内在律

筒井康隆の『短篇小説講義』p. 10

> 小説とは、何を、どのように書いてもよい自由な文学形式である。

小説 == novel とは何か自由なもの、新しいもの、
それまでの戯曲や詩などの文芸形式を呪縛していた「外在律」に縛られない文芸形式だと、
筒井康隆は断言する。
純文学的にはそうなんだろうけれども世の中に溢れている小説の多くはそうではない。
むしろ自由と新しさを悪魔に売り飛ばした小説のほうが売れている。
流行作家は常に自己の内なるメフィストフェレスと葛藤している、はずだ。

「外在律」という言葉は「内在律」から派生した言葉で、
筒井康隆の造語なのかもしれない。

「律」とはつまり詩の「韻律」のことであり、
和歌で言えば句の長さ、漢詩で言えばそれに加えて平仄や押韻のことである。
詩を詩たらしめているものが「韻律」であり、
「韻律」のないものが散文である。

或いは、戯曲(演劇)の場合には三一致の法則というものがあって、
一つの場所、一つの時間で、一つのストーリーだけが完結するというもの。

これらの「外在律」を取っ払った新しい自由な文芸はすべて小説であると言いたいわけである。
しかしながら本当に自由な小説というものが書けるかというと、
誰もが結局は過去にどこかで読んだような小説しか書けない。
意識して新しいもの、自由なものを書こうとしなければ、
テレビドラマや映画で見たような、
同じようなストーリーが再生産されたようなものができてしまうが、
それはほんとうは自分が思いついたものじゃないのだという。

内在律というのは韻律を捨て去った現代の自由詩にそれでも残る独自の韻律、
もしくは、詩には直接現れないが詩人の心の中には存在している韻律という意味だろう。
形式的には詩ではないけれども、誰もが直感できる詩的内部構造、
音声としてではなく、印象として知覚できる韻律だと言いたいのである。
だが、「内在」「印象」「直感」とは何か。

> 短篇小説の場合、特にその作法がうんぬんされるのは、それが短い形式であるために、日本で好まれる私小説的な短編などは、ともすれば韻律のない自由詩や新編雑記の随筆などと区別がつかなくなり、また、意図するところも似てくるためで、いわばこれが世に短篇小説作法の満ちあふれる第二の原因となっている。

筒井康隆ほどの人でも、いや筒井康隆であればなおさら、決して断言しているわけではないが、岩波新書で、短編小説と自由詩には本質的な差はないと明言するのはそれなりの勇気が要ったのではなかろうか。
ごく短い随筆的な掌編小説のたぐいは改行の無い自由詩と区別できないし、自由詩は改行だらけの散文である、と私は思うし、筒井康隆も腹の中ではそう思っているだろうし、多くの人も言葉に出して言わないだけでそう思っているのに違いない。
ともかく自由詩を詩に分類したければしても良いが、自由詩こそが現代詩の主流だということは言ってほしくない。
現代自由詩はゲテモノとして扱ってもらいたいのだ。
そう、「ポエム」という名のなにやらよくわからぬゲテモノであって一般的な意味における「詩」ではない。
ゲテモノならば前衛芸術や前衛音楽にはいくらでもある。
そういうものといっしょくたにしてほしい。
こっち見んな、と言いたい。

小説がいわば何でもありの自由な文芸形式であるのはもともとそういうものだから良い。
しかし自由詩を詩の典型にしてほしくない。
小説は一番新しい文芸形態なんだろ。だから伝統なんてなくても良いんだよ。
でも詩には伝統というものがあるだろう。詩はもっとも古い文芸形態ではないか?
そして伝統や歴史というものが詩のもっとも重要な「内在律」ではなかろうか?
いろんな人がこれは「散文」だ、とは言わず、「詩」だとか、「短歌」だとか、「俳句」だ、と「主張」
する。その「根拠」はなんなのだろう。
あるいは詩であるかいなかは「主張」することにあって、「根拠」など要らないと言いたいのか。
散文万能の現代では、みな散文を書くくらいの軽い気持ちで詩を書いてしまう。
しかし彼らは何ゆえに詩を書くのか。
彼らの心の中に何か内在する韻律があるのだろうか?
私は憶測してしまう。彼らは、詩という歴史と伝統をかぶりたいから、
伝統のかけらもない自分の散文を詩と同じような形に偽装して、
そしてそれを詩であるとか短歌であるとか俳句であるなどと称して、
安易に長い文芸の歴史に連なろうとするのであると。
我こそはホメロスや柿本人麻呂の正統な末裔であると主張したいのだ。

