関東

司馬遼太郎全集第50巻評論随筆集「歴史と視点」の中の「石鳥居の垢」あるいは「私の関東地図」という文章で、彼が戦車部隊に居たときのことを書いている。
彼らの部隊は満州に居たが、戦争末期、ソ連との不可侵条約を「わらをもつかむ気でソ連の信義というものを信じざるを得なくなって」、新潟に引き揚げてきた。
新潟から群馬の前橋まで来て、榛名山の入り口の箕輪というところに徒歩で移動して、
そのあと栃木の佐野に移ってここでソ連の参戦を知り、北関東にしばらく駐屯していた。
関東に米軍が上陸してきたときの「邀撃」に備えるためだった。
厚木の相模川沿いの「深田」で戦車の渡河実験などもした。
それで、司馬遼太郎は関東平野というものをある程度は知っているはずなのだが、
どうもまったく曖昧模糊としたことしか書いてない。
ただ単に「こんな広いところが日本にもあったんですねえ」とか
「こんなところ、空と桑畑があるだけじゃないか」とか、
そんなことばかり書いている。

思うに「燃えよ険」に出てくる府中から八王子にかけての雰囲気は、戦時中の記憶によるところが大きいのではないか。
もちろん小説を書くにあたって大国魂神社などを取材したに違いないのだが。
だから、関東と言っても鎌倉や小田原や、あるいは伊豆など相模湾のあたりがピンと来ないのではないかと思う。

甲州街道

「街道を行く」の「甲州街道」で、いきなり冒頭

> 「武蔵の国」というのは、いうまでもなく今の東京都のことである。

などというぼけをかましている。
なぜ編集者も注意しないのだろうか。
「武蔵国」とはいうまでもなくおおよそ今の東京都と埼玉県を合わせた地域であり、面積で言えば埼玉の方がずっと広い。
司馬遼太郎の文章を読んでいると随所に、関東の土地勘のなさが見える。

次に太田道灌と後土御門天皇のエピソードが紹介されるが、以前[宗尊親王](/?p=3212)にも書いたように、
私もころっとだまされたのだが、この話自体が300年も後に書かれたもので、
実話である可能性はきわめて低い。
それはそうと、誰が詠んだ歌かは知れないが、武蔵野の広さをうまく詠んだ

> 露おかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原

という感じは、
東京というよりは埼玉の景色、
東京から埼玉の方にずーっと続いている平原をイメージしたものに違いない。
それはつまり、だいたい新田義貞が鎌倉攻めしたルートに当たる。

埼玉というのは、東西で言えば秩父から川越、大宮、春日部まであるわけで、実に広い。
それがほとんど平地なのだから。
川越街道を描いたと思われる夏目漱石の[坑夫](http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/774_14943.html)の

> さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりもよっぽど長いもんだ。いつまで行っても松ばかり生えていていっこう要領を得ない。こっちがいくら歩いたって松の方で発展してくれなければ駄目な事だ。いっそ始めから突っ立ったまま松と睨めっ子をしている方が増しだ。

> 東京を立ったのは昨夕の九時頃で、夜通しむちゃくちゃに北の方へ歩いて来たら草臥れて眠くなった。泊る宿もなし金もないから暗闇の神楽堂へ上ってちょっと寝た。何でも八幡様らしい。寒くて目が覚めたら、まだ夜は明け離れていなかった。それからのべつ平押しにここまでやって来たようなものの、こうやたらに松ばかり並んでいては歩く精がない。

なども、関東平野の広さをよく表している。
明治天皇御製の

> かぎりなき野辺の桑原小松ばらおなじところをゆくここちせり

もそうだ。

埼玉の東、渡瀬遊水池の先はひろびろとした茨城の水田地帯、
霞ヶ関の水郷でこれまた真っ平らに広い。
実際、板橋あたりから北を見ると、筑波山や日光の山が遠くにかすんで見えるだけで、
ほとんど何も山らしいものがない。
世田谷や府中の当たりでも多少広さは感じるが、北関東の方がずっと広さを感じると思う。
東京都心や神奈川などは山ばかりなんで、どちらかと言えば関東という感じじゃないんだよな。
こういう狭苦しい坂ばかりの町は日本中にある。
ただまあ東京というところはほんとに晴れたときに遠くに富士山が見えるくらいで、
山の近い田舎に育ったものには寂しく感じるものだ。

