関東

司馬遼太郎全集第50巻評論随筆集「歴史と視点」の中の「石鳥居の垢」あるいは「私の関東地図」という文章で、彼が戦車部隊に居たときのことを書いている。
彼らの部隊は満州に居たが、戦争末期、ソ連との不可侵条約を「わらをもつかむ気でソ連の信義というものを信じざるを得なくなって」、新潟に引き揚げてきた。
新潟から群馬の前橋まで来て、榛名山の入り口の箕輪というところに徒歩で移動して、
そのあと栃木の佐野に移ってここでソ連の参戦を知り、北関東にしばらく駐屯していた。
関東に米軍が上陸してきたときの「邀撃」に備えるためだった。
厚木の相模川沿いの「深田」で戦車の渡河実験などもした。
それで、司馬遼太郎は関東平野というものをある程度は知っているはずなのだが、
どうもまったく曖昧模糊としたことしか書いてない。
ただ単に「こんな広いところが日本にもあったんですねえ」とか
「こんなところ、空と桑畑があるだけじゃないか」とか、
そんなことばかり書いている。

思うに「燃えよ険」に出てくる府中から八王子にかけての雰囲気は、戦時中の記憶によるところが大きいのではないか。
もちろん小説を書くにあたって大国魂神社などを取材したに違いないのだが。
だから、関東と言っても鎌倉や小田原や、あるいは伊豆など相模湾のあたりがピンと来ないのではないかと思う。

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