中央と地方 いわゆる都鄙意識について

文藝春秋に昭和57年に掲載された司馬遼太郎の文章で、
「中央と地方 いわゆる都鄙意識について」というものがある。
これが司馬遼太郎の文章かというくらいずさんな論理で書かれている。
たとえば、

> そのおそるべき習風は、いまの若い人にも(にもどころかいよいよ本卦がえりも濃厚に)ありますなあ。短大など、どんな山間僻地にもあるのに、わざわざ東京の短大に出ていきたがる。目的は、原宿などで群れたい。もうそれで都の手振りになり、東京人そのものになる。

恥ずかしい。実に恥ずかしい文章だ。
確かに昭和の終わり頃、長渕剛が「とんぼ」とか歌ってたころの世相はそうだったかもしれん。
しかしいまや地方の大学の方がもてはやされる時代だ。
地方の女子は、わざわざ東京に出さず親元の大学に行かせている。
たまたま自分が生きていた時代の風俗が太古の日本にも当てはまるという発想をするのはあまりに貧しい。

思うに、司馬遼太郎は、平安初期の地方の日本人は、中央の文化や芸術に目がくらんで、いくらでも反乱を起こそうと思えば起こせたのに、
中央の権威に盲目的に従ってきた。
中央政府はろくな軍事力も権力ももっていなかったのに、そうやって天皇制というものが作られてきた。
要するに天皇制というのは権威とか文化とか華やかな都の手振りとかそういうもんなのだ。
そういうふうに言いたいのだろう。

実際にはそうではなかったはずだ。日本全国至るところで、反乱や武力衝突のようなものは起きていた。
しかしそれはいわゆる私闘に類するものであり、中央政府は訴訟処理能力も警察力もないから、
とにかく部族ごとに勝手に武力闘争で解決するしかなかった。
たまたま一方が国府を味方につけ、ために他方が国府を攻撃すると、私闘から公然とした反乱というレッテルを貼られる。
それが将門・純友の乱のようなものに発展する。

奥羽地方の反乱など、平安朝では介入する気すらない。
介入すれば軍事費を公費から出さなくてはならず、官軍には褒賞や官位などを与えねばならない。
だからできるだけ私闘ということにしておきたかった。
前九年の役、後三年の役などがそうだ。
そうやって朝廷はみずから軍事権や徴税権、統治権を放棄し、地方政治を放任してきた。
そのために関東以北では源氏の棟梁が事実上の統治者として仰がれるようになり、その結果頼朝による鎌倉幕府ができたのだ
(これは典型的な日本外史史観であり、八幡太郎義家の後世に作られた伝説に基づくものではあるが、私はおそらくかなり真実に近いと思う)。

部族どうしの私闘でも詔勅を得た方は官軍として、敵を賊軍として討伐できるし、
討伐に成功すれば官位ももらえる。
だから武士たちは中央政府を利用しただけともいえる。
バブルの絶頂のころ、原宿や六本木にあこがれる女子短大生と同じ理屈で片付けられる問題ではない。

また、司馬遼太郎は後醍醐天皇一人を悪者にしようとしている。彼の悪い癖だ。
後醍醐天皇は宋学イデオロギーに凝り固まって天皇を中国的な独裁皇帝にしようとした、などと言っているのだが、
そんな事実があるのか。
むしろ宋学をかなり正確に理解していたのは北条氏だっただろう。
後醍醐天皇は後鳥羽天皇がいたから出てきた。
後鳥羽天皇は保元の乱、平治の乱、寿永の乱(源平合戦)を経て、
天皇の大権が鎌倉幕府に移ったから出てきた。
後醍醐天皇がいきなり出てきたわけではない。歴史の必然として出てきたのだ。
天皇家から武家政権に次第に権力が移っていくその過程にたまたま後醍醐天皇が位置しているだけだ。
司馬遼太郎にはそういう発想がまったくない。
突然、変なイデオロギーにかぶれた天皇が出てきたから悪い、そういう風にしか考えられない。
大いに問題だ。

> (反乱を)起こしても、すぐ中央から命令が行くと、地方の豪族から現地採用の官吏(在庁官人)が恐れ畏んで、その辺の兵をかき集めると、みな源平藤橘と名乗っているのですから、朝廷のためだと思って、反乱者をやっつけてしまう。

