ペルセポリス

ペルセポリスはダレイオス一世によって作られ、アレクサンドロス大王によって破壊された。
すなわち、わずか200年足らずしか存在しなかった、人工都市だったということだ。

スーサとかバビロンとかエクバタナなどの都市と同じように考えることはできない。

アケメネス朝でもっとも栄えた町はバビロンかスーサであろう。
アレクサンドロスはスーサで大結婚式を行った。
またバビロンで戴冠式を行った。
つまりスーサもバビロンも破壊されなかったということだろう。
エクバタナはペルシャ人発祥の古都である。
ここも略奪されたとか破壊されたとは書かれてない。

ペルセポリスには確かに王宮があったが、
ここはどちらかと言えば王墓の都であり、王家祭祀の町であって、一般住民はほとんどいなかったと思う。
ダレイオス一世以後の墓はあるがそれ以前のキュロス大王の墓などは別のところにある。
王墓と町はほとんど重なるようにして建てられている。
エジプトのピラミッド、カルナーク、ルクソール、アブシンベルのようなもので、
町というよりは神殿群のようなもの、ペルシャの民衆というより王家固有のものではなかったか。

アレクサンドロスがペルセポリスの王宮を焼いたというのは、ある種、象徴的な行為であって、
それはペルシャ軍がアテナイのアクロポリスを略奪したことへの報復というような意味であったかもしれない。
或いはギリシャの神々、とくにディオニュソスを信仰するギリシャ人からみて、
ペルセポリスは破壊すべき異教の町に見えたかもしれない。
いずれにせよ一般民衆から略奪したというのとはかなりニュアンスが違うように思う。

或いは、スーサやバビロンなどはペルシャ人によって支配された民の町、被征服者の町であったが、
ペルセポリスだけは、ペルシャ人の、ペルシャの王族が住む町であったかもしれない。
従ってスーサやバビロンではさしたる民衆の抵抗はなかったが、
ペルセポリスに入城するときには強硬な抵抗があったのかもしれない。
ペルシャを征服するにはペルセポリスを無傷で残すことはできなかった。
歴史の長いアジアでは征服者どうしが戦うことはあっても、
征服者と被征服者が戦うことは滅多にない。

さらに、ダレイオス三世はアレクサンドロスによって代々の王と同様に(つまり丁重に)ペルセポリスに葬られている。
このことから見ても、アレクサンドロスが単にペルセポリスを破壊し、略奪したとは思えないのである。
ペルセポリスは、スーサと同様に、ペルシャ帝国の衰亡とともに捨てられ、忘れ去られただけではないのか。

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