あと、埼玉あたりだと、人がいなくて道がまっすぐだから二車線以上の一般道だと平気で100kmくらいで車が走っている。
東京当たりから行くととても怖い気がする。

> 北条氏なども、結局はいくじがない。関東平野の真ん中にその首府を置かず、西のすみのそれも箱根大山塊を後ろ楯にして城を堅固に設け、その天険にかくれつつ、へっぴり腰で関東に手をのばしては経営していたような印象がある。

いやあ。
これまたひどい言い方だな。
だいたいにおいて司馬遼太郎は関東に良い印象を持ってないのだが、
こういう言い方をしなくても良さそうなものだ。

中央と地方 いわゆる都鄙意識について

文藝春秋に昭和57年に掲載された司馬遼太郎の文章で、
「中央と地方 いわゆる都鄙意識について」というものがある。
これが司馬遼太郎の文章かというくらいずさんな論理で書かれている。
たとえば、

> そのおそるべき習風は、いまの若い人にも(にもどころかいよいよ本卦がえりも濃厚に)ありますなあ。短大など、どんな山間僻地にもあるのに、わざわざ東京の短大に出ていきたがる。目的は、原宿などで群れたい。もうそれで都の手振りになり、東京人そのものになる。

恥ずかしい。実に恥ずかしい文章だ。
確かに昭和の終わり頃、長渕剛が「とんぼ」とか歌ってたころの世相はそうだったかもしれん。
しかしいまや地方の大学の方がもてはやされる時代だ。
地方の女子は、わざわざ東京に出さず親元の大学に行かせている。
たまたま自分が生きていた時代の風俗が太古の日本にも当てはまるという発想をするのはあまりに貧しい。

思うに、司馬遼太郎は、平安初期の地方の日本人は、中央の文化や芸術に目がくらんで、いくらでも反乱を起こそうと思えば起こせたのに、
中央の権威に盲目的に従ってきた。
中央政府はろくな軍事力も権力ももっていなかったのに、そうやって天皇制というものが作られてきた。
要するに天皇制というのは権威とか文化とか華やかな都の手振りとかそういうもんなのだ。
そういうふうに言いたいのだろう。

実際にはそうではなかったはずだ。日本全国至るところで、反乱や武力衝突のようなものは起きていた。
しかしそれはいわゆる私闘に類するものであり、中央政府は訴訟処理能力も警察力もないから、
とにかく部族ごとに勝手に武力闘争で解決するしかなかった。
たまたま一方が国府を味方につけ、ために他方が国府を攻撃すると、私闘から公然とした反乱というレッテルを貼られる。
それが将門・純友の乱のようなものに発展する。

奥羽地方の反乱など、平安朝では介入する気すらない。
介入すれば軍事費を公費から出さなくてはならず、官軍には褒賞や官位などを与えねばならない。
だからできるだけ私闘ということにしておきたかった。
前九年の役、後三年の役などがそうだ。
そうやって朝廷はみずから軍事権や徴税権、統治権を放棄し、地方政治を放任してきた。
そのために関東以北では源氏の棟梁が事実上の統治者として仰がれるようになり、その結果頼朝による鎌倉幕府ができたのだ
(これは典型的な日本外史史観であり、八幡太郎義家の後世に作られた伝説に基づくものではあるが、私はおそらくかなり真実に近いと思う)。

部族どうしの私闘でも詔勅を得た方は官軍として、敵を賊軍として討伐できるし、
討伐に成功すれば官位ももらえる。
だから武士たちは中央政府を利用しただけともいえる。
バブルの絶頂のころ、原宿や六本木にあこがれる女子短大生と同じ理屈で片付けられる問題ではない。

