こひぢは恋路とも泥とも書く。
恋路は濡れる、涙、蓮、あやめ草、五月などとかけて使われる。
更級日記に、今の隅田川当たりの情景を
> 浜も砂子白くなどもなく、こひぢのやうにて
などと言っているのが割と有名ではなかろうか。
単に「ひぢ」とも言う。
「ひち」は濡れるという意味。
音が近いがもともとは別の単語であろうか。
いずれにせよ泥で濡れるというイメージ。
後撰集
をとこのはじめて女のもとにまかりてあしたに、雨のふるにかへりてつかはしける
読人不知
> 今ぞしるあかぬ別れの暁は君をこひぢにぬるる物とは
返し
読人不知
> よそにふる雨とこそきけおぼつかな何をか人のこひぢといふらむ
はちすのはひをとりて
読人不知
> はちすばのはひにぞ人は思ふらむ世にはこひぢの中におひつつ
金葉集
小一条院
> 知らざりつ袖のみぬれてあやめ草かかる恋路におひんものとは
千載集
百首歌よみ侍りける時、恋の心をよみ侍りける
実定 右大臣
> さきにたつ涙とならば人しれず恋ぢにまどふ道しるべせよ
例を挙げるのはもうこのくらいでよいと思うが、
要するに、恋路、涙、濡れるというイメージが便利なので、頻繁に使われた。
後撰集に見える陽成院の歌
つりどのの皇女につかはしける
> つくばねの峰よりおつるみなの川こひぞつもりて淵となりける
みなは蜷という貝であるという。
タニシのことだろう。
タニシだから泥に住む。
みなの川、こひ、淵というイメージがつながる。
淵に泥がたまってそこにタニシが住んでいる。
その川の水は筑波山から流れ落ちてきたのであると。
そこまで説明されてやっとこの歌の意味がわかる。
誰もこれを秀歌だとは思っていない。
しかし絵に描いたようなイメージを伴った便利な歌である。
そして比較的古い。
広く知れた歌だったのだろう。
だから本歌取りが多い。
良い歌だから本歌取りされやすいとは言えない。
平凡で、使い回しやすいから本歌取りされるとも言える。
陽成院が自分で詠んだ歌ではあり得ない。
おそらくは宇多天皇時代の無名の職業歌人が代わりに詠んだ歌だろう。
みなの川は男女ノ川と書くという。
筑波山の男体山と女体山を表すという。
なぜミナが男女なのか。根拠ははっきりしない。
京都の貴族らは誰も筑波山を見たこともないし、男女ノ川を見たこともない。
男女ノ川の淵の泥の中に住んでいるタニシなどみたことない。
ファンタジーの歌だ。
しかしファンタジーは往々にして、人を楽しくもさせる。
ある意味、百人一首にはもっともふさわしい歌かもしれない。
口調がなめらかで、平安朝的で、しかも天皇の御製であるからだ。
釣殿の皇女とは光孝天皇の皇女である。
つまり、陽成天皇が光孝天皇に譲位したあと、
光孝天皇の皇女に陽成上皇が恋歌を贈ったということにしたいのである。
もし事実だとしても代詠であっただろう。
この微妙な人間関係もまた、この歌を有名にするのを助けたかもしれない。
ああ、誰が詠んだか知らないが、うまく無難に詠んだものだなと。
陽成天皇は実体がよく見えないぼやっとした人である。
積極的に何かをしたというものがまるでないが非常に長寿だった。
歌のぼんやりしたイメージとも合ってると言える。
ミナはカワニナの古名であるともいう。
ニナ貝は普通は磯で捕れる貝である。
カワニナは川蜷であって、
まあ要するに小型のタニシである。