あまりにも浅薄な理解と言わねばならない。たぶん司馬遼太郎は、将門の乱も前九年後三年の役も、何も知らないのだろう。
少し調べればわかることなのに。
反乱というものがわざわざ自分と何の関係もなく遠くへだたった朝廷に対して起こされると思っているのがまず間違いだし、
反乱が起きたら朝廷のために戦うというのも間違い。
前提条件のすべてが間違っている。
頼朝の挙兵も最初は将門の乱と同種だと思われていた。しかしそうはならなかった。
将門の乱がわからなければ、頼朝の挙兵の意義もまるでわからんのに違いない。

> 彼女たちは、平安期の板東武者たちが京にのぼりたがったようにして、「とにかく短大は東京ですごしたい」と思っています。

> 板東武者が都でけちな官位をもらって板東に帰り、近隣に誇示するように、夏休みなどに帰省して土着の同窓生に「やっぱり違うわね」といわせたいというのがのぞみなのでしょうか。
・・・日本における地方のはかなさを思わざるをえません。

> だから島根大学及び松江市の短大は、もっと力を持つべきだし、それを育てるために、島根県人がもっと意識を高めるべきだ。

いや、なんでこんなへんてこなことを言っているのか。
島根県の人口は70万人しかない。
相模原市の人口と同じだ。
仮に島根県の人たちが意識を高めても、相模原市と同じくらいの力しか持てないはずだ。
それはたかが知れている。
どうしろというのだろうか。

板東武者で都に行きたがったのはもっと時代がくだって源実朝あたりからだろう。
実朝はほんとに変な人だった。
板東武者が都に頻繁にのぼったのは訴訟のためだ。
自分が開拓した土地の所有権を保証してもらうため。
源氏や平氏などの武士団に分かれたのも、京都の藤原氏など有力者とのコネを作るのもみんなそう。
要するに、朝廷が設置したオフィシャルな出張所である国府と国の役人である国司がなんの役にもたたないからだ。
それがどうして都にあこがれてとかいう話になるのか。
もし国府に訴え出ればきちんと訴訟を処理し裁判してくれて土地を確保できたとしたら、
どうして都なぞに行く必要があろうか。
行きたがったのは実朝のような変人だけだ。
実際、鎌倉幕府ができて訴訟が鎌倉で解決するようになると、
鎌倉武士はまったく京都には行かなくなったはずだ。
板東武者がうんぬんというのはようするに平安朝のときのことを言っているのだろう。
仮に京都が文化と権威の中心であるなら、
鎌倉幕府が出来たあとも武士はみな京都に行きたがったに違いない。
だがそんなことはない。

いやさらには。
承久の乱以後は北条氏が京都に六波羅探題を作って西国の訴訟まで裁くようになった。
警察は頼朝の時に全国に守護・地頭をおいた。
ようするに鎌倉幕府が出来るまでは仕方なく京都まで訴訟にいくしかなく、
しかもその訴訟もろくに裁いてもらえず、仕方なく私兵を自費で動員して解決するしかなかったということだよ。
そういう状況でも、当時の日本人が京都に何かあこがれを抱いていたなどと言うか。

朝廷が軍隊も警察も司法も持たない(というか持っているはずなのにサボタージュした)から、
次第しだいに武家に政権が移った、ということだ。
具体的には、天皇の外戚で官職を独占した藤原氏の怠慢ということだ。
藤原氏政権が腐敗し、国を統治するという当然なすべき義務を怠った。
司馬遼太郎が言うように、天皇が最初から権威しかもっていなかったのではない。

島根大学にしても、別に悪口を言いたくはないが、戦後作られた地方国立大学の一つに過ぎぬ。
せいぜい戦前の島根高等学校までしかさかのぼれない。大和朝廷が地方に作った国府とどれくらいの違いがあるのか。
司馬遼太郎はいったい何が言いたかったのか。
奈良平安の国府にできなかったことをなぜ地方国立大学に要求するのか。
司馬遼太郎という人はほんとに矛盾の総合商社だ。

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