筒井康隆は「内在律」を「伝統」「秩序」「権威主義」「束縛」「世界観」「形而上学」などと言い換えたりする。

> エリオットなんてひとが伝統、伝統といいはじめた。つまりさ、昔からあった一流の文学作品ってものは、そういうものが集ってこの、自然に、理想的な秩序を作っておるのだ、ちゃんとまとまっておるのだ、それが伝統だってわけ。もし新しい文学が生まれるとしたら、その秩序を乱さないように、その伝統の中へすっぽりおさまるような作品である筈だっていうの。それ以外の文学は一流じゃないっていうの。権威主義ですよね。(『文学部唯野教授』p.29)

作品を一つも発表せぬ人も心の中に世界観が完成している、などという。
しかし私たちは彼に作品を見せてもらわぬことには彼の心の中にどんな世界観が存在しているのか、
そもそも彼がほんとうに独自の世界観を持っているかすらわからぬではないか。
ジョン・ケージの「4分33秒」じゃあるまいし。
ま、現代アートにはそういうおかしな連中がたくさんいる。
ろくでなし子とか。
それはそれで仕方のないことだ。

ドイツ詩を翻訳していると感じることがある。
例えばハイネを日本語訳したとたんにその韻律は死ぬ。
四行あるところをどうしても三行にまとめたくなる。
それをもとのまま四行で書くのはいかにも冗長だ。
というのはもともと韻律のために冗長に書かれているからだ。
しかしハイネの詩を散文に訳してもその「詩の魂」というか「詩情」というものが残るではないか。
ハイネには「ハイネらしさ」が、ゲーテには「ゲーテらしさ」が残るではないか。
それが形を変えてもなお残る、ハイネの、ゲーテの、詩の本質ではないか。
定型詩を自由詩に翻訳しても、その心のうちなる内在律の痕跡が残っているからには詩なのである。
どうしてもそう思いたくなる。
しかしそれを認めたくない気持ちも強く残る。
というのは、もともとのハイネやゲーテの詩は紛れもない定型詩だからだ。

擬人化

『文学部唯野教授』 p. 101

> この人は「海霧(ガス)の擬人化というあざとい手法」などと書いているところから、海霧(ガス)の擬人化ということだけはわかっていて、それがわかったとたん、それに感情移入することをやめちゃったの。「あざとい手法だ」と思ったとたんにそれで打ち切りにしちまったの。

> 海霧(ガス)などという無機物に感情移入するなどといった子供っぽいことができるひとではなかったわけです。

たぶんこれは筒井康隆の『虚構船団』かなんかに対する批評を言いたいのではないかと思うが、
私も無機物には感情移入できないよ。
あざとい手法だと思うよ。
しょうがなくないか?
そりゃまあ、今の世の中いろんな擬人化があるわな。
戦艦や駆逐艦なんかを女の子に擬人化したりとか。
ああいうものを素直に楽しめる人は幸せかもしれんが、私には無理だ。

まあ、『虚構船団』はある意味今の艦コレの先駆かもしれんなあ。
萌え要素がまったくないけどな。あったら受けるんじゃないか。

文学部唯野教授4

p. 31

> 批評は小説を切りきざんで分析したりしちゃいけない。まずどっぷりと思う存分、詩的体験に身を浸しなさい。味わいなさい

> 『されば、緒の言は、その然云フ本の意を考へんよりは、古人の用ひたる所を、よく考へて、云々の言は、云々の意に、用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし』。原文密着主義。これはまあ宣長さんの言ったことだけど、小林秀雄の主張でもあるの。

p. 62

> ヴィトゲンシュタインってひとは哲学でさえ、すべてのものを正確にあるがままの形で抛ったらかしにしておくものだと言ってるから、文学批評に対してもそう要求したんだろうね。この人もちょい本居宣長だね。

