甲州街道

「街道を行く」の「甲州街道」で、いきなり冒頭

> 「武蔵の国」というのは、いうまでもなく今の東京都のことである。

などというぼけをかましている。
なぜ編集者も注意しないのだろうか。
「武蔵国」とはいうまでもなくおおよそ今の東京都と埼玉県を合わせた地域であり、面積で言えば埼玉の方がずっと広い。
司馬遼太郎の文章を読んでいると随所に、関東の土地勘のなさが見える。

次に太田道灌と後土御門天皇のエピソードが紹介されるが、以前[宗尊親王](/?p=3212)にも書いたように、
私もころっとだまされたのだが、この話自体が300年も後に書かれたもので、
実話である可能性はきわめて低い。
それはそうと、誰が詠んだ歌かは知れないが、武蔵野の広さをうまく詠んだ

> 露おかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原

という感じは、
東京というよりは埼玉の景色、
東京から埼玉の方にずーっと続いている平原をイメージしたものに違いない。
それはつまり、だいたい新田義貞が鎌倉攻めしたルートに当たる。

埼玉というのは、東西で言えば秩父から川越、大宮、春日部まであるわけで、実に広い。
それがほとんど平地なのだから。
川越街道を描いたと思われる夏目漱石の[坑夫](http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/774_14943.html)の

> さっきから松原を通ってるんだが、松原と云うものは絵で見たよりもよっぽど長いもんだ。いつまで行っても松ばかり生えていていっこう要領を得ない。こっちがいくら歩いたって松の方で発展してくれなければ駄目な事だ。いっそ始めから突っ立ったまま松と睨めっ子をしている方が増しだ。

> 東京を立ったのは昨夕の九時頃で、夜通しむちゃくちゃに北の方へ歩いて来たら草臥れて眠くなった。泊る宿もなし金もないから暗闇の神楽堂へ上ってちょっと寝た。何でも八幡様らしい。寒くて目が覚めたら、まだ夜は明け離れていなかった。それからのべつ平押しにここまでやって来たようなものの、こうやたらに松ばかり並んでいては歩く精がない。

なども、関東平野の広さをよく表している。
明治天皇御製の

> かぎりなき野辺の桑原小松ばらおなじところをゆくここちせり

もそうだ。

埼玉の東、渡瀬遊水池の先はひろびろとした茨城の水田地帯、
霞ヶ関の水郷でこれまた真っ平らに広い。
実際、板橋あたりから北を見ると、筑波山や日光の山が遠くにかすんで見えるだけで、
ほとんど何も山らしいものがない。
世田谷や府中の当たりでも多少広さは感じるが、北関東の方がずっと広さを感じると思う。
東京都心や神奈川などは山ばかりなんで、どちらかと言えば関東という感じじゃないんだよな。
こういう狭苦しい坂ばかりの町は日本中にある。
ただまあ東京というところはほんとに晴れたときに遠くに富士山が見えるくらいで、
山の近い田舎に育ったものには寂しく感じるものだ。

あと、埼玉あたりだと、人がいなくて道がまっすぐだから二車線以上の一般道だと平気で100kmくらいで車が走っている。
東京当たりから行くととても怖い気がする。

> 北条氏なども、結局はいくじがない。関東平野の真ん中にその首府を置かず、西のすみのそれも箱根大山塊を後ろ楯にして城を堅固に設け、その天険にかくれつつ、へっぴり腰で関東に手をのばしては経営していたような印象がある。

いやあ。
これまたひどい言い方だな。
だいたいにおいて司馬遼太郎は関東に良い印象を持ってないのだが、
こういう言い方をしなくても良さそうなものだ。

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