万葉集やらも合わせて読んでいるのだが、
万葉集はなんか、
関連ある歌が連続して採られているらしいのはわかるが、
選び方や配列が漫然としていて、古今集ほどおもしろくない。
この漫然感は後撰集や拾遺集にもあって、
逆に古今集というは歌の配置というものがものすごく意識して作られている。
この配置の妙というのはやはり歌合に影響を受けたものと言わねばならない。
在民部卿家歌合というのは左右に分かれて普通に競技として行われていて、
州浜を使って会場を飾ったり、勝ち負けを決めたりしている。
ただし誰の歌かは記されていない。
在民部卿家歌合が光孝天皇の御代に行われたのも偶然ではない。
光孝天皇が和歌復興の先駆者であるからだ。
かつ、在民部卿こと在原行平、彼が平城天皇の孫であることも実に興味深い。
光孝天皇も平城天皇も非主流派である。
光孝天皇は和歌・和琴・鷹狩を復興させた。
光孝天皇が行平に命じて、奈良に残っていた古い和歌の流れを発掘させた。
そして、おそらくは、奈良に自然発生した歌合というものを京都の宮中にもってこさせた。
嵯峨天皇『凌雲集』『文華秀麗集』『経国集』以来、京都は漢詩であって、
歌合が発生する素地はなかっただろう。
和歌の歌合に先だって漢詩の漢詩合(からうたあわせ)のようなものが、
なかったとは言い切れないが、
おそらく歌合は最初から即興で歌を詠む競技であったろうから、
日本人が即興で漢詩を作れるはずもなく、
やはり、長い和歌の伝統がある奈良でまずは歌合が発生したのではないか。
『新選万葉集』も奈良で引き続き詠まれていた和歌を集めたものかもしれない。
ともかく、奈良と京都、光孝天皇以前と以後では文化に大きな断絶があるのだが、
そこをある程度埋める作業をしたのが光孝天皇で、それを引き継いだのが宇多天皇といえる。
光孝天皇の治世は短すぎた。
そんでまあ行平が平城天皇の流れで奈良の歌合というものを京都に輸入すると、
爆発的に流行し始めて、
村上天皇の時代の天徳内裏歌合まで一気に加熱していくわけである。
ただ古今集があんなふうになったのは、
寛平御時后宮歌合のようなヴァーチャルな歌合から発展したものだろう。
歌合がヴァーチャル化したのは、漢詩集の影響があったかもしれない。
漢詩というものはあらかじめ詠んで持ち寄るものであっただろうから。
まともかく、実際に競技として行うのではない歌合が長大になったのが古今集。
歌合だと左右交互に詠む。
そこまでの規則性は古今集にはないが、
その雰囲気で配置されている。
現代歌人とよみ人知らずの歌を交互に並べたりとか。
春夏秋冬恋という部立ても明らかに歌合の影響だ。
もひとつ、古今集をおもしろくしているのは、
主に伊勢物語から、歌物語の要素を輸入したことと、
実際の歴史的事件を歌として配置していること。
これがあるから、我々はまるで大鏡を読むような気分で、古今集を読むことができる。
こういう工夫はおそらくほかの勅撰集にはない。
歴史物に歌物語的要素を持たせたものとしてはむしろ平家物語が近いといえる。
二代后あたりの作り話などいかにも古今集的だ。
かろうじて、定家の『新勅撰集』にそのかすかな匂いを感じるくらいかな。
『新古今集』のおもしろさはもっぱら歌合的なものだと思う。
陽成院も歌合をやっているが、古今集よりかはあとなくらいだから、
たぶん周りで和歌が流行ってるから自分もやってみたくなったのだろう。
やはり和歌は光孝天皇よりか後だ。