宮があったが、
ここはどちらかと言えば王墓の都であり、王家祭祀の町であって、一般住民はほとんどいなかったと思う。
ダレイオス一世以後の墓はあるがそれ以前のキュロス大王の墓などは別のところにある。
王墓と町はほとんど重なるようにして建てられている。
エジプトのピラミッド、カルナーク、ルクソール、アブシンベルのようなもので、
町というよりは神殿群のようなもの、ペルシャの民衆というより王家固有のものではなかったか。

アレクサンドロスがペルセポリスの王宮を焼いたというのは、ある種、象徴的な行為であって、
それはペルシャ軍がアテナイのアクロポリスを略奪したことへの報復というような意味であったかもしれない。
或いはギリシャの神々、とくにディオニュソスを信仰するギリシャ人からみて、
ペルセポリスは破壊すべき異教の町に見えたかもしれない。
いずれにせよ一般民衆から略奪したというのとはかなりニュアンスが違うように思う。

或いは、スーサやバビロンなどはペルシャ人によって支配された民の町、被征服者の町であったが、
ペルセポリスだけは、ペルシャ人の、ペルシャの王族が住む町であったかもしれない。
従ってスーサやバビロンではさしたる民衆の抵抗はなかったが、
ペルセポリスに入城するときには強硬な抵抗があったのかもしれない。
ペルシャを征服するにはペルセポリスを無傷で残すことはできなかった。
歴史の長いアジアでは征服者どうしが戦うことはあっても、
征服者と被征服者が戦うことは滅多にない。

さらに、ダレイオス三世はアレクサンドロスによって代々の王と同様に(つまり丁重に)ペルセポリスに葬られている。
このことから見ても、アレクサンドロスが単にペルセポリスを破壊し、略奪したとは思えないのである。
ペルセポリスは、スーサと同様に、ペルシャ帝国の衰亡とともに捨てられ、忘れ去られただけではないのか。

焼き尽くす献げ物

[「燔祭」か「焼き尽くす献げ物」か?](http://www.geocities.jp/hirokuro01/hansai.html)

サムエル記上2:12-16
> さて、エリの子らは、よこしまな人々で、主を恐れなかった。
民のささげ物についての祭司のならわしはこうである。人が犠牲をささげる時、その肉を煮る間に、祭司のしもべは、みつまたの肉刺しを手に持ってきて、それをかま、またはなべ、またはおおがま、または鉢に突きいれ、肉刺しの引き上げるものは祭司がみな自分のものとした。彼らはシロで、そこに来るすべてのイスラエルの人に、このようにした。
人々が脂肪を焼く前にもまた、祭司のしもべがきて、犠牲をささげる人に言うのであった、「祭司のために焼く肉を与えよ。祭司はあなたから煮た肉を受けない。生の肉がよい」。
その人が、「まず脂肪を焼かせましょう。その後ほしいだけ取ってください」と言うと、しもべは、「いや、今もらいたい。くれないなら、わたしは力づくで、それを取ろう」と言う。

普通に考えて、祭壇に献げた犠牲を完全に燃やしてしまうということは考えにくい。
神道でも仏教でもやらないことだ。
仏壇にお供えした食べ物は普通後で人が食べる。

サムエル記を読む限りでは、
祭司はお供えの肉を食べることがあったようである。
生肉のまま食べてはいけないが、
煮たり、
脂肪を焼いて煙にしてしまった後に残る肉は食べた、と解釈できるように思う。

シロはイスラエル12支族の一つエフライム族の土地にある町。
この時代、幕屋と契約の箱は移動をやめ、このシロに留まり、
やがて神殿が建てられたという。
しかしながら祭司のレビ族はそのまま神殿を管理したのであろう。
契約の箱はペリシテ人に奪われるが、
後に送り返された(ということになっている)。
祭司エリはレビ人であったように思われるが、養子のサムエルはエフライム人のようにも思われる。
レビ人に独占されていた祭司が普通のイスラエル人に移っていったことを意味しているのかもしれない。

レビ記2:1-3
> 人が素祭の供え物を主にささげるときは、その供え物は麦粉でなければならない。その上に油を注ぎ、またその上に乳香を添え、
これをアロンの子なる祭司たちのもとに携えて行かなければならない。祭司はその麦粉とその油の一握りを乳香の全部と共に取り、これを記念の分として、祭壇の上で焼かなければならない。これは火祭であって、主にささげる香ばしいかおりである。
素祭の残りはアロンとその子らのものになる。これは主の火祭のいと聖なる物である。

穀物が献げられたときも、
司祭はその一部を取って焼くが、残りはレビ族で食べて良い、と書かれている。
つまりレビ族は自分自身の土地を持たず、
自給はできないが、祭壇に献げられたものを食べて生きていた、と考えられるのである。