嵯峨天皇

嵯峨天皇「春日遊猟、日暮宿江頭亭子」

> 三春出猟重城外 四望江山勢転雄

> 逐兎馬蹄承落日 追禽鷹翮払軽風

> 征舟暮入連天水 明月孤懸欲暁空

> 不学夏王荒此事 為思周卜偶非熊

これは恐ろしく良くできた詩だ。
平仄も押韻も対句も完璧。

しかも、天皇なのに乗馬して猟をしている。
嵯峨天皇が実際にこういう人であったかどうか。
少なくとも嵯峨天皇は日本の大君ではなくて中国の皇帝を理想としていた。
唐の皇帝を。それを唐詩にした。

大和朝廷の王権というのは、ま要するに、天武天皇くらいに固まったのである。
天武天皇から嵯峨天皇まではわずかに150年くらいしかない。
当時の日本国というのは若い国家だった。
この頃はまだ万世一系とかそんなことは関係なく、
日本は、
アジアによくある、生まれては滅んでいく王朝の一つにしかすぎなかったのだ。
南北朝のころになってやっとなんか日本という国は特殊だな、ということに北畠親房あたりが気づいたのに過ぎない。

嵯峨天皇は中国式の完全に新しい国家を作ろうとしたのだろうと思う。

経国集

[経国集](http://miko.org/~uraki/kuon/furu/text/waka/keikoku/keikoku.htm)
はここで読むことができるが、立派な漢文の序文がついている。
やはり、この流れで行くと、古今集の序も最初は漢文だったのではないかと思われてくる。

どうかんがえても淳和天皇の勅撰じゃないだろ。
嵯峨上皇の命令だと思うよな、普通。

[滋野貞主](http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%8B%E9%87%8E%E8%B2%9E%E4%B8%BB)が選んだと書いてあるのだが、
ウィキペディアには、
良岑安世、菅原清公らが編纂とあるのはどういうわけだ。

> 春宮學士從五位下臣滋野朝臣貞主等奉敕撰

ここで東宮というのは嵯峨天皇の皇子で、
淳和天皇の皇太子に建てられていた、
のちの仁明天皇だわな。

勅撰というものが明らかに意識されたのも、漢詩集のほうだわな。
和歌集の方は、勅撰という意識が確立されるまでにだいぶ時間がかかった。

良岑安世は僧正遍昭の父で素性法師の祖父だから、
もとはこの家系は漢学の家だったのかもしれんね。

当時の平安京というのは、
完全に人工的な未来都市として作られて、
原始神道的匂いのする和歌は嫌われてて、
そもそも新都平安京には和歌を詠むような住人もいなくて、
それで自然に廃れたんだろうな。

奈良の仏教というとなんか密教的な、山岳信仰的な匂いがあるよね。
そういうのも一切捨てられてしまって、
完全に中国式の宗教儀礼に入れ替わったということじゃないかな。

大伴旅人の酒の歌十三首

万葉集に山上憶良の酒の歌臣罷宴歌一首

> おくららは いまはまからむ こなくらむ それそのははも わをまつらむぞ

のあとに大伴旅人の酒の歌十三首というのがあって、これがなかなかおもしろい。

> しるしなき ものをもはずは ひとつきの にごれるさけを のむべくあるらし

> さけのなを ひじりとおほせし いにしへの おほきひじりの ことのよろしさ

> いにしへの ななのさかしき ひとたちも ほりせしものは さけにしあるらし

> さかしみと ものいふよりは さけのみて ゑひなきするし まさりてあるらし

> いはむすべ せむすべしらず きはまりて たふときものは さけにしあるらし

> なかなかに ひととあらずは さかつほに なりにてしかも さけにしみなむ

> あなみにく さかしらをすと さけのまぬ ひとをよくみば さるにかもにむ

> あたひなき たからといふとも ひとつきの にごれるさけに あにまさめやも

> よるひかる たまといふとも さけのみて こころをやるに あにしかめやも

> よのなかの あそびのみちに たのしきは ゑひなきするに あるべくあるらし

> このよにし たのしくあらば こむよには むしにとりにも われはなりなむ

> いけるもの つひにもしぬる ものにあれば このよなるまは たのしくをあらな

> もだをりて さかしらするは さけのみて ゑひなきするに なほしかずけり

どうも泣き上戸だったらしい。
自分は飲んでもあまり泣かないので気持ちはよくわからない。
オマル・ハイヤームのルバイに通じるものがある。

冒頭の歌は有名だが、あとのもおもしろい。
昔の七賢人も好きなのは酒だったとか、
ああ醜い、偉そうに酒を飲まないやつをよく見たら猿に似ている、とか
このへんの歌はもっとはやっても良いはず。

古今集の成立

万葉集やらも合わせて読んでいるのだが、
万葉集はなんか、
関連ある歌が連続して採られているらしいのはわかるが、
選び方や配列が漫然としていて、古今集ほどおもしろくない。
この漫然感は後撰集や拾遺集にもあって、
逆に古今集というは歌の配置というものがものすごく意識して作られている。