また、司馬遼太郎は後醍醐天皇一人を悪者にしようとしている。彼の悪い癖だ。
後醍醐天皇は宋学イデオロギーに凝り固まって天皇を中国的な独裁皇帝にしようとした、などと言っているのだが、
そんな事実があるのか。
むしろ宋学をかなり正確に理解していたのは北条氏だっただろう。
後醍醐天皇は後鳥羽天皇がいたから出てきた。
後鳥羽天皇は保元の乱、平治の乱、寿永の乱(源平合戦)を経て、
天皇の大権が鎌倉幕府に移ったから出てきた。
後醍醐天皇がいきなり出てきたわけではない。歴史の必然として出てきたのだ。
天皇家から武家政権に次第に権力が移っていくその過程にたまたま後醍醐天皇が位置しているだけだ。
司馬遼太郎にはそういう発想がまったくない。
突然、変なイデオロギーにかぶれた天皇が出てきたから悪い、そういう風にしか考えられない。
大いに問題だ。

> (反乱を)起こしても、すぐ中央から命令が行くと、地方の豪族から現地採用の官吏(在庁官人)が恐れ畏んで、その辺の兵をかき集めると、みな源平藤橘と名乗っているのですから、朝廷のためだと思って、反乱者をやっつけてしまう。

あまりにも浅薄な理解と言わねばならない。たぶん司馬遼太郎は、将門の乱も前九年後三年の役も、何も知らないのだろう。
少し調べればわかることなのに。
反乱というものがわざわざ自分と何の関係もなく遠くへだたった朝廷に対して起こされると思っているのがまず間違いだし、
反乱が起きたら朝廷のために戦うというのも間違い。
前提条件のすべてが間違っている。
頼朝の挙兵も最初は将門の乱と同種だと思われていた。しかしそうはならなかった。
将門の乱がわからなければ、頼朝の挙兵の意義もまるでわからんのに違いない。

> 彼女たちは、平安期の板東武者たちが京にのぼりたがったようにして、「とにかく短大は東京ですごしたい」と思っています。

> 板東武者が都でけちな官位をもらって板東に帰り、近隣に誇示するように、夏休みなどに帰省して土着の同窓生に「やっぱり違うわね」といわせたいというのがのぞみなのでしょうか。
・・・日本における地方のはかなさを思わざるをえません。

> だから島根大学及び松江市の短大は、もっと力を持つべきだし、それを育てるために、島根県人がもっと意識を高めるべきだ。

いや、なんでこんなへんてこなことを言っているのか。
島根県の人口は70万人しかない。
相模原市の人口と同じだ。
仮に島根県の人たちが意識を高めても、相模原市と同じくらいの力しか持てないはずだ。
それはたかが知れている。
どうしろというのだろうか。

板東武者で都に行きたがったのはもっと時代がくだって源実朝あたりからだろう。
実朝はほんとに変な人だった。
板東武者が都に頻繁にのぼったのは訴訟のためだ。
自分が開拓した土地の所有権を保証してもらうため。
源氏や平氏などの武士団に分かれたのも、京都の藤原氏など有力者とのコネを作るのもみんなそう。
要するに、朝廷が設置したオフィシャルな出張所である国府と国の役人である国司がなんの役にもたたないからだ。
それがどうして都にあこがれてとかいう話になるのか。
もし国府に訴え出ればきちんと訴訟を処理し裁判してくれて土地を確保できたとしたら、
どうして都なぞに行く必要があろうか。
行きたがったのは実朝のような変人だけだ。
実際、鎌倉幕府ができて訴訟が鎌倉で解決するようになると、
鎌倉武士はまったく京都には行かなくなったはずだ。
板東武者がうんぬんというのはようするに平安朝のときのことを言っているのだろう。
仮に京都が文化と権威の中心であるなら、
鎌倉幕府が出来たあとも武士はみな京都に行きたがったに違いない。
だがそんなことはない。

いやさらには。
承久の乱以後は北条氏が京都に六波羅探題を作って西国の訴訟まで裁くようになった。
警察は頼朝の時に全国に守護・地頭をおいた。
ようするに鎌倉幕府が出来るまでは仕方なく京都まで訴訟にいくしかなく、
しかもその訴訟もろくに裁いてもらえず、仕方なく私兵を自費で動員して解決するしかなかったということだよ。
そういう状況でも、当時の日本人が京都に何かあこがれを抱いていたなどと言うか。