どうも筒井康隆は本居宣長を誤解しているのではないか。
というところに昔も読んでて引っかかってたらしい([文学部唯野教授](/?p=6830)
[文学部唯野教授2](/?p=6835))。
それで調べてみたが、
上の引用は『うひやまぶみ』からであった。

> <ツ>語釈は緊要にあらず、語釈とは、もろもろの言の、然云フ本の意を考へて、釈(トク)をいふ、たとへば天(アメ)といふはいかなること、地(ツチ)といふはいかなることと、釈(ト)くたぐひ也、こは学者の、たれもまづしらまほしがることなれども、これにさのみ深く心をもちふべきにはあらず、こは大かたよき考へは出来がたきものにて、まづはいかなることとも、しりがたきわざなるが、しひてしらでも、事かくことなく、しりてもさのみ益なし、されば諸の言は、その然云フ本の意を考ヘんよりは、古人の用ひたる所をよく考へて、云々(シカシカ)の言は、云々の意に用ひたりといふことを、よく明らめ知るを、要とすべし、言の用ひたる意をしらでは、其所の文意聞えがたく、又みづから物を書クにも、言の用ひやうたがふこと也、然るを今の世古学の輩、ひたすら然云フ本の意をしらんことをのみ心がけて、用る意をば、なほざりにする故に、書をも解し誤り、みづからの歌文も、言の意用ひざまたがひて、あらぬ ひがこと多きぞかし、

ネットを検索して見ると誰もこの誤植(1990年2月20日第2刷)に気付いてない。

> 緒の言

ではない。これは

> 諸(もろもろ)の言(ことば)

でなくては意味が通じない。
「緒言」だと「前書き」という意味しかない。

今の歴史的仮名遣いでは「用ひる」ではなくて「用ゐる」でなくてはならないが、
宣長は生涯「用ひる」だと思っていたようだ(というのは『うひやまぶみ』は晩年に書かれたものだから)。

宣長は、古文書に出てくる単語の語義とか語源は何かなどということをいちいち考えても意味が無い。
学者はみなそれを知ろうと思うが(学者の、誰もまづ知らまほしがることなれども)、
そんなことをいくら考えてみてもムダだ(さのみ深く心を用ふべきにはあらず)、
いくら考えようが大して良い思いつきなど出てこないし(大かたよき考へは出来がたきものにて、まづはいかなることとも、知りがたきわざなるが)、
わざわざ知る必要もなく(強ひて知らでも、事欠くことなく)、
たとえわかったとしても大したことはない(知りてもさのみ益なし)、
その代わりそういう単語が、
昔の人たちがどういう文脈でどんな場面で使われているかという事例を調べなさい。
用例を良く調査しなければ(言の用ひたる意を知らでは)、意味も誤解するし、間違った使い方をするのだ、と言っている。
これはつまり古文辞学的なアプローチをせよと言っているだけである。
儒者であれば荻生徂徠、国学者ならば契沖が、江戸初期からやっているがもともとは明代の中国で生まれた方法だ。

『文学部唯野教授』の第7講「記号論」のソシュールの話と瓜二つなわけで、

> 「ネコ」が「ヤギ」でも「タコ」でも「ハコ」でもない「ネコ」だからです。混同されやすい他の言語(ラング)と混同されない限り、どんな発音やアクセントでも「ネコ」は猫なの。

> 猫がどんなものかを(子供に)教えるには犬や豚や鼠などとの差異を教えなきゃならないの。

これを「原文密着主義」というのはどうだろう。
宣長は「語釈は緊要にあらず(語義そのものは重大な問題ではない)」と言ってるに過ぎないではないか。
少なくとも「切りきざんで分析したりしちゃいけない」「まずどっぷりと思う存分、詩的体験に身を浸しなさい。味わいなさい」「すべてのものを正確にあるがままの形で抛ったらかしにしておく」なんてことは言ってない。小林秀雄はそういうことを言いそうだが、彼は宣長については正確に理解していると思うし、そういうつもりで引用したんじゃないと思うんだ。
なんとなくだが筒井康隆は国文学について何か屈折した心情があるように思う。

