ますらを

「ますらを」というのはもともとは大夫、丈夫、とか、立派な男子、勇ましい男子、という意味であった。朝廷の官僚を言ったこともある。そのほか、
「ますらたけを」とか「ますらがみ」とか「ますらをのこ」とか。
だが、古今時代になると、「漁夫」「猟師」「農夫」のことを言うようになり、
さらに新古今時代では「賤男」という意味に使われるようになる。
非常にネガティブなイメージになっていく。

「ますらを」は現代では「復権」しているとはいえ、
たとえば平安時代から江戸時代くらいの歴史小説に出てくる和歌に「ますらを」
などと使うのは問題がある。
「もののふ」などとするのが無難だろう。

たとえば太田道灌の客将で歌人の木戸孝範が江古田原の戦いで

> ますらをや えごたのぬまに すむとりの はねよりかろき いのちなりけり

というのを詠んだことにしたのが、これはやはり「もののふ」にすべきであろうと思う。

江戸の役人事情

予想したのと全然違ってドロドロした話で、
江戸時代の幕臣ってすげー腐敗してたんだなあとか、
まあ、勝海舟とか大塩平八郎とか子母沢寛とかの話をさらに生々しくした感じで、
興味深く読んだ。
しかし怖いのでたぶん自分はネタにはしないと思う。

> 時の風評をそのまま書きて虚実区々なれば取るべからず

まあまさにそうだろう。
ゴシップというかスキャンダルというかなあ。
悪代官とか悪徳商人とかそういう時代小説に使い回されてるようなネタだなあ。

「非役の小普請」、または「禄ある浪人」、つまり、無役で最下層の御家人の話とか。

なんか素性のわからん浪人がどこかで本でを儲けて、
金貸しをしながら「与力」株を買う。
美人局などしていて与力をクビになり再び浪人に。
しかし今度は金を返せない旗本の弟が出奔していなくなってたので、
その弟になりすまし、
別の旗本の養子となって、
その養父を隠居させて自ら押しも押されもせぬ旗本直参となる、
とか実におどろおどろしい話。
それが松平定信が部下に調べされた事件簿「よしの冊子」というのに書かれているというのが、なかなかよく出来た話である。

ところがこういう偽の実子、
「入れ子」というのは旗本ではよくある話でいちいち摘発しないというのがまたすごい。大丈夫か徳川幕府。
鳥羽伏見の戦いで負けるはずだ。

「甲州は葡萄(武道)の成り下がり」(笑)
幕府の直轄領なのに甲斐一国一揆とかあったしな。

> 勝海舟の父子吉の『夢酔独言』の読者ならご記憶のむきもあると思う。

とあるが、実際勝子吉の『夢酔独言』くらいは読んでないと、こむつかしいだけでおもしろさのわからぬ本だと思う。

籤引き将軍

「籤引き将軍足利義教」というのを読んだのだが、
四人の候補の詳しいプロフィールとか書かれていて役に立ったが、
東大総長がくじ引きで決まったという前書きとか、
それから急に時代をさかのぼって堀河天皇践祚が占いできまったとか、
そのときの白河上皇が治天の君でどうのこうのとか(うざい)、
後鳥羽天皇践祚もそうだとか、
世界史的にはどうだこうだとか、
そのうえ義教は神裁政治だったとか、
とにかくくじ引きのことしか書いてない。

籤引き将軍というあだ名だったのは確かだが、
そこにとらわれすぎではないか。
足利義教のことをもっと深く掘り下げてほしかったのだが。

中山家

『明治天皇記』嘉永五年、明治天皇出生。
当時は祐宮(さちのみや)と呼ばれていた。
父は孝明天皇、母は中山慶子。
典侍というから中宮や女御の次くらい?
生まれた場所は慶子の実家、中山八邸。
中山家は藤原氏の公家だが、二百石というから、かなり貧乏だ。

慶子の父が中山忠能。
忠能の母は正親町三条実同の娘・綱子。

忠能

> 天照す神のみまごを我がやどのものとよろこぶけふのあやしさ

綱子

> けふのぼる影くもらねば日の御子のてらしますらん天が下をば

> 日の御子はここにいませり天津空寒き夜あらし心して吹け

> 七十の老婆がうゑにしたちばなは君が八千代の春をまたなん

「ななそじのおうな」と読ませたいのか。それとも「ななじゅうのろうば」なのか。
いずれにしても面白い歌。

> 我が命生きかへるよりうれしきはこの日の御子の今日のお祝ひ

とまあ、特に綱子、つまり明治天皇のひいおばあちゃんの喜びようがものすごい。
慶子の歌というのがみあたらない。当時まだ満16歳くらいだから、無理はないかも。
綱子は正親町三条家の娘だし、年も年だから、まあ歌は習っただろう。
明治天皇の外祖父・忠能は特に歌人として目立った人ではなかったようだ。
だが、孝明天皇が崩御した七日忌に詠んだ歌

> 雲のうへに君がなみだや降りぬらむ晴るるひまなき春雨のそら

など、なかなか良い。

全体的にキリスト教の賛美歌のようだが、
もともとは賛美歌を翻訳した人たちが和歌を真似たのであり、
その後和歌は忘れられてしまった。

光格天皇

光格天皇は、上皇になってから崩御したので、当時の慣習によれば、光格院と諡号されるはずであったが、
天皇号が復活して、光格天皇と諡された。
それは公家から武家に強く要望したからだという。
公家の中では中山忠能だけが反対したという。

後に明治になると、さかのぼってみな天皇号になった。
たとえば後鳥羽天皇は当時は後鳥羽院と諡号されたのだが、今では後鳥羽天皇と呼ぶのが正しい名前。
孝明天皇の父の代からそうだった、というのが興味深い。