良い国作ろう鎌倉幕府

投稿者: | 2012年7月4日

1192年は頼朝が征夷大将軍宣下をうけたときであって、幕府という体裁が成立したのは義経を追撫するという名目で全国に守護地頭を置いた時点だろう。
また、たまたま征夷大将軍職が三代にわたって世襲されたけれども、この時点で将軍職が世襲される、つまり将軍家というものができて、
それが幕府である、というはっきりとした認識は誰にもなかっただろう。
また、将軍は天皇か院が任命するものだから、もう実朝もいないから誰にも将軍宣下しないよというのは天皇、というかこの場合は後鳥羽院次第なのであり、
また北条氏に都合の良い人物に対して後鳥羽院に宣下を無理強いする実行力も大義名分も当時北条氏にはなかった。

だが北条氏としては是が非でも将軍を戴いて、その将軍が任命した形で全国に守護と地頭を維持し、
それによって事実上幕府が政治を行えるようにしておきたかった。

そこでどちらがしかけたというのでなしに承久の乱というものがおきて、たまたま鎌倉が勝って、後鳥羽院や上皇や天皇を流して、
自分の言いなりになる天皇を即位させて、それで将軍宣下させて、鎌倉に傀儡の将軍を置いて、それで守護と地頭を恒常的に置くことになった。

と考えれば、鎌倉幕府というか武士政権が成立したのは1221年承久の乱によるのであり、
別に1192年に頼朝が征夷大将軍になったからじゃあない。
別に良い国作ろうという意図があったわけでもない。
実際にはその真逆であって、三人の上皇・天皇が流されて、傀儡の天皇が即位することによって成立したものなのだ。
日本の黒歴史そのもの。
南北朝どころではない大乱によって武士政権は生まれたのである。

ところが世の中ではいまだに良い国作ろう鎌倉幕府などと教えているようで、正しい歴史認識の重大な障害になっているのは明らかだ。
明治政府というのは結局武士が作ったものだから頼朝の正統性を否定することはできないし承久の乱も否定できなかったのだろう。
まあともかく曖昧にしておきたかった。
特に、承久の乱てやつは大江広元が画策したのだが、大江広元は頼朝の家臣で毛利家の祖先であり、
島津ももとはといえば頼朝の家臣。
薩長が頼朝を否定できるわけがないのだ。
薩長は戦後に至るまで総理大臣をたくさん出している。
ここのところが直されないのに戦後教育がとか軍国史観がとかなんとか言ってみてもなんの意味もないと思う。

ただまあ新井白石が言うように、朝廷は末期的症状であって、国司は任地に赴かず、天皇家から公家や武家に至るまで、
みんな私有地を経営していた。天皇自ら国家経営を放棄して荘園ばかりいじくりまわしていたのだから、もう目もあてられない。
そういうところに北条氏が出てこなければ、政治というものが機能するはずもなかったわけだ。
そこに必然性があると言えばある。

頼朝はもともと公家のようなものであり、おそらく死ぬまで精神は公家だっただろうと思う。
二条天皇の学友として蔵人になった。
武家という意識がなくはなかったろうが、かなり希薄だったと思う。
実朝も精神的には公家であり、天皇に任命されて征夷大将軍になったと考えていたはずである。
だから後鳥羽院に鎌倉なんとかせえと言われてその気になった。
が、北条氏としてはそれはまずいということで暗殺となった。

> 謹みて按ずるに、後鳥羽院天下の君たらせ給ふべき器にあらず。共に徳政を語るべからず。思うに初め後白河の君を選みたまひしやう、事柄かろがろしき御事なり。

新井白石は読史余論でそう言っているのだが、
後鳥羽院の御製やら、あるいは後鳥羽院口伝やらを読み、
新古今集のできばえなどみる限りでは、
かなり聡明な君主であったのは間違いないと思う。
少なくとも後白河院よりはずっとましだっただろう。
後鳥羽院は惰弱な西国武士を募って剽悍な坂東武士にあたって自滅した無謀な君主と言われているのだが、
西国と関東が戦えば必ず関東が勝つ、鎌倉男児の方が強い、というのは結果論であり、
実際には、
たまたま鎌倉が勝ってしまった、
という方が近いのじゃないかと思う。
どちらかと言えば武士の個人のレベルの力の差というのでなしに、
総司令官の後鳥羽院の軍事音痴の方が問題だったのではなかろうかという気がする。
方や北条氏の方はもう毎日戦争に明け暮れていたから戦術的には優れていただろう。

後醍醐天皇の時でも、
西国にも赤松とか楠木など割合強い武士団があったし、
護良親王も軍事的には天才だったと言える。
それが足利氏や新田氏の離反を招いたのだし。
もし承久の乱で官軍が善戦している間に、関東に朝廷に寝返る勢力がでてきたらまったく話は違ってくる。
あまりにもあっけなく決着がつきすぎたのだ。

だから、承久の乱でもし後鳥羽院が勝ったら、というシミュレーションをしてみるのは案外悪くないと思う。

新井白石は折り焚く柴の記などと後鳥羽院の歌にちなむ随筆を書いたりなんかして、
ほんとは後鳥羽院が大好きなのではなかろうか。
なんか屈折してるよな。

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