> 「お女中お女中」唯野が声をかける。「いかが召された」「はいあの持病の癪が」「国文科の学生らしい」唯野は蟇目とうなずきあう。

とか

> 密告ったのは誰だ。マスコミに出る機会の少い国文学科の誰かであろう。

文学部唯野教授3

『文学部唯野教授』を読み返してみようと思ったのは、
『短編小説講義』を読んでみて、すごくわかりやすかったからだ。
やはり筒井康隆という人は他の人に比べるとはるかに深く良く理解しており、
またわかりやすく説明できる人だなと思った。
『文学部唯野教授』は面白いは面白いのだが、大学での講義形式になっている文芸理論、
というより文芸批評理論、というより哲学談義が何言ってるかよくわからなくて、
その部分はめんどくさくて退屈で飛ばして読んでいた。

同じ文学と言っても、文芸と哲学。
不思議なことに、日本には哲学が好きな人が多くて文芸はあまり書く人がいない。
つまり、ハイデッガーとかサルトルとかを書くのが好きな人のほうが、
ゲーテやハイネなんかを書く人よりずっと多い。
私はずっと哲学には苦手意識というか、あんなもの何になるんだという気持ちが強かった。

『文学部唯野教授』と『短編小説講義』は同じ時期に平行して構想され執筆されたものであり、
内容も似通っている。
だから『短編小説講義』を読んでから『唯野教授』を読むと、
『唯野教授』だけではよくわからなかったところがわかったり、
あるいは共通する言い回しが出て来てより深く理解できたりする。

たとえば『短編小説講義』でマーク・トゥエインの『頭突き羊の物語』が、
「話の横滑り」のギャグでできていると書かれているが、
この「横滑り」という言葉が『唯野教授』にも何度も出てくる。
だから「横滑り」という言葉が出てくるたびにああ、
あのマーク・トゥエインの羊の話を念頭にこの言葉を使ってるんだなって思えるのだ。

唯野教授の講義だが、これはハイデッガーの話が分かれば後は大して難しくないってことが今回わかった。
ハイデッガーが難しいっていうのはつまり彼の言っていることが単なる同義語反復、
つまりトートロジーに見えるからだ。
たとえば「目の前に現実に存在しているものが現存在であり実存である」、
「現存在の存在規定は、我々が世界内存在と名づける存在体制をもとに、アプリオリに看取され、了解されなくてはならない」
などという言い方であり、
だからそれが何だ、そんなものが哲学ならば哲学なんて何の役に立つのだ、と思って、
それ以上ハイデッガーを読もうとも、哲学というものを理解しようとも思えなくなってしまう。

ハイデッガーだけを読んでいればどうしてもそうなるのだが、
ハイデッガーの師匠のフッサールという人と対比させてみると、
ハイデッガーの言っていることは良くわかる。
フッサールという人はそんなふざけた、トートロジー的なことは言ってない。
ただ、デカルトが言うような「意識」は存在しない。
自分が意識していると意識するような意識なんてものすら不要である。
確かなものは何もないのだから「判断中止」しろという。
判断中止してしまえば何もわからないはずなのだが、
フッサールはそこから「純粋意識」とか「超越論的主観性」とか「先験的主観」なんてものがあるなんてことを言い出す。
「判断中止」までは理解できるがそこから先が宗教になってしまってる。
ハイデッガーはそれはいかんよと言いたいわけだ。
人間の存在とはただ自然と対話することとか、いずれ死ぬという時間の中にいる存在だと言ってるだけ。
自分の死を直視しましょう、常に自分を未来に投げ込みましょう、
そして人間という存在は決して完成しない、などと言っている。

で、『文学部唯野教授』はフッサールの回までをめんどくさがらずに読んで、
フッサールの次のハイデッガーの回を丁寧に読めばそんなに難しいことは言ってない。
ハイデッガーを越えれば後は楽だ。
しかし飛ばし読みしてるとなんだかよくわからないということになる。
ともかくもハイデッガーについての筒井康隆の説明は非常にわかりやすい。