この配置の妙というのはやはり歌合に影響を受けたものと言わねばならない。

在民部卿家歌合というのは左右に分かれて普通に競技として行われていて、
州浜を使って会場を飾ったり、勝ち負けを決めたりしている。
ただし誰の歌かは記されていない。

在民部卿家歌合が光孝天皇の御代に行われたのも偶然ではない。
光孝天皇が和歌復興の先駆者であるからだ。
かつ、在民部卿こと在原行平、彼が平城天皇の孫であることも実に興味深い。

光孝天皇も平城天皇も非主流派である。
光孝天皇は和歌・和琴・鷹狩を復興させた。
光孝天皇が行平に命じて、奈良に残っていた古い和歌の流れを発掘させた。
そして、おそらくは、奈良に自然発生した歌合というものを京都の宮中にもってこさせた。
嵯峨天皇『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』以来、京都は漢詩であって、
歌合が発生する素地はなかっただろう。
和歌の歌合に先だって漢詩の漢詩合(からうたあわせ)のようなものが、
なかったとは言い切れないが、
おそらく歌合は最初から即興で歌を詠む競技であったろうから、
日本人が即興で漢詩を作れるはずもなく、
やはり、長い和歌の伝統がある奈良でまずは歌合が発生したのではないか。
『新選万葉集』も奈良で引き続き詠まれていた和歌を集めたものかもしれない。

ともかく、奈良と京都、光孝天皇以前と以後では文化に大きな断絶があるのだが、
そこをある程度埋める作業をしたのが光孝天皇で、それを引き継いだのが宇多天皇といえる。
光孝天皇の治世は短すぎた。

そんでまあ行平が平城天皇の流れで奈良の歌合というものを京都に輸入すると、
爆発的に流行し始めて、
村上天皇の時代の天徳内裏歌合まで一気に加熱していくわけである。

ただ古今集があんなふうになったのは、
寛平御時后宮歌合のようなヴァーチャルな歌合から発展したものだろう。
歌合がヴァーチャル化したのは、漢詩集の影響があったかもしれない。
漢詩というものはあらかじめ詠んで持ち寄るものであっただろうから。
まともかく、実際に競技として行うのではない歌合が長大になったのが古今集。
歌合だと左右交互に詠む。
そこまでの規則性は古今集にはないが、
その雰囲気で配置されている。
現代歌人とよみ人知らずの歌を交互に並べたりとか。
春夏秋冬恋という部立ても明らかに歌合の影響だ。

もひとつ、古今集をおもしろくしているのは、
主に伊勢物語から、歌物語の要素を輸入したことと、
実際の歴史的事件を歌として配置していること。
これがあるから、我々はまるで大鏡を読むような気分で、古今集を読むことができる。
こういう工夫はおそらくほかの勅撰集にはない。

歴史物に歌物語的要素を持たせたものとしてはむしろ平家物語が近いといえる。
二代后あたりの作り話などいかにも古今集的だ。

かろうじて、定家の『新勅撰集』にそのかすかな匂いを感じるくらいかな。

『新古今集』のおもしろさはもっぱら歌合的なものだと思う。

陽成院も歌合をやっているが、古今集よりかはあとなくらいだから、
たぶん周りで和歌が流行ってるから自分もやってみたくなったのだろう。
やはり和歌は光孝天皇よりか後だ。

脳の老化と酒

酒は好きでよく飲んできたけどそろそろやめた方が良い気がする。

酒が弱くなった、というか、アルコールの代謝機能が落ちてきた、というわけではなさそうだが、
ある程度以上飲むと記憶が残らなくなってきた。

かなり酔っ払っても、だいたい意識はあるのである。
意識はあったというおぼろげな記憶はある。
でも翌朝起きてみると忘れてしまっている。

年を取ってしまえばだいたい経験だけで生きていける。
判断力と、昔の記憶があれば生きていける。
だから、
短期記憶から長期記憶へ記憶を移すところというのは、
年を取るとさほど重要ではない、少なくとも命に関わらないから、退化する。
いわゆるぼけというやつだ。

でまあ私はまだぼけが始まる年でもないし、ぼけてもいないはずだが、
酒を飲むとそれがでる。
すごく前倒しにぼけの症状が出ているのではなかろうか。
もう五十近くだしな。

昔は酔えば、記憶をなくす(正確に言えば判断力はあるが記憶が残らない)前に、
眠くて仕方なくて寝たと思う。
寝てなければだいたい覚えていたと思う。

昔も、酔えば無茶した。
生け垣に飛び込んだり、
自動改札を走り抜けたりした。
道で寝てたこともあるらしい。

今はそんなことはしないが、逆に違うところに問題が出てきた。

怒りっぽくなるというのもたぶん老化の一種だろう。

どんどん脳が老化していて、特に酔ったときにその症状が出る。
老眼も進行している。
要するにこれが年よりになるということなのだ。