朝廷が軍隊も警察も司法も持たない(というか持っているはずなのにサボタージュした)から、
次第しだいに武家に政権が移った、ということだ。
具体的には、天皇の外戚で官職を独占した藤原氏の怠慢ということだ。
藤原氏政権が腐敗し、国を統治するという当然なすべき義務を怠った。
司馬遼太郎が言うように、天皇が最初から権威しかもっていなかったのではない。

島根大学にしても、別に悪口を言いたくはないが、戦後作られた地方国立大学の一つに過ぎぬ。
せいぜい戦前の島根高等学校までしかさかのぼれない。大和朝廷が地方に作った国府とどれくらいの違いがあるのか。
司馬遼太郎はいったい何が言いたかったのか。
奈良平安の国府にできなかったことをなぜ地方国立大学に要求するのか。
司馬遼太郎という人はほんとに矛盾の総合商社だ。

国造

司馬遼太郎の「歴史と風土」という文章(昭和46年)に、
大化の改新があっても地方の豪族、国造が残った。
だから天皇というのは最初から権力ではなくて権威だった、と言っているのだが、これはおかしな結論だ。
彼は、大化の改新の頃も、平安朝も、その後の武家政権もずっと天皇は権威であって権力ではなかったと言いたいらしい。

しかし、普通は、大化の改新の頃には天皇の権力もまだ完全には浸透しておらず、
地方豪族らを国造という形で中央集権の枠組みに取り込まなくてはならなかったということを言っているだけ、そう解釈するのではないか。
そもそも、大化の改新というのは単なるクーデターと律令制の導入に過ぎない。
それだけで地方豪族が服従するはずがない。

だが、土佐日記の頃になると、国司、つまり守や介らが中央から派遣されて、
国造らもはや存在しない状態になる。
だから大化の改新に始まった律令制というものは次第に地方にも浸透していって、
初期には国造らの地方豪族が残っていたが次第に国府、国司らによる中央集権的支配が確立していった、と解釈するのが普通だろう。

司馬遼太郎のように「だから天皇は最初から権力ではなく権威だった」などという結論が導かれてくるのはおかしい。
wikipedia にも、
国造は律令制が導入される以前のヤマト王権の地方支配形態の一つ。6世紀代のヤマト王権が任命する地方官、とある。
その通りで、律令制以前のなごりがしばらく残ったと言うにすぎない。
律令制下における出雲氏は、延暦17年(798年)に解かれるまで、引き続き出雲国造を名乗る、とあるように、
例外的に「地方官」として勅令によって残っていた出雲国造も798年にはなくなっている。

大義名分論

昔の人は大義名分論というものに、真剣に悩んだのだ。

天皇はなぜあんなにまずい政治をするのか。
逆賊と思える身分の低い連中がなぜあんなに良い政治をするのか。
良い政治をする逆臣と、悪い政治をする天皇と、どちらが正しいのか。
そもそも天皇とは何か。日本とは何か。
なぜ逆臣は結局皇位を簒奪しなかったのか。
なぜ日本だけでそうなのか。
ということについて真剣に悩んだ。
そこで儒学や宋学や朱子学や陽明学や、あるいは国学で説明しようとした。
それでもわからん。
西洋の歴史との比較でなんとか説明しようとした。
たとえばイギリス型の君主とかローマ法王とか。
でもうまくいかない。

今の日本史教育ではそんなことで悩むなどということはないだろう。
世界史でもそうだが。

ある意味、そういう問題をスルーするのに適した思想は司馬史観だといえる。
天皇はお公家さんです、神主さんです、実権を持たないのが正常な姿です。
象徴天皇です。
みごとなスルーだわな。
一方で、天皇制廃止論者もいるのだが、どちらかより無責任だろうか。
大差ないような気もする。

身分の低い苦労人ほど良い政治をする。
天皇の政治は失敗だらけだった。
でもなぜ日本には天皇がいるのか。
誰か説明してみよ。
今の日本人は、生まれてから大学受験まで、そのような思考実験をしたことがない。