そんでまあ現代文芸批評はポスト構造主義とかいうところまで来たと言っているわけだが、
私が見るに、
文学も文芸批評も、近代科学の影響をうけて、
印象批評や、
宗教や哲学やイデオロギーから自由になろうとし、科学になろうとした。
いや、文学や哲学は、科学よりもさらに根源的な学問でなければならない。
つまり科学的技法というものに嫉妬して、科学を模倣し科学を超えようとした。
科学的に分析できる、
科学以上に厳密に根源的に分析しなくてはならないと考えた。
しかしその悪戦苦闘のすえ、文芸は、小説というものは著者がいて読者がいて、
その関係で美的価値が生まれるものであり、
科学的には解釈できないから科学ではない、というのが結論、というか、
筒井康隆がたどりついた独自の文芸理論なんだと思う。

> 文学は批評家がわざわざ脱構築してやる必要はなくて、なぜかというと文学は初めっから自分をディスコンストラクトしているからだし、それどこかディスコンストラクションのやりかたについて自分でぶちまけたりもしてるからなんだそうです。

文学はそもそも構築されていないから脱構築する必要すらない。
文学は科学的に分析できる、自然科学になれる、
自然科学を超えるなにか根源的な学問たり得る、
っていうのが最終目標だってことがそもそも間違っていたというのが結論であり、
まあ至極当然なポストモダン的な帰着だわな。
自然科学やら数学だって、何か根源的な学問たりえるわけではない。

たいていの現代思想の本はそういう結論で締めくくっている。
哲学とか科学とか宗教というものが何か究極の解決策であるかもしれないという考え方自体が、
大いなる錯覚だった。
わからんものはわからん。

でもまあこれって宣長がとっくの昔に言ってることと同じだと思う。
「文学とは何の役にも立たないものだ」「文学は文学であって、その他の宗教や政治や道徳で判断してもダメだ」ってことでしょう。

千載集

千載集―勅撰和歌集はどう編まれたか セミナー「原典を読む」

千載集がなぜあのような慌ただしい時期に編纂されたのかということについて考察している本なのだが、
結論は結局後白河院が、保元の乱から平家滅亡までの鎮魂のために作ったのだということらしい。
それ以上のことは書かれていないように思われる。
他には古写本の異同とか校合のことなどが書かれている。

たとえて言えば、本能寺の変とか応仁の乱の真っ最中に勅撰集を選ぶようなもので、
どう考えても正気じゃない。なんか理由があるんだろう。
歴代の勅撰集の謎の中でも割と大きなほうだ。
『虚構の歌人』の中でも少し書いておいたのだが。

千載集は、続詞花集の改訂版の形で出された。
続詞花集は二条天皇の勅撰であり、選者は六条清輔。
後白河院はそれほど和歌には熱心ではなく梁塵秘抄にみられるように今様が好きだった。
後白河院は鎮魂や追悼供養のために梁塵秘抄をまとめたのだろうか。
違うはずだ。
単に今様が好きだから蒐集したのである。

続詞花集を補完した形でちゃんとした勅撰集を出そうという計画は、
六条家にあったはずなのだが、
六条家がおそらく頼りにしていた二条天皇と高倉院は相次いで急死し、
六条家が働きかけて勅撰に関わっていたと思われる平家は都落ちしてしまった。
さらに六条家は清輔以降あまり勢いがふるわなかった。

そこでまあ、ほかが自滅して取り残された形で権力に返り咲いた後白河院をだしにして、
後白河院に比較的近かった俊成が、
源平合戦のさなかのドタバタに、えいやっとつくったのが千載集というものだろう。
当時、後白河院や俊成は頼朝に支援されてかなりお金持ちだった。

頼朝が歌がうまかったかどうかは今では私は懐疑的だ。
上洛して慈円とやりとりした歌くらいしか残ってない。
ふだんどういう歌を詠んでいたかわからないのである。
ということは九条家の慈円と交渉する都合上歌を詠み交わす必要があって、
だれか歌のうまい人に代詠してもらったか、あるいは添削してもらった可能性が高いのである。
そして慈円と頼朝がやりとりした歌を見比べてみると、
あの凡庸な慈円のほうがまだ頼朝よりもましにみえてくるのである。
慈円はやはりこういう即興の切り返しの技がうまかった。
だてにふだんからあれだけたくさんの歌を詠んだのではなかった。

もちろん実朝に関しては、彼がある種独特な個性的な歌人であったことは疑いようがない。
頼家も歌が残ってないだけで詠んでいたかもしれんが、記録に残ってないのでまったくわからない。